彼岸の王と首斬り姫

KaoLi

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第七章

第五十六話 香袋

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 次に気が付いた時には夕刻になっていた。ゆっくりと体を起こすと、庭の池に夕日の光が照らされ反射し、乃花の部屋に水の波模様が揺蕩った。彼女はそれをとても美しいと感じた。

「……綺麗……」
「――ただいま、乃花」

 美しさに気を取られていた乃花の背に、毒々しい声が蛇のようにぬるりと彼女の耳に絡みつく。蛇の正体は桔梗院有宗だった。なぜ奴は、さも自分の屋敷に帰宅するかの如くこの桔梗宮邸にいるのか。乃花の胸中はざわついたままである。

「……この屋敷の主は父・橋具です。貴方の家ではない」
「これからは私の家となるのですから、間違いではないですよ」
「……。口の減らない男だわ」
「それは誉め言葉として受け取っておこう」

 この男は本当にやりづらい。乃花は舌打ちを打ちそうになるのをぐっと堪えた。

「……殿方が嫁入り前の娘の部屋に入室とは。些かどうかと思うのですが?」
「いやいや。ここに来る時は人払いをしているから大丈夫だよ。それとも……それは襲ってほしいという意味かな?」
「はあ? 頭可笑しいんじゃないのか?」
「……そう虚勢を張れるのも今のうち。まあ、それものちにできなくなるから、その時までは我慢するけれど。それよりも、この臭いはなんだい?」

 有宗が鼻をすんすんとさせて何かの臭いを辿ろうとしている。臭いのするものなどひとつしか心当たりはない。

「乃花、その香袋は」
「え……これは、知り合いから頂いたもので……」

 その有宗の様子に少しだけ違和感を覚えた。乃花にとってこの香袋は凄くいい香りがするものだと感じるのに、有宗にとってはなぜだか苦手な香りなのかとても不愉快そうな表情をしていた。

「…………ふーん。じゃあ、また来るよ」

 香の臭いに耐えられなくなったのか有宗は鼻元に着物の袖を持っていき顔を青くして乃花の部屋を出て行った。

「この香には、有宗の苦手な何か秘密があるのか……?」

 だとすれば、これは使える。この香を調べれば、水埜辺の力になれるかもしれない! そう思った乃花は、有宗に悟られぬよう定たち女中に香の臭いに似たものを大量に手配するように命じた。
 何でもいい。この檻から出られない以上、彼の力になれそうなことは全て行動に移す。乃花は有宗に見つかる恐れがあっても必ずやると覚悟を決め、朝凪を見つめた。

「私に、今一度……力を貸してくれる? 朝凪」

 問えば『キンッ』と、朝凪が応えたような気がした。乃花は思わず笑みを零し、そして自身も香に似た花を捜索しに部屋を出た。
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