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第五章
第四十二話 崩れる心
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目を開けると裏業はいつの間にか桔梗宮邸に立っていた。外に出たと思っていたが、立っていた場所は奥老院の自室の前だった。変わらず破壊されたままの自室に眩暈がする。
さらに不思議だったのは時間の経過状況だ。彼岸に一日半ほど泊したのに対し、此岸の世界では半刻も過ぎてはいなかった。辺りは未だ夜更けも来ておらず、何やら騒がしくしていた。
「……まるで、お伽噺のようだったな」
夢のような、しかし現実の話。目で見、耳で聞いたことが全てなのだ。信じたくはないが、信じられないことが実際自分の身に起こっている。そう思うと少し可笑しくなり、裏業は笑ってしまった。使い蝶はもういなかった。
昨夜――というか今夜。謎の敵の襲来により桔梗宮邸の中は慌ただしくしていた。大体のことは何故慌ただしいのか想像が出来ていたので、裏業は橋具のいる前老院に向かった。昔からこの屋敷に仕えている女中が、裏業を見つけるやいなや急にその場に泣き崩れた。何でも、その女中は帰宅する準備を終えた時、急に轟音が奥老院から聞こえたのだという。それがあの時の『妖怪憑』という門番が裏業たちを襲撃した時のことだろう。恐ろしくて近付くことが出来ず、裏業の安否すら分からなかったという。
すまないことをしたと裏業は思った。
その後、騒音などが収まった頃、桔梗宮邸の守護隊が奥老院に突入した。しかし、そこに裏業はおらず、代わりに荒らされた部屋と門番が倒れており、彼は既に息絶えていたそうだ。
この事件のおかげで奥老院は暫く使用することが出来なくなってしまった。協議の結果、一時的ではあるが裏業を含む奥老院で働いている者全員、橋具のいる前老院に移ることとなった。何年振りかの、親子水入らずの生活が戻ってきたと、周りは言うだろう。裏業にとっては気まずい他なかった。なにせ橋具と暮らすのは実に、浅乃助を死なせてしまったあの時以来なのだから。
「今夜は大変だったな、裏業」
「……いえ。橋具様もご無事で何よりでした」
「これで、暫くは『裏業』も出来ないな」
「……はい」
内心、裏業は仕事が出来なくなったことに安心していた。これ以上、罪人とはいえ人を斬ることはしたくなかった。それは、水埜辺も該当する。
それに、あの時見えていた橋具に纏わりついていた黒い靄も消えており、とりあえず気の所為だったかと裏業は安堵した。
「残念だな。お前の美技を見るのが楽しみであったのに……。まあ、仕方ない。――ところで乃花」
頭を下げていた裏業は思わず勢いよく顔を上げた。
もう何年も呼ばれていない、自分の名前。忘れかけていた大切な名前。だが、呼ばれて嬉しいとは思わなかったのは何故だろう。声音があの頃のような優しいものではなかったからだろうか。背筋が凍り、橋具の目を直視したきり目が離せない。
「……は、い。……父上……」
声を出すのが限界だった。
「ここにいる以上はそのみすぼらしい姿はいけないな。……入れ!」
パンパンッ、と橋具は掌を二度ほど叩いて鳴らした。すると室外に待機していたのであろうこの屋敷の女中たちが入室する。なかなかの夜更けだというのに残っていたのだ。
「この子をこの屋敷に相応しく綺麗にしてやれ。着物も髪も何もかも美しく、な」
「畏まりました」
女中の長である定が橋具に頭を下げる。『裏業』になってから関わることのなかった定に少しだけ裏業は戸惑う。定はにこりと笑い、裏業を見た。
「それでは乃花様、こちらへ」
「……はい」
裏業は、今自分が何者であるかを失いつつあった。自分とは、一体なんなのか。何のために生きているのか。何のために、首を斬り続けるのか。
全ては橋具の為だった。橋具と浅のためだったはずだ。
先ほど橋具が名前で呼んだことで、裏業の中の何かがぐしゃりと崩れた。
さらに不思議だったのは時間の経過状況だ。彼岸に一日半ほど泊したのに対し、此岸の世界では半刻も過ぎてはいなかった。辺りは未だ夜更けも来ておらず、何やら騒がしくしていた。
「……まるで、お伽噺のようだったな」
夢のような、しかし現実の話。目で見、耳で聞いたことが全てなのだ。信じたくはないが、信じられないことが実際自分の身に起こっている。そう思うと少し可笑しくなり、裏業は笑ってしまった。使い蝶はもういなかった。
昨夜――というか今夜。謎の敵の襲来により桔梗宮邸の中は慌ただしくしていた。大体のことは何故慌ただしいのか想像が出来ていたので、裏業は橋具のいる前老院に向かった。昔からこの屋敷に仕えている女中が、裏業を見つけるやいなや急にその場に泣き崩れた。何でも、その女中は帰宅する準備を終えた時、急に轟音が奥老院から聞こえたのだという。それがあの時の『妖怪憑』という門番が裏業たちを襲撃した時のことだろう。恐ろしくて近付くことが出来ず、裏業の安否すら分からなかったという。
すまないことをしたと裏業は思った。
その後、騒音などが収まった頃、桔梗宮邸の守護隊が奥老院に突入した。しかし、そこに裏業はおらず、代わりに荒らされた部屋と門番が倒れており、彼は既に息絶えていたそうだ。
この事件のおかげで奥老院は暫く使用することが出来なくなってしまった。協議の結果、一時的ではあるが裏業を含む奥老院で働いている者全員、橋具のいる前老院に移ることとなった。何年振りかの、親子水入らずの生活が戻ってきたと、周りは言うだろう。裏業にとっては気まずい他なかった。なにせ橋具と暮らすのは実に、浅乃助を死なせてしまったあの時以来なのだから。
「今夜は大変だったな、裏業」
「……いえ。橋具様もご無事で何よりでした」
「これで、暫くは『裏業』も出来ないな」
「……はい」
内心、裏業は仕事が出来なくなったことに安心していた。これ以上、罪人とはいえ人を斬ることはしたくなかった。それは、水埜辺も該当する。
それに、あの時見えていた橋具に纏わりついていた黒い靄も消えており、とりあえず気の所為だったかと裏業は安堵した。
「残念だな。お前の美技を見るのが楽しみであったのに……。まあ、仕方ない。――ところで乃花」
頭を下げていた裏業は思わず勢いよく顔を上げた。
もう何年も呼ばれていない、自分の名前。忘れかけていた大切な名前。だが、呼ばれて嬉しいとは思わなかったのは何故だろう。声音があの頃のような優しいものではなかったからだろうか。背筋が凍り、橋具の目を直視したきり目が離せない。
「……は、い。……父上……」
声を出すのが限界だった。
「ここにいる以上はそのみすぼらしい姿はいけないな。……入れ!」
パンパンッ、と橋具は掌を二度ほど叩いて鳴らした。すると室外に待機していたのであろうこの屋敷の女中たちが入室する。なかなかの夜更けだというのに残っていたのだ。
「この子をこの屋敷に相応しく綺麗にしてやれ。着物も髪も何もかも美しく、な」
「畏まりました」
女中の長である定が橋具に頭を下げる。『裏業』になってから関わることのなかった定に少しだけ裏業は戸惑う。定はにこりと笑い、裏業を見た。
「それでは乃花様、こちらへ」
「……はい」
裏業は、今自分が何者であるかを失いつつあった。自分とは、一体なんなのか。何のために生きているのか。何のために、首を斬り続けるのか。
全ては橋具の為だった。橋具と浅のためだったはずだ。
先ほど橋具が名前で呼んだことで、裏業の中の何かがぐしゃりと崩れた。
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