彼岸の王と首斬り姫

KaoLi

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第一章

第九話 火急の用

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 兄と同行してきていた水紀里は兄の空気が乱れたことを察知し、彼の目の前にいた裏業が彼にとって『悪』であると判断した。そして裏業を勝手に敵と認識した水紀里は水埜辺の前へ現れ、自身の右手を勢いよく裏業の喉元に突き付けた。一方の裏業も水埜辺の落ち込んだ表情にどうしていいのか分からず、とりあえず声を掛けなければと手を伸ばそうとした。その瞬間どこからかピンッと張り詰めた殺気を感じ、一歩離れ刀に手を添える。少し力を加えればすぐにでも刃を抜くことができる状況だった。

「ちょ、ちょいちょい二人とも! どうしたっていうのさ」
「兄様。この者は兄様に刃を向けようとおります。敵です!」
「いやいやいや、この子は裏業と言って、最近友人になった子で……。っていうか今はそういうことじゃなくて! ほら、裏業も。それを納めてはくれまいか?」
「これだけ殺気を放っている奴に納める義理はない」
「言うじゃない人間のくせに」
「水紀里、」
「奴良野の住人はやはり獣の集まりだったか!」
「裏業!」

 水埜辺が二人を止めようとするも両者はついに互いの武器を抜いていた。だが、その攻撃は水埜辺本人の手によって抑止される。
 奥老院の廊下にぽたぽたと赤い雫が五滴ほど滴る。裏業の刃先が水埜辺の左手の中に納まっていた。それは摩擦によって手に切り傷を負わせた。右手には水紀里の手を掴んでいる。

「に、兄様?」
「――つうぅ……。はあ、紀里、少しは落ち着いたかい?」
「あ、ああ! 私なんてこと……! 申し訳ございません!!」

 水紀里の手を握っていた右手がよく見てみればパキキッと高い音を鳴らしている。動かしてしまえば、すぐに折れて粉々になってしまうのではないかと思うくらいにその手は割れ始めていた。

「いいよ。俺の危機感が足らなかった所為だ。守ってくれようとしたんだよな。ありがとう紀里」
「い、いえ……ああ、……!」
「え、嘘⁉」

 その光景は裏業にとって、とても刺激的であり、同時に畏怖するものだった。
 何故、この男は刀で斬られても痛みで叫ばないのか。何故、この男の右手は凍っているのだろうか。何故、あの女から人の臭いがしないのだろうか。
 裏業の頭の中には理解の追い付かない出来事が、今まさに現実に目の前で起きていた。これはなんだと考えても、答えが出ないことくらい理解できているつもりだった。はずだったのだけれど。『これはなんだ』と考えることすらできない状況下にいてはもはや裏業になすはないと言える。

「な、んだ……それは……」

 だから、まず口から出た言葉は空気にも似ていただろう。まるで化け物を目の当たりにしたような目で、裏業は水埜辺を見た。

「……ああ。裏業も、もう大丈夫そうだね」
「その、手は……」
「ん? あ、うん。大丈夫大丈夫。こういうのはすぐに治るから心配しないで」
「いえ兄様。まずは氷を溶かさなければ話になりませんわ」
「うん、道のりは長いらしいな!」
「――違うだろ!」

 恐る恐る裏業は水埜辺に指をさす。その行為に水紀里がまた反応するがそれを水埜辺は優しく静止した。きっと、何を言われるのか大体の想像がついたからだろう。水埜辺は笑顔のままだった。

「……なんで、私が斬った傷がもう消え始めてるんだ……」

 予想通り過ぎる言葉に水埜辺は思わず声を上げて笑い出した。

「あはははっ。可愛いなあ……。どうしてだか知りたいのかい、裏業?」

 知りたいと思う自分と、知ってしまったらと思う自分が脳内で戦っていた。その答えは既に出ていたというのに、果たして、どう選択すれば私は正しくいられるのかと裏業は悩む。

「実は……、――――」

 水埜辺はそこまで言うと、途中で言葉を止めた。

「どうした……?」

 水埜辺は黙ったまま、部屋の入り口を見つめていた。

「おい――」
「失礼いたします!」

 声を掛けようとした瞬間、入口の方から橋具の使いの者が来た。恐らく彼がここに来ると分かっていたのだろう。視線が後ろに控えていた水紀里よりもさらに先へと向けられる。

「どうしたのだ、声を荒げて」

 先程までの動揺は薄れているものの、いつもの冷静さを失っている裏業。そんな彼女を使いの者は見たことがなかったため、少し妙だと感じていたことだろう。一瞬だけ、息を詰まらせていた。

「……は、はいっ。橋具様がそちらの、奴良野殿をお呼びです」
「? 俺? 裏業ちゃんではなく?」
「は。何でも火急の用だと申しておりまして」

 火急の用だと?
 裏業の中で何かが胸の奥でざわついた。
 どうして水埜辺だけが呼ばれるのか。橋具は普段より『火急の伝え』など使わない。ましてあの橋具のことだ。その言葉の裏に何かあるに違いない。そうに決まっている。
 何よりも『何か』という言葉に裏業はあの言葉を思い出す。

 ――「奴良野を、落とす」

 もしかすると、橋具は奴良野山滅失計画を強行するつもりなのか? 裏業の頭に不安が過ぎる。

「……そうかい。ではすぐに行かなくてはならないね」
「ご案内いたします」
「ああ、それには及ばないよ。からね。伝えてくれてありがとう」
「そ、そうですか……?」

 きっと使いの者はその言葉の意味を理解できなかったことだろう。それでは、と使いの者が戻ろうとすると「あ」と水埜辺は彼を呼び止めた。使いの者は疑問符を頭の上に浮かべている。

「先に戻って伝えてくれないか。すぐに行く、どこにも逃げないから安心して待っていろとね」

 一体、この男はどこまで読んでいるのだろうか。裏業にはもう分からなかった。水埜辺からの言伝を預かった使いの者は、彼の笑みに逆らえずにそのまま橋具の元へと帰って行った。

「さて、と。水紀里、俺は裏業ちゃんと一緒に橋具くんに会いに行ってくる。お前は先に帰ってくれないか?」

 その言葉を聞いた水紀里は目を見開き、水埜辺に突っかかる。

「しかし兄様!」
「大丈夫。兄様は強い。そうだろう?」

 水紀里は、彼の目を見てぐっと喉まで出ていた反論を無理やり飲み込んだ。

「……はい。では、私はここで失礼いたします兄様」

 水埜辺に一礼し、帰り際一瞬裏業を睨みつけたのち、そのままその場を去った。

 ❀

「……妹が、すまなかったね裏業」
「え」

 不意に名前を呼ばれ、裏業は肩を震わせた。

「いきなり殺気立ったりして。恐かっただろ」

 水埜辺は、兄が妹に対してするように裏業の頭を撫でた。何故だか少し安心した。この感覚をどこかで感じたと思う記憶があるのは、どうしてなのか。目線を戻すと彼はにこりと微笑んでいた。

「いや、私は……」
「皆まで言わなくても大丈夫。水紀里は怒るとめちゃくちゃ恐いから」

 ――いやそれよりも。と裏業は口を挟もうと思ったが、この男には何を言ってもはぐらかされるに違いない。意味をなさないと裏業はこの短期間によって彼の性格を理解し始めていた。

「……にしても橋具くん、何の話だろう。ねぇ、裏業ちゃんは何の話をするのか大体の想像つく?」

 背筋が凍る感覚。つかないと言えば嘘になる。思いつくのは彼の住む奴良野山への火攻めだ。けれど住人である水埜辺に果たして伝えてもいいのだろうか。伝えなければならないということは十分理解しているが裏業はまだこの男のことを全て信頼しているわけではなかった。

「……つかない」

 嘘を、ついてしまった。

「……そっか。うん、まあそうだよねぇ。あの人の考えてることって、よく分からないよね」

 彼の言葉に裏業は少しだけ胸を痛めた。何故痛んだのか、彼女にはまだ理解することは難しいだろう。今まで、ここまで感情を動かされたことがなかった為だ。どうすることの出来ない気持ちをどこに仕舞えばいいのか、むず痒い気分になった裏業であった。
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