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第二章
第二十三話 雨の日の残響
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この日は雨だった。
屋敷の中は相変わらず忙しなく普段通りであった。あの後帰宅した際、橋具は既に屋敷に戻っていた。あの桔梗院有清という男はどうも気が許せない。どうしてあんな男を懐に置いておくのか。
奴良野の者たちよりも、ずっと、信じられない。
雨天時に裏業の行いはない。こういう日だけが唯一裏業の心を休める休息の時間であった。その一方でほんの少しだけ気分が重くなる。
「……。雨、か」
先日書き記すことができなかった記録の続きをしよう。裏業は筆を執り、今まで断罪してきた者たちを記録していく。誰かが覚えていなければ、あの者たちは一体どこに帰ればいいのか。と、考える時がある。罪人である彼らを誰が覚えていてくれるか。家の名に傷がつくことを恐れる家系も少なくはないのだ。疎遠にされることも少なくはない。
最期の時を共にするのは裏業の務め。
覚えていれば少しでも報われよう。そう、考えていた。
『芦屋太一郎』と名を記したところで裏業の筆が止まる。
「……大変、あなたには世話になったな。……ご子息の名は太助と言って、彼女によく似ていたよ。…………ひと目でも、見せてやりたかったな……」
紙面に記された彼の名をひと撫でする。不思議とこの名前を見ていると、心が温かく感じた。きっと、今までの人たちとは違う人だったからこそ、彼は裏業の記憶の中でずっと生き続けることだろう。
――ありがとう、裏業殿。
「――え?」
一瞬、雨音が止み、そよ風が裏業の髪を掠めた。その時、彼の声が聞こえた気がした。それは温かくて、優しい声だった。
「……こちらこそ、ありがとう」
サァア……と、また雨の音がする。
一通りの記録を終えひと段落しようと机の上に記録書を置く。お茶でも淹れようかと思い立ち上がった時、裏業の服の裾からカサリと音を立てて何かが落ちた。それは昨日、水埜辺から預かった文だった。
「そう言えば、奴良野殿の文を橋具様へまだ届けていなかったな……」
少しだけしわが出来てしまっているが読むには支障はないだろう。
「ん?」
ふと、文の隙間から一枚の黒い鳥の羽のようなものが畳の上に落ちた。
――なんだろう、これ。
さしずめ、彼の住む山の鳥のものだろうか。下山している最中に文に紛れ込んでしまったのだろう。裏業はその黒羽を拾い、後で捨てようと懐に仕舞った。
橋具に会うために前老院へ向かう。部屋に辿り着き襖を開けようとしたとき、少しだけ隙間が空いていたので中を覗くと橋具と有清がそこにいた。無意識に裏業は身構える。
「……橋具様、裏業です。入ります」
動揺が悟られないように深呼吸をして入室する。
「やあ、裏業殿」
「……お久し振りでございます。して……桔梗院様は何故、前老院に?」
「何。本日は橋具様に呼ばれてのこと。お茶をしに、遊びに来たんだよ」
「――裏業、どうした」
いつもと、何かが違うと思うのに、その違和感の正体がなんなのか分からない。
「あ、いえ。ただ、少しだけ気になっただけでございます。面会のご予定などお聞きしていなかったので。あの……橋具様」
こちらを、と裏業は水埜辺から預かっていた文を橋具に手渡した。橋具はそれを受け取り、一通り目を通すと「ふむ」と言ってその文を抛った。
「……え」
「裏業、それは燃やしておきなさい。では、茶室へ行こうか、有清」
「はーい。じゃあまたね、裏業殿」
あの橋具がこんなことをするなんて。裏業は納得がいかないが仕方がないと割り切り、一歩下がって一礼した。そして抛られた彼の文を拾う。しわになってしまったそれがどこか寂しそうに見えて、裏業は哀しくなった。文を懐に仕舞い室内から去ろうとしたその時、ぞわりと背筋に冷たいものが走った。
この感覚には、覚えがあった。ゆっくりと前を向く。何か嫌な気配が過ぎる。――橋具の身体に黒い靄が纏わりついていた。
「――!! 桔梗院、貴様父上に何をした!!」
裏業は無意識のうちに叫んでいた。次の瞬間、有清が裏業の方向へ振り向き、にやぁと不気味な笑みを浮かべた。やはりこの男がやったのだ。裏業は感情の制御が聞かなくなっており、気付いたときには朝凪を抜刀していた。錆びついてはいるが、殺傷できずとも何かしらを負わせることは可能だろう。目の前の男は、自分の知っている『桔梗院有清』ではなかった。
「何をしたと思う?」
底知れぬ有清の毒気に肺が圧し潰されそうになる。今ここで気を失ってはいけない。殺されかねない。必死に気を保とうと裏業は抜刀した朝凪の刃を右掌を使い握りしめ傷つけた。つぅ……と右手から赤い血が室内を汚していく。しかし今は痛いなど弱音を吐いている場合ではない。裏業は痛みに耐えつつ、有清を睨み続けた。
「分かんないならさ、邪魔、しないでよね!」
有清は自身の着物の懐から短刀を取り出し、それを思い切り動けない裏業の頭上に振り下ろした。
――やられる……!!
と、思ったそのとき、仕舞っていたはずの水埜辺の黒羽がふわりと目の前を浮かび、そして眩い光を放った。かと思えば瞬間、裏業がその場から消えた。
「……ふーん。変な仲間もいるもんだな」
有清は再び、にやぁっと笑い、橋具を連れて茶室へと向かったのだった。
屋敷の中は相変わらず忙しなく普段通りであった。あの後帰宅した際、橋具は既に屋敷に戻っていた。あの桔梗院有清という男はどうも気が許せない。どうしてあんな男を懐に置いておくのか。
奴良野の者たちよりも、ずっと、信じられない。
雨天時に裏業の行いはない。こういう日だけが唯一裏業の心を休める休息の時間であった。その一方でほんの少しだけ気分が重くなる。
「……。雨、か」
先日書き記すことができなかった記録の続きをしよう。裏業は筆を執り、今まで断罪してきた者たちを記録していく。誰かが覚えていなければ、あの者たちは一体どこに帰ればいいのか。と、考える時がある。罪人である彼らを誰が覚えていてくれるか。家の名に傷がつくことを恐れる家系も少なくはないのだ。疎遠にされることも少なくはない。
最期の時を共にするのは裏業の務め。
覚えていれば少しでも報われよう。そう、考えていた。
『芦屋太一郎』と名を記したところで裏業の筆が止まる。
「……大変、あなたには世話になったな。……ご子息の名は太助と言って、彼女によく似ていたよ。…………ひと目でも、見せてやりたかったな……」
紙面に記された彼の名をひと撫でする。不思議とこの名前を見ていると、心が温かく感じた。きっと、今までの人たちとは違う人だったからこそ、彼は裏業の記憶の中でずっと生き続けることだろう。
――ありがとう、裏業殿。
「――え?」
一瞬、雨音が止み、そよ風が裏業の髪を掠めた。その時、彼の声が聞こえた気がした。それは温かくて、優しい声だった。
「……こちらこそ、ありがとう」
サァア……と、また雨の音がする。
一通りの記録を終えひと段落しようと机の上に記録書を置く。お茶でも淹れようかと思い立ち上がった時、裏業の服の裾からカサリと音を立てて何かが落ちた。それは昨日、水埜辺から預かった文だった。
「そう言えば、奴良野殿の文を橋具様へまだ届けていなかったな……」
少しだけしわが出来てしまっているが読むには支障はないだろう。
「ん?」
ふと、文の隙間から一枚の黒い鳥の羽のようなものが畳の上に落ちた。
――なんだろう、これ。
さしずめ、彼の住む山の鳥のものだろうか。下山している最中に文に紛れ込んでしまったのだろう。裏業はその黒羽を拾い、後で捨てようと懐に仕舞った。
橋具に会うために前老院へ向かう。部屋に辿り着き襖を開けようとしたとき、少しだけ隙間が空いていたので中を覗くと橋具と有清がそこにいた。無意識に裏業は身構える。
「……橋具様、裏業です。入ります」
動揺が悟られないように深呼吸をして入室する。
「やあ、裏業殿」
「……お久し振りでございます。して……桔梗院様は何故、前老院に?」
「何。本日は橋具様に呼ばれてのこと。お茶をしに、遊びに来たんだよ」
「――裏業、どうした」
いつもと、何かが違うと思うのに、その違和感の正体がなんなのか分からない。
「あ、いえ。ただ、少しだけ気になっただけでございます。面会のご予定などお聞きしていなかったので。あの……橋具様」
こちらを、と裏業は水埜辺から預かっていた文を橋具に手渡した。橋具はそれを受け取り、一通り目を通すと「ふむ」と言ってその文を抛った。
「……え」
「裏業、それは燃やしておきなさい。では、茶室へ行こうか、有清」
「はーい。じゃあまたね、裏業殿」
あの橋具がこんなことをするなんて。裏業は納得がいかないが仕方がないと割り切り、一歩下がって一礼した。そして抛られた彼の文を拾う。しわになってしまったそれがどこか寂しそうに見えて、裏業は哀しくなった。文を懐に仕舞い室内から去ろうとしたその時、ぞわりと背筋に冷たいものが走った。
この感覚には、覚えがあった。ゆっくりと前を向く。何か嫌な気配が過ぎる。――橋具の身体に黒い靄が纏わりついていた。
「――!! 桔梗院、貴様父上に何をした!!」
裏業は無意識のうちに叫んでいた。次の瞬間、有清が裏業の方向へ振り向き、にやぁと不気味な笑みを浮かべた。やはりこの男がやったのだ。裏業は感情の制御が聞かなくなっており、気付いたときには朝凪を抜刀していた。錆びついてはいるが、殺傷できずとも何かしらを負わせることは可能だろう。目の前の男は、自分の知っている『桔梗院有清』ではなかった。
「何をしたと思う?」
底知れぬ有清の毒気に肺が圧し潰されそうになる。今ここで気を失ってはいけない。殺されかねない。必死に気を保とうと裏業は抜刀した朝凪の刃を右掌を使い握りしめ傷つけた。つぅ……と右手から赤い血が室内を汚していく。しかし今は痛いなど弱音を吐いている場合ではない。裏業は痛みに耐えつつ、有清を睨み続けた。
「分かんないならさ、邪魔、しないでよね!」
有清は自身の着物の懐から短刀を取り出し、それを思い切り動けない裏業の頭上に振り下ろした。
――やられる……!!
と、思ったそのとき、仕舞っていたはずの水埜辺の黒羽がふわりと目の前を浮かび、そして眩い光を放った。かと思えば瞬間、裏業がその場から消えた。
「……ふーん。変な仲間もいるもんだな」
有清は再び、にやぁっと笑い、橋具を連れて茶室へと向かったのだった。
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