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第九章 「リヴァージョン」
Intermission 26 「魔女の軍勢」
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~憲章暦997年4月29日(闇の日)~
アズーリア帝国南西部。レオリアとの国境に接した小都市ロイトム――名称も地図上に小さく記されるだけの、平凡な守備拠点だった。
その守備隊司令部に、最初の急報が届いたのは、正午を少し過ぎたころだった。
「な……なんだと? 砦が壊滅?」
報告書を掴んだ司令官の声が裏返った。
「し、しかし司令! 死者はゼロだと……」
「馬鹿な。砦の壁が、全部吹き飛んだって書いてあるぞ!?」
司令室にいた将校たちは互いの顔を見合わせた。攻撃魔法の痕跡は無数にあったという。複雑な多層術式の残滓、焼け焦げた石材、融解した金属。
だが、不思議なことに、兵の死体は一つもない。破壊された砦に取り残されていたのは、倒れた装備と空になった倉庫だけだった。
「こんな攻撃……レオリアがやったとでも?」
「無理です。ヴェール山脈は通れません。軍勢なんて動かせるわけがない」
この国境線は、山脈が自然の盾となっている。歴史上一度として、大軍が越えたことはない。今度の戦争でも、この方面では戦闘は起こらないはずだった。
だが、
「偵察隊を出せ。砦周辺と越境路を全部洗え!」
「はっ!」
数刻後、帰還した偵察兵が報告した。
「敵影、見当たりません! レオリア軍の姿はどこにも!」
「なら……誰が砦を?」
この時点で、誰も答えを出せなかった。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
翌日。再び、あり得ない報告が飛び込んできた。
「補給部隊の倉庫が破壊されました!」
「またか!?」
「人的被害ゼロ。倉庫のみ、跡形もありません! 爆裂痕が多数……」
司令官の怒号が飛ぶ。
「一体どこの誰がこんな真似を……!」
兵たちは怯え始めた。敵部隊の姿を誰も見ない。足跡もない。痕跡すら残らない。
ただ、砦や倉庫だけが、正確に、無慈悲に破壊されていく。
司令部の机には、連日届く報告書が積み上げられた。
――物資集積所、破壊。死者ゼロ。
――軍馬厩舎、焼失。馬はすべて逃がされていた。
――補給隊、荷馬車のみ破壊。隊員は全員無事。
被害は広がる一方だった。にもかかわらず、誰も死んでいないという不自然さが、兵たちの不安をさらに強めていった。
「これは……攻撃か? 威嚇か?」
「何が目的なんだ……?」
兵士たちは答えを見つけられないまま、ただ恐怖だけを心に積み重ねていった。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
三日目、最初の噂が流れた。
「……桃色の髪の女を見た者がいるそうです」
報告したのは、補給線の巡察に出ていた小隊長だった。
「桃色?」
「はい。黒煙の中、倉庫を見下ろす丘の上で、風になびく桃色の髪の……女のような姿を見た、と」
司令官と将校たちは顔をしかめた。
「馬鹿げている。そんな話を信じろと言うのか?」
「ですが、複数の隊員が同じ証言を……」
その場では誰も取り合わなかった。
だが奇妙なことに、翌日、別の地点でも同じ報告が上がった。
「撤退した部隊の兵士が『桃色の髪を見た』と」
「倉庫が燃えた時、丘の向こうに……」
「野営地が壊された時、遠くの崖の縁に……」
ひとつひとつは信憑性のない目撃談。
だが、噂は着実に広がっていった。
「桃色の髪の魔女が、アズーリアの補給線を壊滅させているらしい」
兵たちの間では、すでに名がつけられ始めていた。
――桃色の魔女。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
報告はとうとう、帝都アズラフィアの皇帝ルキウスの元にも届いた。
「……ふざけた話だな」
書類を投げ捨てながら、ルキウスは苛立ちを隠そうともしなかった。
「魔女の軍勢だと? 寝言を言うな。正体不明の破壊工作部隊に決まっている!」
「しかし、陛下。攻撃は広範囲に散発的で、行動速度も尋常では……」
「ならば捉えろ。どんな小隊でも構わん。影でも尻尾でもいい、正体を暴け!」
皇帝命令のもと、国内の治安部隊と魔法士団が総動員された。
しかし――結果は空振りだった。
国内のどこにも、大規模な部隊の移動痕跡はない。
魔法士の集団行動の痕跡もない。
だというのに、補給線だけが正確に破壊され続けた。
陰に潜む敵は、姿を見せず、道も残さないまま、国の動脈を断ち続ける。
ただでさえ、先日の小麦暴落の影響で厳しい状況だった国庫をさらに圧迫していくことになった。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
補給を失った各部隊は、とうとう住民への徴発を始めた。
「軍がまた食料を奪っていった!」
「馬まで持っていかれたぞ!」
「領主が死んでから、誰も守ってくれん!」
最初は不満だった。
次に怒りへ変わり、
やがて――反乱になった。
反乱が最初に起きたのはアズーリア東部。徴発に耐えかねた村民たちが武器を取り、駐屯兵を追い払った。
『反乱軍の指導者は――アルド・グラニエ』
その名を聞いたとき、帝国中がどよめいた。
クーデターの混乱で死亡したとされていた東部国境の辺境伯だった。
「死んだはずじゃ……」
「生きていたのか!」
アルド・グラニエ率いる反乱軍は、最初の勝利をきっかけに勢力を広げていった。
そして、ここでもあの噂が生まれた。
「戦いの直前、丘に桃色の髪の女を見た」
「反乱軍が勝つところには、必ず桃色の髪の魔女がいる」
誰も真偽を確認していない。誰も、その姿を近くで見ていない。
だが、噂は噂として、兵たちの心に深く刻まれていった。
帝国は揺れた。
南西では補給線が破壊され続け、北東では反乱軍が勢いを増し、中部では徴発に怯える民がざわつく。
そして、どの混乱の背景にも――
「桃色の髪の魔女を見た」
その証言だけが、決まって残されていた。
それは亡霊のように現れ、戦場の結果だけを変えて消える。軍勢を率いるわけでもなく、魔法の痕跡すら残さず。ただ、目撃した者の心に、深い恐怖と確信だけを刻みつけた。
やがて、兵たちはこう囁くようになった。
「砦が壊れたら、魔女が通った証拠だ」
「補給が途絶えたら、魔女が見ていると思え」
「反乱が勝つ場所には、桃色の髪の魔女が微笑んでいる」
帝国を覆う影は、まだ誰にも正体をつかめない。そして、その影が何を望んでいるのかすら、分からない。
ただ――
アズーリア帝国の混乱は、ここからさらに深まっていく。
その中心には、姿なき魔女の軍勢がいるという噂だけが、日に日に大きくなっていった。
アズーリア帝国南西部。レオリアとの国境に接した小都市ロイトム――名称も地図上に小さく記されるだけの、平凡な守備拠点だった。
その守備隊司令部に、最初の急報が届いたのは、正午を少し過ぎたころだった。
「な……なんだと? 砦が壊滅?」
報告書を掴んだ司令官の声が裏返った。
「し、しかし司令! 死者はゼロだと……」
「馬鹿な。砦の壁が、全部吹き飛んだって書いてあるぞ!?」
司令室にいた将校たちは互いの顔を見合わせた。攻撃魔法の痕跡は無数にあったという。複雑な多層術式の残滓、焼け焦げた石材、融解した金属。
だが、不思議なことに、兵の死体は一つもない。破壊された砦に取り残されていたのは、倒れた装備と空になった倉庫だけだった。
「こんな攻撃……レオリアがやったとでも?」
「無理です。ヴェール山脈は通れません。軍勢なんて動かせるわけがない」
この国境線は、山脈が自然の盾となっている。歴史上一度として、大軍が越えたことはない。今度の戦争でも、この方面では戦闘は起こらないはずだった。
だが、
「偵察隊を出せ。砦周辺と越境路を全部洗え!」
「はっ!」
数刻後、帰還した偵察兵が報告した。
「敵影、見当たりません! レオリア軍の姿はどこにも!」
「なら……誰が砦を?」
この時点で、誰も答えを出せなかった。
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翌日。再び、あり得ない報告が飛び込んできた。
「補給部隊の倉庫が破壊されました!」
「またか!?」
「人的被害ゼロ。倉庫のみ、跡形もありません! 爆裂痕が多数……」
司令官の怒号が飛ぶ。
「一体どこの誰がこんな真似を……!」
兵たちは怯え始めた。敵部隊の姿を誰も見ない。足跡もない。痕跡すら残らない。
ただ、砦や倉庫だけが、正確に、無慈悲に破壊されていく。
司令部の机には、連日届く報告書が積み上げられた。
――物資集積所、破壊。死者ゼロ。
――軍馬厩舎、焼失。馬はすべて逃がされていた。
――補給隊、荷馬車のみ破壊。隊員は全員無事。
被害は広がる一方だった。にもかかわらず、誰も死んでいないという不自然さが、兵たちの不安をさらに強めていった。
「これは……攻撃か? 威嚇か?」
「何が目的なんだ……?」
兵士たちは答えを見つけられないまま、ただ恐怖だけを心に積み重ねていった。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
三日目、最初の噂が流れた。
「……桃色の髪の女を見た者がいるそうです」
報告したのは、補給線の巡察に出ていた小隊長だった。
「桃色?」
「はい。黒煙の中、倉庫を見下ろす丘の上で、風になびく桃色の髪の……女のような姿を見た、と」
司令官と将校たちは顔をしかめた。
「馬鹿げている。そんな話を信じろと言うのか?」
「ですが、複数の隊員が同じ証言を……」
その場では誰も取り合わなかった。
だが奇妙なことに、翌日、別の地点でも同じ報告が上がった。
「撤退した部隊の兵士が『桃色の髪を見た』と」
「倉庫が燃えた時、丘の向こうに……」
「野営地が壊された時、遠くの崖の縁に……」
ひとつひとつは信憑性のない目撃談。
だが、噂は着実に広がっていった。
「桃色の髪の魔女が、アズーリアの補給線を壊滅させているらしい」
兵たちの間では、すでに名がつけられ始めていた。
――桃色の魔女。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
報告はとうとう、帝都アズラフィアの皇帝ルキウスの元にも届いた。
「……ふざけた話だな」
書類を投げ捨てながら、ルキウスは苛立ちを隠そうともしなかった。
「魔女の軍勢だと? 寝言を言うな。正体不明の破壊工作部隊に決まっている!」
「しかし、陛下。攻撃は広範囲に散発的で、行動速度も尋常では……」
「ならば捉えろ。どんな小隊でも構わん。影でも尻尾でもいい、正体を暴け!」
皇帝命令のもと、国内の治安部隊と魔法士団が総動員された。
しかし――結果は空振りだった。
国内のどこにも、大規模な部隊の移動痕跡はない。
魔法士の集団行動の痕跡もない。
だというのに、補給線だけが正確に破壊され続けた。
陰に潜む敵は、姿を見せず、道も残さないまま、国の動脈を断ち続ける。
ただでさえ、先日の小麦暴落の影響で厳しい状況だった国庫をさらに圧迫していくことになった。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
補給を失った各部隊は、とうとう住民への徴発を始めた。
「軍がまた食料を奪っていった!」
「馬まで持っていかれたぞ!」
「領主が死んでから、誰も守ってくれん!」
最初は不満だった。
次に怒りへ変わり、
やがて――反乱になった。
反乱が最初に起きたのはアズーリア東部。徴発に耐えかねた村民たちが武器を取り、駐屯兵を追い払った。
『反乱軍の指導者は――アルド・グラニエ』
その名を聞いたとき、帝国中がどよめいた。
クーデターの混乱で死亡したとされていた東部国境の辺境伯だった。
「死んだはずじゃ……」
「生きていたのか!」
アルド・グラニエ率いる反乱軍は、最初の勝利をきっかけに勢力を広げていった。
そして、ここでもあの噂が生まれた。
「戦いの直前、丘に桃色の髪の女を見た」
「反乱軍が勝つところには、必ず桃色の髪の魔女がいる」
誰も真偽を確認していない。誰も、その姿を近くで見ていない。
だが、噂は噂として、兵たちの心に深く刻まれていった。
帝国は揺れた。
南西では補給線が破壊され続け、北東では反乱軍が勢いを増し、中部では徴発に怯える民がざわつく。
そして、どの混乱の背景にも――
「桃色の髪の魔女を見た」
その証言だけが、決まって残されていた。
それは亡霊のように現れ、戦場の結果だけを変えて消える。軍勢を率いるわけでもなく、魔法の痕跡すら残さず。ただ、目撃した者の心に、深い恐怖と確信だけを刻みつけた。
やがて、兵たちはこう囁くようになった。
「砦が壊れたら、魔女が通った証拠だ」
「補給が途絶えたら、魔女が見ていると思え」
「反乱が勝つ場所には、桃色の髪の魔女が微笑んでいる」
帝国を覆う影は、まだ誰にも正体をつかめない。そして、その影が何を望んでいるのかすら、分からない。
ただ――
アズーリア帝国の混乱は、ここからさらに深まっていく。
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