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第十八話
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「……は、なせぇ……!」
雫がお母さんの腹部に向かって蹴りを入れた。必死の抵抗だった。けれど、その力は見るに堪えないほど弱く手が離れることはなかった。しかし蹴られたということを認識したのか、お母さんは雫の首を掴んでいた手の力を緩めた。雫はその瞬間を見逃さず、すぐにお母さんの下から抜け出した。
やっと酸素を取り込むことが出来たのか噎せ返る。雫の視線はお母さんに向けられていたがそこに感情は無かった。
「けほっ、…………あーあ……。やっぱ、戻ってくるんじゃなかった」
その一言で、私の中の何かが崩れ落ちた。
「……ねえ、茜」
「やだ……。いやだ……」
何がなのかは分からない。けれど、その後の言葉を聞きたくない。
「僕は……」
雫はこの時何を私に伝えようとしたのだろう。彼女はまるで嘲笑うかのような表情をしてゆっくりとベランダへ続く戸を開けた。そしてベランダの床に足を置く。みしみしと軋む音が酷く痛い。
「な、にしてるの、お姉ちゃん。そっちは危ないよ」
「知ってるよ。だからこっちにいるんじゃない」
何で笑っているのだろう。軋むベランダの上にいることが恐くないのだろうか。
「早くこっちに戻って!」
「戻って、僕が利益を得るの?」
時が――止まったような気がした。
耳鳴りが酷くて頭痛がする。今日は雲がひとつない晴天のはずなのに、雨が降りそうな気がして。息が詰まる。止めなければ。彼女が部屋の中に戻るようにしなければ。
でもどうやって?
次の言葉が出てこない。私の耳には、私の嗚咽声だけが支配していた。
「あー……ふふっ。やっぱりダメ。ここに帰ってくれば……茜に会えば、少しは何かが変わると思ってたんだけどなぁ……」
ふふ、とふらふら揺れて雫は笑う。
「……僕ね……死ぬために、戻ってきたんだよ」
「…………は?」
「去年からスランプになったの。僕には、茜みたいな才能なんかないのにプロになって。デビューから公演会から……そんなのが毎日続くの。初めのうちは楽しかった。けどもううんざり。学校にだってほとんど行けてない。それで何が楽しいの? 何も楽しくないわよ。自由に、なるためにこの家を出たはずなのに……また縛られて。ばかみたい。……みんな口を揃えてこう言うの」
“あの美音さんですよね”って――。
雫は疲れていた。美音雪子という消し去ることの出来ない先駆者がいることでそれがプレッシャーになって、心をすり減らしていたんだ。
「僕は僕なのに。誰でもないのに! ……もう、疲れたのよ、こんな世界にいることに」
「分かんない……分かんないよ……!」
「だから、死んでいなくなればいいかなって。……でもね。楽譜のこと思い出したの。茜に会って、考えが変わればって。何か変わるかもって……思ってたのに、なあ……」
私は雫の声を聞く度に涙を堪え切れなくなった。けれど、私よりも辛いはずの雫は泣くことすらできていない。私の声も、届かない。
「……泣かないで茜。もう、遅いの。こんな逃げ方、格好悪いけど、許してね茜」
「行かないで――‼」
私の願いは、彼女にはやはり届くことはなかった。
雫はベランダの柵に立ち、そのまま浮くようにして落ちた。
ぐしゃ、という歪な音が、耳にこびりつく。お母さんが「雫……?」と言った声が最期に聞こえた。果たしてそれは本当に雫のことだったのか。私を『雫』として認識していたのかは分からない。ただ、その声がとても優しい音で、私は吐きそうになった。
雫がお母さんの腹部に向かって蹴りを入れた。必死の抵抗だった。けれど、その力は見るに堪えないほど弱く手が離れることはなかった。しかし蹴られたということを認識したのか、お母さんは雫の首を掴んでいた手の力を緩めた。雫はその瞬間を見逃さず、すぐにお母さんの下から抜け出した。
やっと酸素を取り込むことが出来たのか噎せ返る。雫の視線はお母さんに向けられていたがそこに感情は無かった。
「けほっ、…………あーあ……。やっぱ、戻ってくるんじゃなかった」
その一言で、私の中の何かが崩れ落ちた。
「……ねえ、茜」
「やだ……。いやだ……」
何がなのかは分からない。けれど、その後の言葉を聞きたくない。
「僕は……」
雫はこの時何を私に伝えようとしたのだろう。彼女はまるで嘲笑うかのような表情をしてゆっくりとベランダへ続く戸を開けた。そしてベランダの床に足を置く。みしみしと軋む音が酷く痛い。
「な、にしてるの、お姉ちゃん。そっちは危ないよ」
「知ってるよ。だからこっちにいるんじゃない」
何で笑っているのだろう。軋むベランダの上にいることが恐くないのだろうか。
「早くこっちに戻って!」
「戻って、僕が利益を得るの?」
時が――止まったような気がした。
耳鳴りが酷くて頭痛がする。今日は雲がひとつない晴天のはずなのに、雨が降りそうな気がして。息が詰まる。止めなければ。彼女が部屋の中に戻るようにしなければ。
でもどうやって?
次の言葉が出てこない。私の耳には、私の嗚咽声だけが支配していた。
「あー……ふふっ。やっぱりダメ。ここに帰ってくれば……茜に会えば、少しは何かが変わると思ってたんだけどなぁ……」
ふふ、とふらふら揺れて雫は笑う。
「……僕ね……死ぬために、戻ってきたんだよ」
「…………は?」
「去年からスランプになったの。僕には、茜みたいな才能なんかないのにプロになって。デビューから公演会から……そんなのが毎日続くの。初めのうちは楽しかった。けどもううんざり。学校にだってほとんど行けてない。それで何が楽しいの? 何も楽しくないわよ。自由に、なるためにこの家を出たはずなのに……また縛られて。ばかみたい。……みんな口を揃えてこう言うの」
“あの美音さんですよね”って――。
雫は疲れていた。美音雪子という消し去ることの出来ない先駆者がいることでそれがプレッシャーになって、心をすり減らしていたんだ。
「僕は僕なのに。誰でもないのに! ……もう、疲れたのよ、こんな世界にいることに」
「分かんない……分かんないよ……!」
「だから、死んでいなくなればいいかなって。……でもね。楽譜のこと思い出したの。茜に会って、考えが変わればって。何か変わるかもって……思ってたのに、なあ……」
私は雫の声を聞く度に涙を堪え切れなくなった。けれど、私よりも辛いはずの雫は泣くことすらできていない。私の声も、届かない。
「……泣かないで茜。もう、遅いの。こんな逃げ方、格好悪いけど、許してね茜」
「行かないで――‼」
私の願いは、彼女にはやはり届くことはなかった。
雫はベランダの柵に立ち、そのまま浮くようにして落ちた。
ぐしゃ、という歪な音が、耳にこびりつく。お母さんが「雫……?」と言った声が最期に聞こえた。果たしてそれは本当に雫のことだったのか。私を『雫』として認識していたのかは分からない。ただ、その声がとても優しい音で、私は吐きそうになった。
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