笑うヘンデルと二重奏

KaoLi

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第六話

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 楽譜の内容は『パッサカリア』。ヘンデル作曲の二重奏曲。雫の一番好きだった曲だった。

「どうして、今まで見つからなかったのか……。まさか、郁さんのところにあったなんて。でも、今更……見つかっても、もう……」
「意味がない?」
「そういう意味じゃ! ……ないんです、けど」

 図星をつかれ、私は口ごもった。

「……あー、あの、茜さん」
「はい?」
「これは……やっぱりやめておきましょうか! さー、掃除の続きを、」
「ちょっと待て。今何で言うのやめました? 何の話をしようとしてました?」
「んー……。さっきの、音のことなんですけど」
「はい」
「さっき、見てしまったというか……視えてしまったというか……?」
「はい。」

 ――ん? 今なんて?

「……だからね、視えたんですよ! が!」
「………………は?」

 その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

「君の、双子のお姉さんの美音雫さんが、そこに!」
「は、はあ⁉ じょ、冗談よしてくださいよ……」
「冗談だったらまだそれっぽく言いますよ。けどね、はっきり視えちゃって」

 それに、と付け足す。

「その子、彼女そっくりに微笑んだんですよ。しかもヴァイオリンを弾きながら!」

 ほぼ、間違いないかと、と郁さんが言う。
 そんなことはあり得ない。何故なら雫は、何よりこの場所が嫌いで。実家にいることすら息苦しいと言っていたくらいなのに。

「……本当に、はっきり……見たんですか? 雫、お姉ちゃんを」
「視ちゃいましたね~、雫さんを」
「郁さん、それ、絶対雫じゃないです。……だって、郁さんも知ってるでしょ」
「何をですか?」
「雫は……十年も前に亡くなっています。これじゃあまるで幽霊じゃないですか」
「……でも、茜さん。雫さんが亡くなった当時のことを忘れているでしょう? もしかしたら死んでいなかったかも、とは考えたことはないのですか?」
「それは! ……そう、ですけど……」

 確かに私は、雫が死んだ時のことをはっきりと憶えているわけじゃない。死んだ理由も、どうして死んでしまったのか。どうして憶えていないのか。ただ気付いたら目の前から消えていた。

「そう睨まないでくださいよぅ。可愛い顔が台無しだ!」
「ふざけないでください。……そもそも雫はこの家でヴァイオリンを弾くことが嫌いでした。だから、あり得ない」
「あはは。そうでしたね~。寒い日でもうちに来て弾いていたくらいでしたからね。“音がこもるのは気に食わないけど、あんな家よりはマシよ”って……。あれ、結構酷いこと言われてました、私?」
「そんなことを言う雫が……この家に化けてまで出てくるはずがない。……しかもここで弾くことが一番嫌いだったヴァイオリンを演奏するなんて」
「ふーむ。考えれば考えるほど、謎ですね~」
「そもそもの話をしていいですか?」
「はい?」
「郁さん、幽霊なんて信じてますか?」
「信じてるような顔に見えます?」

「――ぜんっぜん、信じているようには見えないわね」

「やっぱりそう思いま…………ま?」

 ふと、郁さんの言葉が中途半端に止まる。私も「見えない」と便乗しようと思ったが、それはある声によって遮られた。
 知っている声。今一番、聞きたかった声。けれど、聞くことは叶わないと思っていた声。

「あなたのそういう、いい加減なところ? というか何も考えていないところ。大嫌いよ」

 意地の悪そうな顔をして、ぷにっ、と郁さんの頬を人差し指でつつく。目の前にいる『それ』は、彼女の形をしていた。彼女――雫に、とてもよく似ていた。

「で、で、で、出たぁああ‼ ほら、言ったでしょ茜さん! 雫さん、出たでしょ⁉」
「……視えてる……。浮いてない……。実体……?」

 嘘でしょ、と掠れた声がどこからか聞こえた気がした。雫は頭上にクエスチョンマークを浮かべてこちらの様子を窺っていた。

「? 自分の家に僕がいて何が悪いの? 茜まで……どうして驚く必要がある。ここ、僕たちの実家だよね」
「そうだけど……。……なに?」

 何か不思議そうに雫が私を見つめる。昔からそうだった。私の心を読むかのように、喰らおうとしてくるその目が、吸い込まれそうになるその目が私は少しだけ苦手だった。

「……随分、大人びたじゃない。彼氏でもできた? それに……どうして制服を着ていないの? 今日は休日だったかしら」

 制服、という単語を聞いて私はハッとした。目の前にいる彼女は高校生の姿のままだ。夏服のセーラー服。その昔、天才と呼ばれた雫。学校に通うことすらままならなかった所為か、休日でもよくセーラー服を着ていたことをふと思い出した。

「そ、それは……。十年も経ってれば私だって大人になるよ!」

 思っていたよりも私の口から出た言葉は大きく叫んだようだった。自分でも驚いた。目の前の雫も、目を見開いていたが、笑顔は消え失せていた。

「十年? なんのこと?」

 憶えていない? 自分が死んでいることも、私が大人なのも、雫は分かっていない。分からないんだ。不意に目の前にいる彼女が“自分は幽霊なのだ”と伝えてはいけないと私の本能が告げていた。

「茜?」

 だから、この質問に、答えるべきじゃなかったんだと今なら思う。けれど、私はこの時聞いてしまったんだ。「今年が何年か、分かる?」と。
 彼女はこう答えた。「今年は2010年でしょう?」と。それは、雫が死んだ年だった。

「違う……。今年は、2020年だよ」
「……は? 嘘。馬鹿言わないで」
「嘘なんか言ってない」
「茜のくせに私に嘘つくなんて生意気‼」
「な、生意気⁉ どっちが!」
「ちょ、ちょっとちょっと! 感動の再会でしょ、喧嘩しないの。魂の繋がった双子の姉妹じゃないですか。もっと仲良くしようよ」
「あんた、僕と茜とどっちの味方!」
「郁さん、どっちの味方するんですか!」
「え、ええ~?」

 郁さんは困った顔をした。それもそうだ。急に幽霊が出てきて、それが十年前に死んだ姉で。でもあの頃と何ら変わりのない、調子で喋るものだから、私もどんどんヒートアップしてしまった。

「はあ。飽きれた。茜が僕の言うことを聞かなくなる日が来るだなんて」
「私だってあの時のままじゃない。もう大人なの!」

 そう。私だって大人だ。あれから十年。二十八歳なのだから。

「帰ってきて損した」

 雫は興味をそがれた表情をして、肩に掛かった長い髪を一回払うと姿を消した。

 言葉のまま、姿を『消した』。

「あららら。行っちゃいましたね~」
「行ったというか、消えたよね……? 今の、夢じゃないですよね。郁さんにも、見えてましたよねっ?」
「見えてましたね~」
「はっきり」
「ええ、はっきり」
「……やけに、あっさりしてますね」
「まあ、以前から何となく霊感はある方なのかなとは思っていましたので。別に平気というか」
「じゃあさっきの驚きようはどう説明する……って、もうこの話はどうでもいい! それよりもなんで雫がこの家にいるのか、よね」
「さて、さっさと片付けの続きを――」
「逃げちゃ、ダメよね。こういう時こそ、ちゃんとしなきゃ」
「茜さん? 早くしないとお昼が……」
「郁さん!」

 私は思わず郁さんの両手をぐっと勢いよく掴んだ。郁さんは私の行動に驚いた表情をしていた。

「少し、協力していただけますか?」
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