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第七章 「ディストリビューション」
第55話 「依頼」
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魔獣襲撃の夜は、街全体がざわついていた。
リアディス市街には直接の被害は無かったが、平和な街に鳴り響いた警報音は人々の心を乱すには十分だった。
路地にはまだ緊張が残り、門兵が忙しく巡回している。帰宅を急ぐ人々の声が交錯し、屋台の灯りは早々に消され、普段は賑やかな商都の夜がまるで別の街のように沈んでいた。
俺とアイラは、人気の少ない道を選んで屋敷へと戻っていた。
「……もうすぐ、家です」
アイラが小さくつぶやいた。声色には、ほっとしたような響きが混じっている。
木々に囲まれた石畳の小道を抜けると、暗がりの中に灯りが見えてきた。
屋敷の玄関先に影が一つ。
「アディスさん!」
駆け寄ってきたのはヒカリだった。胸に手を当てて、大げさなほど安堵の表情を見せる。
「おかえりなさい…アイラさんも! 遅いから…心配……でした。それに…ずっと鐘の音……響いてて……なんだか怖くて」
「悪い、待たせたな」
「心配かけました」
俺とアイラがそれぞれ言葉を返すと、ヒカリはぱっと笑顔になった。
「よかった…です。夕食…できてます。今日は……少し…特別です」
玄関を入った瞬間、鼻をくすぐる香ばしい匂いが漂ってきた。スパイスの強い香り――俺の知っているものだ。
「……カレー?」
「そうです! 異世界といえばカレーかなと思いまして」
ヒカリが日本語で胸を張る。俺は思わず笑ってしまった。前世で数え切れないほど食べた、あの味。ここで再び出会うとは思わなかった。
「これは……なんですか?」
アイラが不思議そうに首を傾げる。
食卓に並べられたのはアイラにとっては見慣れぬ煮込み料理。。肉や野菜が煮崩れるほど柔らかく溶け込み、濃い琥珀色のルーから、香辛料の刺激が立ち上っている。
「食べてみたらわかる」
俺はそう言うと、パンをちぎりルーをたっぷりと絡めて口に運んだ。……懐かしい。辛さは控えめで、どこか家庭の味を思い出させる。米が無いからパンで食べているが、それでも十分に満たされた。
「おいしい……!」
アイラも口に入れた瞬間、目を見開いた。驚きと感動が混じった表情。アイラにとって未知の味覚だったのだろう。
「どうです? ……美味しいですか?」
ヒカリはどこか誇らしげに身を乗り出した。
「ああ、最高だ。よくこんな香辛料を手に入れられたな」
「朝…お買い物……行ったら、どうしてか…スパイスがいつもより……安かったんです」
ヒカリは得意げに笑った。アイラは頷きながら、何度もパンをカレーに浸しては口に運んでいた。
しばし三人で夕食を楽しんだ。温かい食卓。久しぶりに心の底から安らぎを覚えた。
だが、心の奥底では別の思考が途切れることなく巡っていた。
――次の一手をどう打つか。
食後、片づけを済ませると二人はすぐに眠りについた。疲れが限界まできていたのだろう。
寝室から小さな寝息が聞こえるのを確認し、俺はそっと屋敷を出た。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
街に戻ると、普段の喧騒が嘘のように静まり返っていた。家々の窓は閉ざされ、灯りはまばら。だがその中にも、武装した兵士の影が動き、街がまだ緊張に覆われていることを示していた。
俺は足早に石畳を進み、リアディス市街の外れにある古びたバーの扉を押した。
中は薄暗く、煙草の煙が漂っている。数人の客が酒を傾けていたが、皆一様にこちらを気にする様子はない。
カウンターに腰を低い声告げる。
「……夜の獣に似合う一杯を」
バーテンダーは無言で頷き、奥の扉へ視線を向ける。合言葉は通じたようだ。
奥の部屋に足を踏み入れる。
そこにはすでに一人。
黒髪に狼耳を持つ女――ミラ・ノアール。妖狼族の情報屋。鋭い赤い瞳が、暗がりでもぎらついている。
「やあ、君。今日は災難だったね」
「ああ、まったく勘弁してほしい」
軽い挨拶だけで椅子に腰を下ろす。
「それで?」
短いやり取りのあと、俺は静かに言葉を続けた。
「二つある。一つは情報操作だ。魔獣襲撃の件、アイラが放った魔法を――エリーナがやったことにしてほしい」
ミラの瞳が細くなる。
「なるほど。表向きは姉の手柄にするわけだ。それで、あのお嬢ちゃんを好奇の目から守ると?」
「そんなところだ」
ミラはわずかに口角を吊り上げる。その視線は獲物を値踏みするように冷ややかだ。
「もう一つ。イオナ・セイランという獣人の女を探している。足取りを洗ってほしい」
「学者の嬢さんか……随分厄介な名前を出す」
「できるか?」
「できない仕事は受けない。受けるってことは、そういうことだ」
「助かるよ」
前金を、アルカナプレートで決済する。
「それにしても、イオナ・セイラン……君も随分と厄介ごとに首を突っ込むつもりだね」
「多少の問題は承知しているつもりだ」
「自覚があるなら、いいさ」
そう言うとミラは立ち上がった。
「さて、早速動くとするか。ルミナスの嬢ちゃんの件は今から動かないと時間的に厳しそうだ」
「そうしてもらえると助かるよ」
俺も立ち上がり、短く礼を告げて部屋を出た。
バーを後にすると、外の空気はいつもよりも澄んでいた。
顔を上げる。心なしかいつもよりも星が多く見える気がする。
視線の先、取引所の真上にひときわ明るい星が輝いていた。
――さて、何が出てくるか?
心の中で呟き、俺は夜の街を歩きだした。
リアディス市街には直接の被害は無かったが、平和な街に鳴り響いた警報音は人々の心を乱すには十分だった。
路地にはまだ緊張が残り、門兵が忙しく巡回している。帰宅を急ぐ人々の声が交錯し、屋台の灯りは早々に消され、普段は賑やかな商都の夜がまるで別の街のように沈んでいた。
俺とアイラは、人気の少ない道を選んで屋敷へと戻っていた。
「……もうすぐ、家です」
アイラが小さくつぶやいた。声色には、ほっとしたような響きが混じっている。
木々に囲まれた石畳の小道を抜けると、暗がりの中に灯りが見えてきた。
屋敷の玄関先に影が一つ。
「アディスさん!」
駆け寄ってきたのはヒカリだった。胸に手を当てて、大げさなほど安堵の表情を見せる。
「おかえりなさい…アイラさんも! 遅いから…心配……でした。それに…ずっと鐘の音……響いてて……なんだか怖くて」
「悪い、待たせたな」
「心配かけました」
俺とアイラがそれぞれ言葉を返すと、ヒカリはぱっと笑顔になった。
「よかった…です。夕食…できてます。今日は……少し…特別です」
玄関を入った瞬間、鼻をくすぐる香ばしい匂いが漂ってきた。スパイスの強い香り――俺の知っているものだ。
「……カレー?」
「そうです! 異世界といえばカレーかなと思いまして」
ヒカリが日本語で胸を張る。俺は思わず笑ってしまった。前世で数え切れないほど食べた、あの味。ここで再び出会うとは思わなかった。
「これは……なんですか?」
アイラが不思議そうに首を傾げる。
食卓に並べられたのはアイラにとっては見慣れぬ煮込み料理。。肉や野菜が煮崩れるほど柔らかく溶け込み、濃い琥珀色のルーから、香辛料の刺激が立ち上っている。
「食べてみたらわかる」
俺はそう言うと、パンをちぎりルーをたっぷりと絡めて口に運んだ。……懐かしい。辛さは控えめで、どこか家庭の味を思い出させる。米が無いからパンで食べているが、それでも十分に満たされた。
「おいしい……!」
アイラも口に入れた瞬間、目を見開いた。驚きと感動が混じった表情。アイラにとって未知の味覚だったのだろう。
「どうです? ……美味しいですか?」
ヒカリはどこか誇らしげに身を乗り出した。
「ああ、最高だ。よくこんな香辛料を手に入れられたな」
「朝…お買い物……行ったら、どうしてか…スパイスがいつもより……安かったんです」
ヒカリは得意げに笑った。アイラは頷きながら、何度もパンをカレーに浸しては口に運んでいた。
しばし三人で夕食を楽しんだ。温かい食卓。久しぶりに心の底から安らぎを覚えた。
だが、心の奥底では別の思考が途切れることなく巡っていた。
――次の一手をどう打つか。
食後、片づけを済ませると二人はすぐに眠りについた。疲れが限界まできていたのだろう。
寝室から小さな寝息が聞こえるのを確認し、俺はそっと屋敷を出た。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
街に戻ると、普段の喧騒が嘘のように静まり返っていた。家々の窓は閉ざされ、灯りはまばら。だがその中にも、武装した兵士の影が動き、街がまだ緊張に覆われていることを示していた。
俺は足早に石畳を進み、リアディス市街の外れにある古びたバーの扉を押した。
中は薄暗く、煙草の煙が漂っている。数人の客が酒を傾けていたが、皆一様にこちらを気にする様子はない。
カウンターに腰を低い声告げる。
「……夜の獣に似合う一杯を」
バーテンダーは無言で頷き、奥の扉へ視線を向ける。合言葉は通じたようだ。
奥の部屋に足を踏み入れる。
そこにはすでに一人。
黒髪に狼耳を持つ女――ミラ・ノアール。妖狼族の情報屋。鋭い赤い瞳が、暗がりでもぎらついている。
「やあ、君。今日は災難だったね」
「ああ、まったく勘弁してほしい」
軽い挨拶だけで椅子に腰を下ろす。
「それで?」
短いやり取りのあと、俺は静かに言葉を続けた。
「二つある。一つは情報操作だ。魔獣襲撃の件、アイラが放った魔法を――エリーナがやったことにしてほしい」
ミラの瞳が細くなる。
「なるほど。表向きは姉の手柄にするわけだ。それで、あのお嬢ちゃんを好奇の目から守ると?」
「そんなところだ」
ミラはわずかに口角を吊り上げる。その視線は獲物を値踏みするように冷ややかだ。
「もう一つ。イオナ・セイランという獣人の女を探している。足取りを洗ってほしい」
「学者の嬢さんか……随分厄介な名前を出す」
「できるか?」
「できない仕事は受けない。受けるってことは、そういうことだ」
「助かるよ」
前金を、アルカナプレートで決済する。
「それにしても、イオナ・セイラン……君も随分と厄介ごとに首を突っ込むつもりだね」
「多少の問題は承知しているつもりだ」
「自覚があるなら、いいさ」
そう言うとミラは立ち上がった。
「さて、早速動くとするか。ルミナスの嬢ちゃんの件は今から動かないと時間的に厳しそうだ」
「そうしてもらえると助かるよ」
俺も立ち上がり、短く礼を告げて部屋を出た。
バーを後にすると、外の空気はいつもよりも澄んでいた。
顔を上げる。心なしかいつもよりも星が多く見える気がする。
視線の先、取引所の真上にひときわ明るい星が輝いていた。
――さて、何が出てくるか?
心の中で呟き、俺は夜の街を歩きだした。
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