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十、休息
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「殿に、茶を立ててやってくださいませんか」
霜田秀之にそう頼まれ、葵は、先日の大喧嘩を思い出す。
聞くところによると、彼は特に用ができない限りは常に自室にて内務に力を注がれているらしい。それほどの激務をこなされている最中のお方が、上機嫌であろうはずがない。
ようやく少しだけ歩み寄ることができた矢先に、不用意なことをしてその信頼を損ないたくはなかった。いや、それは単なる言い訳だった。
自分の存在が彼を傷つけてしまうのではないかと案じるふりをして、その実、彼の拒絶を恐れているのだ。
これまで、これほど相手から向けられる感情に、気を揉んだことなどあっただろうか。
少なくとも、自分にこれほど臆病で慎重な面があることに、葵はここへ来て初めて気がついたのだ。
怖がりではあるけれど、人並みに恐れることはあるけれど、これまでは、その渦中に自ら進んで飛び込んできたはずなのに。
今は、出来ることならば、不機嫌な義久への訪問は避け、機を見たいと願う葵であった。
「執務中に、お邪魔にならないでしょうか?」
と、案じるふりをして問えば、にこにこと笑う秀之からは、「夫婦なのですから、大丈夫ですよ」などと、全く信憑性の無い返事が返ってきた。
「霜田様は、確信犯なのでしょうね…」
茶を運びながら、葵は独り言ちた。
恐らく、こちらの考えは全て読まれているに違いない。
本来ならば、さすが副将と感心したいところなのだが、場合が場合なだけに、心中穏やかではなかった。
自身の胸の内を打ち明けたのも、昨日の今日のことなので、また態度がぎくしゃくしてしまい、そのことで義久の機嫌を損ねてしまうかも知れない。
彼の申し込みはタイミングが悪すぎるのだ。
内心不満だらけだったが、葵は彼に文句を言うだけの度胸は、まだ持ち合わせていなかった。
「霜田様に逆らうと、後がとても恐ろしいような…そんな気が致します…」
爽やかに笑う側近の顔を思い浮かべ、葵はぶるりと身震いした。
この単なる葵の予想は、実際かなり的を射たものであった。
そのようなことを考えている間に葵は目的の部屋の前に着いてしまっていた。
このまま、回れ右をして立ち去ってしまいたい。暫くの間、部屋の前を行きつ戻りつしながら、葵は何とか覚悟を固めた。
そして、その覚悟が揺らがぬうちに、一度小さく息を吸い、吐く息に乗じて「義久様、葵にございます。お茶をお持ち致しました」と、返事も待たずに、部屋に入った。
部屋に入ると、義久の驚いた顔が視界に入った。
きっと、これから、「邪魔をするな」とお怒りになられるに違いない。
そんな不安に飲まれそうになりながらも、葵は努めて堂々と振る舞うことにした。
「義久様、執務ばかりではお体を壊されてしまわれます。やはりたまには休憩も必要かと。お茶を立てて参りましたので、宜しければどうぞ」
「…あぁ」
勝手に入室してきた葵を、何故か咎めなかった義久は、それでも執務の手を休めようとはしない。
いつも通りの冷淡な反応だったが、それほど不機嫌な様子は見られない。また怒らせてしまうと覚悟していた葵は、拍子抜けしてしまった。
義久の、整った横顔を眺めながら、その筆の動きをじっと観察する。
いざ戦になれば、その武術で民を守り、このような平和な時分にも、その知略で民を守る。
尊敬すべき、城主であり、唯一無二の夫である。
そんなことを考えていると、言い様のない気持ちが清水のように静かに湧き出でてくるのを感じた。
尊敬にも感謝にも似たその温かな気持ちに、葵は戸惑い、さっと目を逸らした。不快な感情ではなかった。しかし、未知の感情に驚きと決まりの悪さを感じてしまったのだ。
別のことを考えようと、葵は嫁ぎ来る前にお梅から聞いた話を思い出す。
「斎藤殿は日頃滅多に感情を面に出される事はございません。しかしながら、一度戦になれば、その強さ、眼光ははさながら修羅の如しだと言われております」
今、静かに筆を走らせているこの方に、それほど苛烈な面があるようには、どうしても思えなかった。
眼光に関しては、確かに、冷たく鋭い迫力を備えておられる。その目に何度も睨まれた葵は、内心頷いた。
そんな取り留めのないことを考えていると、いつの間にやら義久が、茶の奥に佇む葵を睨みつけていた。
「何時までそこにいるつもりだ」
「無論、義久様がお茶をお飲みになるまででございます」
「何故だ」
「器を下げねばなりませんので」
「後で下げさせる」
「本日のお茶は、自信作でございます」
そう言うと、葵はわざとらしくにっこりと笑った。
笑いながら、自分によもやこれほどの度胸があったとは、と内心驚く。この分ならば、この鬼の懐刀に意見できるようになる日も、そう遠くはないのかもしれない。
暗に感想を求めている葵に、義久はため息をつきながら筆を置き、立ち上がる。
そして、ドサッと隣に腰をおろすと、不機嫌そうに眉を顰めた。
「そもそも何故、お前がこのような女中まがいの事をしている」
口を開いてくださったことは、とても嬉しかったのだが、この質問にはなんと答えれば良いのか、困ってしまった。
霜田様に頼まれ、半ば強制的に、とは口が裂けても言えない。間違いなく機嫌は損ねてしまうであろうし、下手をすれば、彼までお叱りを受けてしまうかもしれない。
不安はあったけれども、葵は、こうして夫に接する機会を与えてくれた忠実なる懐刀に、内心感謝していたのだ。
「お茶を立てるのが、好きなのです」
結局、無難な答を返す。
しかし、その答は不適切だったのではないかと、葵は答えてのちに気がつく。
お茶を立てるきっかけを与えていただけるのなら、相手は誰でも良いというふうに受け取られてしまうかもしれない。
これほど相手の顔色を窺ったことなど、やはりこれまで一度もなかった。そんな自分に、半ば冷静に呆れながらも、やはり眼前のこの方の顔色は気になってしまうのだ。
葵は、恐る恐る義久の様子を窺った。
「…そうか」
しかし、別段気に留めた様子は見られない。
葵はほっとし、一人顔を綻ばせるのであった。
「何を見ている」
その声で、葵は、はっと我に帰る。
義久は茶を啜りながら、自分の顔をじっと見て表情をころころと変える葵を怪訝そうに眺めていた。
その無防備な表情に、ある種の親しみを覚えた葵は、突然、心が温かな何かで満たされるのを感じた。
頬が微かに熱く、口元が綻ぶのを抑えられない。
しかし、そんな感情など説明できようはずがなかった。
「い、いえ、義久様があまりにも御綺麗でしたので、ついつい見惚れてしまっただけでございます」
焦って口から滑り出た言葉は、紛れもない本心。しかし、そんな言葉をわざわざ伝えるつもりはなかった葵は、顔を真っ赤にして弁解の言葉を探す。
「あ、あの、違うのです。いえ、確かに義久様は御綺麗なのですが、本当は、そういうことではなくて――」
そんな葵の必死の弁明は、しかし、義久の耳には届いていなかった。
葵もすぐにそれと気づき、今度はさっと青ざめる。
義久は、湯呑みを持ったまま静止してしまっていた。
まるで、その空間だけ時間が切り取られてしまったかのように。
怒らせてしまったのだろうか。何か地雷を踏んでしまったのではないだろうか。もし悲しまれていたらどうしよう。
嫌な想像がぐるぐると渦巻く。
「あ、あの…」
とにかく、謝ろうと葵は口を開く。しかし、その謝罪は、義久の静かな声に遮られた。
「…男がそのような事を言われても嬉しくも何ともない…むしろ腹立たしい」
氷のような表情で、「腹立たしい」と言われ、葵はますます青ざめる。
今度こそ謝るのだと、葵は低く頭を下げる。
しかし、次に義久の発した言葉に、葵は謝罪を忘れて頭を上げてしまった。
「しかし…女子は嬉しいのだろうな」
「はい…?」
これは予想外の反応だ。一体、どういう意味なのだろう。
しかし、義久はこれ以上は何も言わなかった。
ひらり、と淡い色の花びらが、窓枠を越えて舞い込んできた。
ふとその方を見やれば、葵の部屋からも見える桜の木が、それほど遠くはないところに見えている。
そろそろ春の終わりも近いのだろう。桜花に混じり、新緑の葉がちらほらと芽吹いている。
葵は、体の力が抜けるのを感じた。
「お茶のほうは、いかがでしょうか…?」
その穏やかな声に、義久は桜を眺めるふりをして、思わず窓辺へ視線を彷徨わせる。
「………」
「…お気に召しませんでしたか…?」
葵は、ほとんど無意識に義久の目を覗き込んだ。
彼は、ぎょっとして僅かに身じろぎし、何とか視線を捕まえようと躍起になっている少女から、申し訳程度に距離をとる。
それでもなお、答えが聞きたいのか詰め寄ろうとする彼女に焦った義久は、ぼそりと呟いた。
「…美味い。茶の席であまり騒ぐな」
葵の頬が桜色に染まった。
たったの一言が、これほど嬉しいものであったとは。
義久は照れているのか、目も合わず、黙々と茶受けを頬張っている。
そんな義久を、葵はにこにこと見守っていた。
――――……
茶を飲み終え、茶菓子も平らげてしまってから、義久はぽつりと言った。
「…あの時は、すまなかった」
「あの時…?」
「お前が、以前に茶を持って来たとき…」
「あ、あのときでございますか」
葵は、感情に任せて怒鳴ってしまったことを思い出し、羞恥にさっと顔を赤くする。
「あれは、私が悪かったのでございます。義久様、どうか謝らないでください」
しかし、義久はゆるゆると首を振った。
「俺はこんな人間だ。国のためとはいえ、こんな所へ嫁がされたお前が、憐れでならない。今ならまだ――」
葵は呆れたように微笑み、諭すように言った。
「義久様、どうか私を他所へやろうなどと、そんな酷いことは考えないでください。お鶴より聞きました。下げられたのは、空の器であったと…義久様は御自分で思われているより、ずっとお優しい方にございます」
「しかし…」
やはり、と食い下がろうとする義久に、葵は晴れやかに笑った。
「――それに、随分と男前でございますし」
そう言って屈託なく笑う葵に、義久は思わず目を細めた。
この時葵は、初めて困ったように笑う夫の姿を見たのだった。
霜田秀之にそう頼まれ、葵は、先日の大喧嘩を思い出す。
聞くところによると、彼は特に用ができない限りは常に自室にて内務に力を注がれているらしい。それほどの激務をこなされている最中のお方が、上機嫌であろうはずがない。
ようやく少しだけ歩み寄ることができた矢先に、不用意なことをしてその信頼を損ないたくはなかった。いや、それは単なる言い訳だった。
自分の存在が彼を傷つけてしまうのではないかと案じるふりをして、その実、彼の拒絶を恐れているのだ。
これまで、これほど相手から向けられる感情に、気を揉んだことなどあっただろうか。
少なくとも、自分にこれほど臆病で慎重な面があることに、葵はここへ来て初めて気がついたのだ。
怖がりではあるけれど、人並みに恐れることはあるけれど、これまでは、その渦中に自ら進んで飛び込んできたはずなのに。
今は、出来ることならば、不機嫌な義久への訪問は避け、機を見たいと願う葵であった。
「執務中に、お邪魔にならないでしょうか?」
と、案じるふりをして問えば、にこにこと笑う秀之からは、「夫婦なのですから、大丈夫ですよ」などと、全く信憑性の無い返事が返ってきた。
「霜田様は、確信犯なのでしょうね…」
茶を運びながら、葵は独り言ちた。
恐らく、こちらの考えは全て読まれているに違いない。
本来ならば、さすが副将と感心したいところなのだが、場合が場合なだけに、心中穏やかではなかった。
自身の胸の内を打ち明けたのも、昨日の今日のことなので、また態度がぎくしゃくしてしまい、そのことで義久の機嫌を損ねてしまうかも知れない。
彼の申し込みはタイミングが悪すぎるのだ。
内心不満だらけだったが、葵は彼に文句を言うだけの度胸は、まだ持ち合わせていなかった。
「霜田様に逆らうと、後がとても恐ろしいような…そんな気が致します…」
爽やかに笑う側近の顔を思い浮かべ、葵はぶるりと身震いした。
この単なる葵の予想は、実際かなり的を射たものであった。
そのようなことを考えている間に葵は目的の部屋の前に着いてしまっていた。
このまま、回れ右をして立ち去ってしまいたい。暫くの間、部屋の前を行きつ戻りつしながら、葵は何とか覚悟を固めた。
そして、その覚悟が揺らがぬうちに、一度小さく息を吸い、吐く息に乗じて「義久様、葵にございます。お茶をお持ち致しました」と、返事も待たずに、部屋に入った。
部屋に入ると、義久の驚いた顔が視界に入った。
きっと、これから、「邪魔をするな」とお怒りになられるに違いない。
そんな不安に飲まれそうになりながらも、葵は努めて堂々と振る舞うことにした。
「義久様、執務ばかりではお体を壊されてしまわれます。やはりたまには休憩も必要かと。お茶を立てて参りましたので、宜しければどうぞ」
「…あぁ」
勝手に入室してきた葵を、何故か咎めなかった義久は、それでも執務の手を休めようとはしない。
いつも通りの冷淡な反応だったが、それほど不機嫌な様子は見られない。また怒らせてしまうと覚悟していた葵は、拍子抜けしてしまった。
義久の、整った横顔を眺めながら、その筆の動きをじっと観察する。
いざ戦になれば、その武術で民を守り、このような平和な時分にも、その知略で民を守る。
尊敬すべき、城主であり、唯一無二の夫である。
そんなことを考えていると、言い様のない気持ちが清水のように静かに湧き出でてくるのを感じた。
尊敬にも感謝にも似たその温かな気持ちに、葵は戸惑い、さっと目を逸らした。不快な感情ではなかった。しかし、未知の感情に驚きと決まりの悪さを感じてしまったのだ。
別のことを考えようと、葵は嫁ぎ来る前にお梅から聞いた話を思い出す。
「斎藤殿は日頃滅多に感情を面に出される事はございません。しかしながら、一度戦になれば、その強さ、眼光ははさながら修羅の如しだと言われております」
今、静かに筆を走らせているこの方に、それほど苛烈な面があるようには、どうしても思えなかった。
眼光に関しては、確かに、冷たく鋭い迫力を備えておられる。その目に何度も睨まれた葵は、内心頷いた。
そんな取り留めのないことを考えていると、いつの間にやら義久が、茶の奥に佇む葵を睨みつけていた。
「何時までそこにいるつもりだ」
「無論、義久様がお茶をお飲みになるまででございます」
「何故だ」
「器を下げねばなりませんので」
「後で下げさせる」
「本日のお茶は、自信作でございます」
そう言うと、葵はわざとらしくにっこりと笑った。
笑いながら、自分によもやこれほどの度胸があったとは、と内心驚く。この分ならば、この鬼の懐刀に意見できるようになる日も、そう遠くはないのかもしれない。
暗に感想を求めている葵に、義久はため息をつきながら筆を置き、立ち上がる。
そして、ドサッと隣に腰をおろすと、不機嫌そうに眉を顰めた。
「そもそも何故、お前がこのような女中まがいの事をしている」
口を開いてくださったことは、とても嬉しかったのだが、この質問にはなんと答えれば良いのか、困ってしまった。
霜田様に頼まれ、半ば強制的に、とは口が裂けても言えない。間違いなく機嫌は損ねてしまうであろうし、下手をすれば、彼までお叱りを受けてしまうかもしれない。
不安はあったけれども、葵は、こうして夫に接する機会を与えてくれた忠実なる懐刀に、内心感謝していたのだ。
「お茶を立てるのが、好きなのです」
結局、無難な答を返す。
しかし、その答は不適切だったのではないかと、葵は答えてのちに気がつく。
お茶を立てるきっかけを与えていただけるのなら、相手は誰でも良いというふうに受け取られてしまうかもしれない。
これほど相手の顔色を窺ったことなど、やはりこれまで一度もなかった。そんな自分に、半ば冷静に呆れながらも、やはり眼前のこの方の顔色は気になってしまうのだ。
葵は、恐る恐る義久の様子を窺った。
「…そうか」
しかし、別段気に留めた様子は見られない。
葵はほっとし、一人顔を綻ばせるのであった。
「何を見ている」
その声で、葵は、はっと我に帰る。
義久は茶を啜りながら、自分の顔をじっと見て表情をころころと変える葵を怪訝そうに眺めていた。
その無防備な表情に、ある種の親しみを覚えた葵は、突然、心が温かな何かで満たされるのを感じた。
頬が微かに熱く、口元が綻ぶのを抑えられない。
しかし、そんな感情など説明できようはずがなかった。
「い、いえ、義久様があまりにも御綺麗でしたので、ついつい見惚れてしまっただけでございます」
焦って口から滑り出た言葉は、紛れもない本心。しかし、そんな言葉をわざわざ伝えるつもりはなかった葵は、顔を真っ赤にして弁解の言葉を探す。
「あ、あの、違うのです。いえ、確かに義久様は御綺麗なのですが、本当は、そういうことではなくて――」
そんな葵の必死の弁明は、しかし、義久の耳には届いていなかった。
葵もすぐにそれと気づき、今度はさっと青ざめる。
義久は、湯呑みを持ったまま静止してしまっていた。
まるで、その空間だけ時間が切り取られてしまったかのように。
怒らせてしまったのだろうか。何か地雷を踏んでしまったのではないだろうか。もし悲しまれていたらどうしよう。
嫌な想像がぐるぐると渦巻く。
「あ、あの…」
とにかく、謝ろうと葵は口を開く。しかし、その謝罪は、義久の静かな声に遮られた。
「…男がそのような事を言われても嬉しくも何ともない…むしろ腹立たしい」
氷のような表情で、「腹立たしい」と言われ、葵はますます青ざめる。
今度こそ謝るのだと、葵は低く頭を下げる。
しかし、次に義久の発した言葉に、葵は謝罪を忘れて頭を上げてしまった。
「しかし…女子は嬉しいのだろうな」
「はい…?」
これは予想外の反応だ。一体、どういう意味なのだろう。
しかし、義久はこれ以上は何も言わなかった。
ひらり、と淡い色の花びらが、窓枠を越えて舞い込んできた。
ふとその方を見やれば、葵の部屋からも見える桜の木が、それほど遠くはないところに見えている。
そろそろ春の終わりも近いのだろう。桜花に混じり、新緑の葉がちらほらと芽吹いている。
葵は、体の力が抜けるのを感じた。
「お茶のほうは、いかがでしょうか…?」
その穏やかな声に、義久は桜を眺めるふりをして、思わず窓辺へ視線を彷徨わせる。
「………」
「…お気に召しませんでしたか…?」
葵は、ほとんど無意識に義久の目を覗き込んだ。
彼は、ぎょっとして僅かに身じろぎし、何とか視線を捕まえようと躍起になっている少女から、申し訳程度に距離をとる。
それでもなお、答えが聞きたいのか詰め寄ろうとする彼女に焦った義久は、ぼそりと呟いた。
「…美味い。茶の席であまり騒ぐな」
葵の頬が桜色に染まった。
たったの一言が、これほど嬉しいものであったとは。
義久は照れているのか、目も合わず、黙々と茶受けを頬張っている。
そんな義久を、葵はにこにこと見守っていた。
――――……
茶を飲み終え、茶菓子も平らげてしまってから、義久はぽつりと言った。
「…あの時は、すまなかった」
「あの時…?」
「お前が、以前に茶を持って来たとき…」
「あ、あのときでございますか」
葵は、感情に任せて怒鳴ってしまったことを思い出し、羞恥にさっと顔を赤くする。
「あれは、私が悪かったのでございます。義久様、どうか謝らないでください」
しかし、義久はゆるゆると首を振った。
「俺はこんな人間だ。国のためとはいえ、こんな所へ嫁がされたお前が、憐れでならない。今ならまだ――」
葵は呆れたように微笑み、諭すように言った。
「義久様、どうか私を他所へやろうなどと、そんな酷いことは考えないでください。お鶴より聞きました。下げられたのは、空の器であったと…義久様は御自分で思われているより、ずっとお優しい方にございます」
「しかし…」
やはり、と食い下がろうとする義久に、葵は晴れやかに笑った。
「――それに、随分と男前でございますし」
そう言って屈託なく笑う葵に、義久は思わず目を細めた。
この時葵は、初めて困ったように笑う夫の姿を見たのだった。
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