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最終話 『蜜色キャンバス』
しおりを挟む朝の陽ざしが、窓越しに柔らかく差し込んでいた。季節は春だというのに、心にはまだ少し、冬の名残のような寂しさが残っている。
私は、黒いワンピースの裾を軽く整えながら、正面の美術館を見上げた。
大理石の外壁には、季節の花々が影を落とし、その中央に飾られた一枚のパネルが、来場者の目を引いている。
『蜜色キャンバス』――画家・藤浪綾明による、初の大規模個展。
その文字を目にするだけで、胸が詰まった。
ーーやっと、ここまで来たのだ。
あの方が遺してくれた日々が、今日、ひとつの形になる。その意味を思うと、自然と背筋が伸びた。花束を抱きしめる手に、少しだけ力がこもる。
胸には、今も時折、あの方の声が響いている。
子どもたちの笑い声と重なるように、「菫さん、ありがとう」と笑う、あの彼の声が。
受付で招待状を差し出すと、案内係が丁寧に一礼した。
「関係者席でよろしいでしょうか、菫様」
「ええ……ありがとう」
エントランスから一歩、足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
静かで、温かくて、まるで蜜に包まれたような空間だった。
足音だけが、床へ静かに吸い込まれていく。通路の左右に並ぶ絵画は、どれも同じ人物を描いていた。
繊細な線と、あたたかな色彩ーー。
その中で微笑む彼は、どこか夢のようにやわらかく、穏やかな顔をしていた。
『始まりの玄関』
最初の作品の下には、そう題が添えられていて。隣には『目覚めの階段』と名付けられた作品が並んでいた。
水都さんが大理石の床に寝転び、綾明様が顔を覗き込んでいる絵だ。あのときの修羅場を思い出し、思わず口元が緩む。……まったく、油断も隙もない方だった。
『君を想って濡れた夜』
『恋人時間』
『夜空にとける、ふたりの吐息』
そのひとつひとつが、まるで彼の人生を辿るようで。見るたびに胸の奥が、じん、と熱くなる。そして、綾明様の想いが、色となって宿り、こちらへ届いてくる。
『きみがまだ、ここにいるから』
その一枚の絵の前で、私は足を止めた。
しゃがみ込んだ水都さんが、両腕にふたりの子どもを抱きしめている絵だった。瑞希坊ちゃまと明織お嬢さまが、あどけなく笑い、水都さんの頬にすり寄っている。
……でも、あの方の肩はほんの僅かに沈んでいて。笑っているのに、どこか切ない背中に、私は目が離せなかった。
目元に描かれた淡い陰影は、『強さと優しさと哀しさ』ーーそのすべてを含んでいるように見えて、思わず、手にしたハンカチを胸元で握りしめた。
この人は、最後の最後まで、生きることも、愛することも、愛されることも、手放さなかったのだと、深く、胸に刻まれる。
やわらかな春、まぶしい夏、寂しげな秋、そして白く、静かな冬。
歩みを進めるごとに色が移ろい、展示の最後に置かれた一枚の前で、私はそっと足を止めた。
『蜜色キャンバス』
その絵には、海辺の光に照らされ、筆を片手にした水都さんが描かれていた。
満面の笑み。とても幸せそうで、楽しそうでーー。
でもその背景は、淡く、やさしい色だけを宿した、未完成のキャンバスだった。
きっと綾明様は、最後まで描こうとしていたのだろう。けれど、筆は止まって、色だけがそっと残っていて。それでも不思議と、それは完成しているようにも見えた。
ーーなぜなら、あの方の人生そのものが、すでに、十分に美しいものであったから。
私は、持ってきた花束を静かにその前に捧げた。百合とひまわり。弔いと、彼の好きだった花を。
「……お疲れさまでした、水都さん」
そう呟いた、そのときだった。気配に気づき、振り返る。
そこに立っていたのは、綾明様だった。変わらず端正で、けれどその目元には、かすかに柔らかい陰りが差していた。
瑞希坊ちゃまと明織お嬢さまの小さな手を、それぞれ優しく握っている。取材者らしき女性が、綾明様に話しかけた。
「この絵は……どなたを描かれたんですか?」
綾明様は一瞬だけ、微笑んだ。
けれどその微笑みの奥には、痛みと誇りと、何よりも深い愛が静かに息づいていた。
「……僕の、すべてだった人です」
その言葉に、胸がきゅうっと締めつけられた。
ーーああ、きっとこれは、ただの個展じゃない。
絵を通して伝えたい、大切な想いが詰まった場所で。綾明様が水都さんを想い続けてきた、その軌跡なのだと、自然に胸へ響いてくる。
彼が見た空、触れた風、照らされた陽だまり。そのすべてが、あの方の人生の色彩であり、綾明様の愛の記憶なんだ。
そのとき、瑞希坊ちゃまが、くい、と綾明様の裾を引いた。
「ぱぱ~~、まま、ここにいるの?」
幼い声がそう尋ねたとき、綾明様は、ほんの少しだけ目を伏せて、そして、やわらかく微笑んだ。
「うん。ちゃんと、ここにいるよ」
その声音は、とても静かで、あたたかくて。まるでそこに、水都さんの存在が満ちているかのように感じられた。
綾明様が語りかけるように、キャンバスへ向けたその微笑みに、私は目を逸らすことができなかった。
そして私は、はっきりと理解した。
この絵に描かれたすべては、色も、光も、空気も、あの方の、生きた証だったのだと。
遠くで、綾明様の声が再び聞こえた。
「水都。君は……僕と子どもたちの中で、永遠に生きているよーー」
私は、そっと目を伏せ、胸の奥で静かに誓った。
これからも、彼らのそばで支えていこう、とーー。
fin.
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ーーーーーーーー
ーーーー
あとがき。
みなさん、こんにちは。霜月です。
完結まで『蜜色キャンバス~御曹司とオメガの禁断主従~』をご愛読いただき、ありがとうございます!
本当に、本当に、ここまで応援してくださり、感謝しています!
本編はこれにて、完結となります。
明日からは番外編、After Story、Another Story、Special Contentsを載せる予定です!
①水都の巣作りエピ(書いたけどストーリーの構成上、使うことができなかった)
②瑞希と明織のその後
③水都の甘やかされてるけど実は綾明を甘やかしてるらぶらぶ朝チュン(?)
④各キャラ設定や蜜色キャンバスのテーマ、あとがき
などを公開予定です!!(※執筆の都合上、公開の順番は上記の番号順とは限りません)全てを公開し終わったら、本当に完結となります。
初めはフランクな感じで始まっていたと思うのですが、物語が進めば進むほど、タイトルに重みが出てくる……そんなストーリーとなりました。
最後まで読み切って、振り返った時、綾明と水都たちが過ごしてきた、何気ない日々が尊いものだったと思えるような、そんなストーリーになっていたらいいな、と思います。
私自身、終盤は泣きながら執筆していたのですが、少しでも、この気持ちが届いていたら、嬉しいです。
これ以上は番外編(Special Contents)で語ると致しましょう!
長くなりましたが、たくさんのいいね、ラッパ、ブクマ、ありがとうございます!! とても執筆の励みになっています!
あと少しだけ、『蜜色キャンバス』と水都と綾明たちにお付き合い頂けると幸いです。
霜月。
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