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十五、決意
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今にして思えば、きっといつもそうだった。
傷つくのを恐れ、拒絶を恐れ、裏切りを恐れ、失望を恐れ、愛することを恐れた。
過去を、言い訳に使うつもりはない。
全ては、不甲斐ない、この自分が招いたこと。
自らの弱さが故のもの。
大切なものを失ったときに、否が応でも味わわなければならない喪失感を思い、他者との関わりを諦め、自ら繋がりを断ち切り続けてきたのだ。
それが、例え裏切りであろうとも、死別であろうとも、自分には、それに耐えうる強さがなかった。
しかしもうこれ以上、逃げ回るわけにはいかない。
戦直前になって、家臣に諭されて、そしてやっと気がついた。遅すぎたのかもしれない。しかしそれでも、まだ手遅れではない。
自分も彼女も生きているのだから。
今ならまだ、伝えることができる。
今だからこそ、応え、向き合うことが出来る。否、向き合わなければならない。
これまでしてきたことを思えば、なじられようと、責められようと、怒鳴られようと、拒絶されようと、文句は言えない。
むしろ、当然だ。
それでも、恐ろしくはない。
これ以上逃げ続けるより余程ましだった。
きちんと、非礼を詫び、理由を話す。
そして、この想いと、これからのことも。
――――……
葵は、縁側からぼんやりと庭を眺めていた。
その目元は僅かに赤く、瞼は腫れている。
庭の桜はもうすっかり散ってしまい、地に落ちた花弁が時折寂しげに舞い上がっていた。
その様はとても感傷的で、葵は思わずその瞳を伏せる。
――もしそれ以上言えば、お前の国を落とす。
――出過ぎた真似をするな。お前はただこちらに引き渡されただけの…人質に過ぎぬのだ。
何度忘れようともがいても、脳裏に焼き付いて離れない、あの声、あの表情、あの言葉。
「私は生家を落とされれば、安易に義久様をお恨み申し上げるのでしょう…」
初めて、人を心から恨むという感情に触れた。前者は、絶対に許すわけにはいかなかった。
しかし、後者は、正直仕方がないと思う。
何故この城の主が自分などを娶られたのか、今だに皆目見当もつかないのだ。
これだけの大国が、果たして人質など本当に必要としているのだろうか。
もしかすると、自分は既に用済みなのかもしれない。
用済み。
自ら心に浮かべた言葉に、葵は更に憂鬱になった。
そのままはらはらと涙を流す。
背後で困惑顔で立ち尽くす、青年の存在に気づかぬまま。
――――……
外から呼びかけても反応がなかったため、そのまま部屋に入ってみれば、少女は涙を流していた。
思い出されるのは、あのとき、悔しそうに唇を噛みながら零していた涙。
結局あの時は、涙を拭うことも、後を追うことすらできなかった。
義久は、静かに葵の隣に座した。
葵の驚いた顔が視界に入る。あまりに突然の出来事に、思考が追いついていないのだろう。
葵が何か言おうと口を動かす前に、義久は葵の頬を伝う雫を掬い上げた。
頬に触れた手の温度に葵はやっと正気に帰る。
そして、それと同時に、なんとも言えない感情が込み上げてきて抑え切れなかった。
「…来ないで下さいませ」
自分でも驚く程の、感情のない、平淡で冷たい声。
「それは、できない」
だがそれ以上に、驚く程の決意のこもった強い眼差し。
葵が身を引くより早く、義久はそっと葵の腕を捕まえていた。
葵はわけがわからずただただ困惑するばかり。
どうしてこんなことを。
「お離し下さい!」
「…葵」
急に名前を呼ばれて、葵は驚きのあまり、義久を見上げる。
義久の瞳は、迷いなくしっかりと葵の姿を捉えていた。
「どうか、聞いてほしい」
その表情があまりに辛そうで、瞳があまりに強く捉えて、葵は僅かに頷くことしかできなかった。
しかし、たったそれだけのことで、義久の強張った表情は幾分穏やかなものになる。
そのとき葵は、自分が安心したことに気づいた。
そして、彼への感情が日に日に大きく育っていたことに、絶望する。
これから、何を言われようと、どんな仕打ちを受けようと、気丈に受け止めなければならない。
どうにもならないこの想いを抱えながら。
「…お前に此度の戦の理由は聞かせたくなかった」
「…はい」
義久は一瞬目を伏せるが、また視線を合わせて話を続ける。
「奴らの狙いは、この国ではないのだ」
「え…?」
予想していた話から大きく外れ、葵は戸惑う。お前を信用していないから話せぬのだと、形ばかりの花嫁などもう要らぬと、そう宣告されるのだと思っていた。
「それでは、その狙いとは一体何なのでしょうか…?」
知らず、声が震える。
その目に込められた、決意に。
「…奴らの狙いは、お前の故郷だ」
全身の血が冷えていくのを感じた。
「いや、正確には…あの地の豊かな土に、そこに居るであろう桜の君だ」
「……桜の君…?」
「…お前のことだ」
全く予想していなかった展開に、葵は言葉を失う。しかし、義久は淡々と続けた。
「諸国の間ではかなり有名な話だ。『美しい桜の君のおわす小国は隣の大国にも劣らぬ程に、豊かで戦においても負けなしである』…と」
「そ、それでは…」
「縁起でも担ごうというのだろうな…」
葵は、遠のきそうになる意識をより集め、何とか理解をしようと言葉を咀嚼する。つまり、敵はその「桜の君」とやらを攫いにやって来るのか。
「今回攻めて来るのは、遥か西の果てに位置する大国だ。お前が既にその地に居ないことすら知らぬのだろう」
葵は目の前が真っ暗だった。
私などのために、戦が起こってしまう。
城が、燃えてしまうかもしれない。
もし皆に何かあれば、きっと耐えられない。
そのとき、義久の大きな手が葵の頭に置かれた。
「心配するな。敵軍がお前の故郷に入る前に、俺が討つ」
葵はほとんど無意識に、頭上の義久の手を握りしめた。唇も、声も、哀れなほどに震えてしまう。義久はもう一方の手で、そんな葵を抱き寄せた。
「なりません私などのために義久様が…」
「…葵、頼む」
掠れた声に、葵は次の言葉を失う。
「守らせてほしい」
「……守る?」
葵の脳裏を、いつかの兄の言葉がよぎった。
――私達は、好んで己から大切なものを守ろうとしているんだよ。私は守るべきものを持てて幸せだ。
そう、兄は、幸せそうに笑っていた。
今、眼前のこの方は、笑ってはいない。しかし、その目には、揺るぎない、鋭く強い何かが宿っている。
「…お前の大切なものも、お前自身も、必ず…」
密着した体を通じて、低い声が伝わってくる。
葵は、そっと目を閉じた。
「…義久様は何故私を、私の大切なものを護ろうとしてくださるのですか」
義久は、一瞬困ったような表情を見せたが、迷わず返した。
「お前が…葵が大切だからだ」
理解が追い付かないうちに、葵の閉じられた瞳からは、次々と涙が零れ落ちた。
「…申し訳ありません」
「何故謝る」
「私は、義久様をお恨み申し上げるところでした」
義久は、心底楽しそうに喉を鳴らした。
「それも、悪くはない」
葵も、困ったように笑う。
それから、ひたと義久を見つめた。
「義久様、一つ約束してくださいますか?」
義久も、少女の言わんとすることは分かっていた。
「俺は必ず帰ってくる。だから、お前には、この城を頼みたい。…できるか?」
葵は、不安と悲しみを笑顔で隠し、しっかりと頷いた。
「義久様のご命令とあらば、仕方がございません。…どうか、一日も早いお帰りを」
「…あぁ、帰ってから、伝えなければならないことも残っているからな」
葵はわざとらしく驚いたふりをする。
「まぁ、まだ私に隠し事がお有りなのですか?」
そのとき、義久は僅かに笑った。
「…一部は、今伝えておく。俺にとって、お前は唯一無二の存在だ。これまですまなかった。…これからもすまない」
再び少女を腕の中に収め、その心音に、耳を寄せる。そのとき感じたのは、紛れもなく確かな幸せであった。
傷つくのを恐れ、拒絶を恐れ、裏切りを恐れ、失望を恐れ、愛することを恐れた。
過去を、言い訳に使うつもりはない。
全ては、不甲斐ない、この自分が招いたこと。
自らの弱さが故のもの。
大切なものを失ったときに、否が応でも味わわなければならない喪失感を思い、他者との関わりを諦め、自ら繋がりを断ち切り続けてきたのだ。
それが、例え裏切りであろうとも、死別であろうとも、自分には、それに耐えうる強さがなかった。
しかしもうこれ以上、逃げ回るわけにはいかない。
戦直前になって、家臣に諭されて、そしてやっと気がついた。遅すぎたのかもしれない。しかしそれでも、まだ手遅れではない。
自分も彼女も生きているのだから。
今ならまだ、伝えることができる。
今だからこそ、応え、向き合うことが出来る。否、向き合わなければならない。
これまでしてきたことを思えば、なじられようと、責められようと、怒鳴られようと、拒絶されようと、文句は言えない。
むしろ、当然だ。
それでも、恐ろしくはない。
これ以上逃げ続けるより余程ましだった。
きちんと、非礼を詫び、理由を話す。
そして、この想いと、これからのことも。
――――……
葵は、縁側からぼんやりと庭を眺めていた。
その目元は僅かに赤く、瞼は腫れている。
庭の桜はもうすっかり散ってしまい、地に落ちた花弁が時折寂しげに舞い上がっていた。
その様はとても感傷的で、葵は思わずその瞳を伏せる。
――もしそれ以上言えば、お前の国を落とす。
――出過ぎた真似をするな。お前はただこちらに引き渡されただけの…人質に過ぎぬのだ。
何度忘れようともがいても、脳裏に焼き付いて離れない、あの声、あの表情、あの言葉。
「私は生家を落とされれば、安易に義久様をお恨み申し上げるのでしょう…」
初めて、人を心から恨むという感情に触れた。前者は、絶対に許すわけにはいかなかった。
しかし、後者は、正直仕方がないと思う。
何故この城の主が自分などを娶られたのか、今だに皆目見当もつかないのだ。
これだけの大国が、果たして人質など本当に必要としているのだろうか。
もしかすると、自分は既に用済みなのかもしれない。
用済み。
自ら心に浮かべた言葉に、葵は更に憂鬱になった。
そのままはらはらと涙を流す。
背後で困惑顔で立ち尽くす、青年の存在に気づかぬまま。
――――……
外から呼びかけても反応がなかったため、そのまま部屋に入ってみれば、少女は涙を流していた。
思い出されるのは、あのとき、悔しそうに唇を噛みながら零していた涙。
結局あの時は、涙を拭うことも、後を追うことすらできなかった。
義久は、静かに葵の隣に座した。
葵の驚いた顔が視界に入る。あまりに突然の出来事に、思考が追いついていないのだろう。
葵が何か言おうと口を動かす前に、義久は葵の頬を伝う雫を掬い上げた。
頬に触れた手の温度に葵はやっと正気に帰る。
そして、それと同時に、なんとも言えない感情が込み上げてきて抑え切れなかった。
「…来ないで下さいませ」
自分でも驚く程の、感情のない、平淡で冷たい声。
「それは、できない」
だがそれ以上に、驚く程の決意のこもった強い眼差し。
葵が身を引くより早く、義久はそっと葵の腕を捕まえていた。
葵はわけがわからずただただ困惑するばかり。
どうしてこんなことを。
「お離し下さい!」
「…葵」
急に名前を呼ばれて、葵は驚きのあまり、義久を見上げる。
義久の瞳は、迷いなくしっかりと葵の姿を捉えていた。
「どうか、聞いてほしい」
その表情があまりに辛そうで、瞳があまりに強く捉えて、葵は僅かに頷くことしかできなかった。
しかし、たったそれだけのことで、義久の強張った表情は幾分穏やかなものになる。
そのとき葵は、自分が安心したことに気づいた。
そして、彼への感情が日に日に大きく育っていたことに、絶望する。
これから、何を言われようと、どんな仕打ちを受けようと、気丈に受け止めなければならない。
どうにもならないこの想いを抱えながら。
「…お前に此度の戦の理由は聞かせたくなかった」
「…はい」
義久は一瞬目を伏せるが、また視線を合わせて話を続ける。
「奴らの狙いは、この国ではないのだ」
「え…?」
予想していた話から大きく外れ、葵は戸惑う。お前を信用していないから話せぬのだと、形ばかりの花嫁などもう要らぬと、そう宣告されるのだと思っていた。
「それでは、その狙いとは一体何なのでしょうか…?」
知らず、声が震える。
その目に込められた、決意に。
「…奴らの狙いは、お前の故郷だ」
全身の血が冷えていくのを感じた。
「いや、正確には…あの地の豊かな土に、そこに居るであろう桜の君だ」
「……桜の君…?」
「…お前のことだ」
全く予想していなかった展開に、葵は言葉を失う。しかし、義久は淡々と続けた。
「諸国の間ではかなり有名な話だ。『美しい桜の君のおわす小国は隣の大国にも劣らぬ程に、豊かで戦においても負けなしである』…と」
「そ、それでは…」
「縁起でも担ごうというのだろうな…」
葵は、遠のきそうになる意識をより集め、何とか理解をしようと言葉を咀嚼する。つまり、敵はその「桜の君」とやらを攫いにやって来るのか。
「今回攻めて来るのは、遥か西の果てに位置する大国だ。お前が既にその地に居ないことすら知らぬのだろう」
葵は目の前が真っ暗だった。
私などのために、戦が起こってしまう。
城が、燃えてしまうかもしれない。
もし皆に何かあれば、きっと耐えられない。
そのとき、義久の大きな手が葵の頭に置かれた。
「心配するな。敵軍がお前の故郷に入る前に、俺が討つ」
葵はほとんど無意識に、頭上の義久の手を握りしめた。唇も、声も、哀れなほどに震えてしまう。義久はもう一方の手で、そんな葵を抱き寄せた。
「なりません私などのために義久様が…」
「…葵、頼む」
掠れた声に、葵は次の言葉を失う。
「守らせてほしい」
「……守る?」
葵の脳裏を、いつかの兄の言葉がよぎった。
――私達は、好んで己から大切なものを守ろうとしているんだよ。私は守るべきものを持てて幸せだ。
そう、兄は、幸せそうに笑っていた。
今、眼前のこの方は、笑ってはいない。しかし、その目には、揺るぎない、鋭く強い何かが宿っている。
「…お前の大切なものも、お前自身も、必ず…」
密着した体を通じて、低い声が伝わってくる。
葵は、そっと目を閉じた。
「…義久様は何故私を、私の大切なものを護ろうとしてくださるのですか」
義久は、一瞬困ったような表情を見せたが、迷わず返した。
「お前が…葵が大切だからだ」
理解が追い付かないうちに、葵の閉じられた瞳からは、次々と涙が零れ落ちた。
「…申し訳ありません」
「何故謝る」
「私は、義久様をお恨み申し上げるところでした」
義久は、心底楽しそうに喉を鳴らした。
「それも、悪くはない」
葵も、困ったように笑う。
それから、ひたと義久を見つめた。
「義久様、一つ約束してくださいますか?」
義久も、少女の言わんとすることは分かっていた。
「俺は必ず帰ってくる。だから、お前には、この城を頼みたい。…できるか?」
葵は、不安と悲しみを笑顔で隠し、しっかりと頷いた。
「義久様のご命令とあらば、仕方がございません。…どうか、一日も早いお帰りを」
「…あぁ、帰ってから、伝えなければならないことも残っているからな」
葵はわざとらしく驚いたふりをする。
「まぁ、まだ私に隠し事がお有りなのですか?」
そのとき、義久は僅かに笑った。
「…一部は、今伝えておく。俺にとって、お前は唯一無二の存在だ。これまですまなかった。…これからもすまない」
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