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十七、前夜
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兵糧の準備を終え、鍛練場に差し入れをして、それからやっと自室に戻ると、外は美しい茜色に染まっていた。
とうとう明日、彼らは出陣する。
不安で胸が押し潰されそうになるが、それでも、自分に出来るのはただ信じて待つことのみ。
正直、悔しかった。
共に戦えたならと何度願ったことだろう。
しかし、彼の思いを考えれば、それでもお供したいなどと言えるはずもない。言ってはならないことだとも思う。
葵は溜息をついた。
「浮かないお顔にございますね。あまり、溜息ばかりつかれていると、幸せが逃げてしまわれますよ」
葵は驚きのあまり、体ごと後ろを振り返った。
障子の敷居を越えたお鶴は、面白そうに笑う。
「なんてお顔をされているのですか。私はただ、夕餉をお届けに参っただけにございます」
そう言うと、彼女は抱えていたお盆を僅かにかかげてみせた。
「…ありがとうございます。今からいただきます」
ほっと胸を撫で下ろし、微笑む。戦前夜に主の妻がため息など、そんな弱気な姿を見せてはならない。お鶴なら、悪戯に吹聴することもないだろう。
しかし、ほっとした葵の内心を知ってか知らずか、お鶴は意味深く笑った。
「そういうことでしたら、今から参りましょうか」
「え?どちらへ?」
「義久様がお呼びでございます。お盆はお鶴めがお持ち致します故」
――――……
「急な呼び出し、すまなかったな」
「い、いえ、私も、ゆっくりとお話しできればと思っておりましたので」
「…そうか」
夕闇に包まれた部屋は、燭台に照らされ、ほんのりと柔らかい光に包まれている。
美味しいはずの夕餉なのに、まるで水を噛んでいるかのように感じてしまうのは、この初めての状況に緊張しているからなのだろうか。それとも、意識が既に明日へと向かってしまっているからか。
いずれにせよ、これまで夜間に呼び出されたためしなど、全くと言っていいほどなかった葵は、「どうされたのだろう」と少々不安げな面持ちになってしまう。
「あの、明日は――」
話題をと思い、自ら口にした言葉が葵の胸をずきりと刺す。
そんな葵の様子を見て、義久はすかさず口を開く。
「言ったはずだ。必ず勝ち、必ず帰ると」
「……はい」
「俺が信用ならぬか?」
「いえ、義久様のお強いことは霜田様より聞き及んでおります。あの霜田様が仰るのですから、疑うべきところなどございません」
「…そういえば、秀之に剣を学んでいたそうだな」
「は、はい…申し訳ございません。はしたないとお思いでしょう…」
更に縮こまってしまった葵を見て、義久はふっと笑う。
「いや、感謝している。それに、面白い奴だと思ってな。聞いたところによると、なかなか強いらしいな」
葵は恥ずかしさに顔を赤くしながら、必死で食ってかかる。
「ど、どこまで聞いておられるのですか!」
「さぁな」
――夜が更けてゆく。
部屋の明かりが、縁側から漏れ出して闇の世界を柔らかく照らしていた。
――――……
夕餉を済ませると、葵は縁側の義久の隣に座し、恐ろしいほどに美しい月を眺めた。そして、ゆっくりと空になった杯に酒を注ぐ。
あまりにも穏やかに流れる月夜の時。この方が、明日戦へと旅立たれるとは。
葵は、月の眩しさに耐えかね、そっと目を伏せた。
「葵」
「はい」
「お前には、辛い想いをさせてばかりだ」
しみじみと呟くように発された言葉に、葵は目を見開く。
「急に、如何されたのですか?」
義久は小さく息をつくと、また話し始める。
「残される身が辛いということくらい、俺にも分かる」
葵は身じろぎ一つできずに、義久の横顔を見つめる。
「まして此度の戦の相手は大国。帰りが何時になるとも知れぬ。お前の身となり考えれば、どれ程神経を擦り減らすことだろうかと」
そこまで言うと、義久は視線を少し落とした。
しかし、葵は強いて明るく言い放った。
「御心配には及びません。私はただお待ちしているだけではございませんので。義久様がお留守の間は、私がこの地、この城をお守りしなければなりません。故に、暇を持て余すことはないでしょうから」
「…あぁ、お前になら城を任せても安心だ。俺が留守の間、この城を頼んだぞ」
「はい、この命に代えましても」
義久は呆れたように溜息をついた。
「何があっても命を優先しろ。…お前を失うわけにはいかない」
葵の顔が瞬時に赤く染まる。
「か、かしこまりました」
照れを隠すかの様に、葵はおもむろに口を開いた。
「本日、御部屋にお呼びくださったのは…」
「戦の前夜だ。…お前には暫く会えなくなるからな」
「それは…」
言いかけ、一瞬躊躇った後、葵は再び口を開く。
「名残惜しいのですか?」
「…どうだろうな」
葵は、ちらりと盗み見る。しかし、彼の表情からはその真意を測ることはできなかった。
「それでは、自惚れさせていただきますね」
「…あぁ」
短く、それでもしっかりと義久は頷いた。
「私は、この先もこの城に置いていただく自信がありませんでした。いえ、今も、こんな私で本当に良いのだろうかと迷わぬ日はございません」
義久は、目を見開くと、さっと葵に向き直る。しかし、話の内容とは裏腹に、葵はとても穏やかに月を眺めていた。
「これまで、私は無礼ばかり働いておりました」
「それは俺が」
「いえ、義久様は全く悪うございません。言葉を尽くされなくとも、義久様のお気持ちを測ることはできたはずです。全ては私の無知と弱さのためでした」
神々しい月の光のもとで微笑む葵は、無知でも弱くもない。彼女には、誰よりも強い意志がある。
「……お前はやはり、昔と変わらない」
「昔…?」
「いや、戦が終われば、必ず話す」
だから、今は。
静まり返る部屋の中。淡い月光に照らされて、浮かび上がった重なる影。
葵は自分の唇に手をあててみる。
「よ、酔っておられるのですか?」
「…さぁな」
相変わらず彼の表情は動かない。しかし、その顔が僅かに朱いのは、酒に酔っているせいなのだろうか。
「…義久様、御慕い申しております」
義久は、静かに目を見開き、そして、そっと眼前に佇む妻を抱き寄せた。その肩に頭を乗せ、微かに呟く。
「…すまない」
葵は、涙を堪えながら、頷いた。
太陽になれないまでも、あの月になることができたなら、どこまでも、この方を追って行けるのに。
とうとう明日、彼らは出陣する。
不安で胸が押し潰されそうになるが、それでも、自分に出来るのはただ信じて待つことのみ。
正直、悔しかった。
共に戦えたならと何度願ったことだろう。
しかし、彼の思いを考えれば、それでもお供したいなどと言えるはずもない。言ってはならないことだとも思う。
葵は溜息をついた。
「浮かないお顔にございますね。あまり、溜息ばかりつかれていると、幸せが逃げてしまわれますよ」
葵は驚きのあまり、体ごと後ろを振り返った。
障子の敷居を越えたお鶴は、面白そうに笑う。
「なんてお顔をされているのですか。私はただ、夕餉をお届けに参っただけにございます」
そう言うと、彼女は抱えていたお盆を僅かにかかげてみせた。
「…ありがとうございます。今からいただきます」
ほっと胸を撫で下ろし、微笑む。戦前夜に主の妻がため息など、そんな弱気な姿を見せてはならない。お鶴なら、悪戯に吹聴することもないだろう。
しかし、ほっとした葵の内心を知ってか知らずか、お鶴は意味深く笑った。
「そういうことでしたら、今から参りましょうか」
「え?どちらへ?」
「義久様がお呼びでございます。お盆はお鶴めがお持ち致します故」
――――……
「急な呼び出し、すまなかったな」
「い、いえ、私も、ゆっくりとお話しできればと思っておりましたので」
「…そうか」
夕闇に包まれた部屋は、燭台に照らされ、ほんのりと柔らかい光に包まれている。
美味しいはずの夕餉なのに、まるで水を噛んでいるかのように感じてしまうのは、この初めての状況に緊張しているからなのだろうか。それとも、意識が既に明日へと向かってしまっているからか。
いずれにせよ、これまで夜間に呼び出されたためしなど、全くと言っていいほどなかった葵は、「どうされたのだろう」と少々不安げな面持ちになってしまう。
「あの、明日は――」
話題をと思い、自ら口にした言葉が葵の胸をずきりと刺す。
そんな葵の様子を見て、義久はすかさず口を開く。
「言ったはずだ。必ず勝ち、必ず帰ると」
「……はい」
「俺が信用ならぬか?」
「いえ、義久様のお強いことは霜田様より聞き及んでおります。あの霜田様が仰るのですから、疑うべきところなどございません」
「…そういえば、秀之に剣を学んでいたそうだな」
「は、はい…申し訳ございません。はしたないとお思いでしょう…」
更に縮こまってしまった葵を見て、義久はふっと笑う。
「いや、感謝している。それに、面白い奴だと思ってな。聞いたところによると、なかなか強いらしいな」
葵は恥ずかしさに顔を赤くしながら、必死で食ってかかる。
「ど、どこまで聞いておられるのですか!」
「さぁな」
――夜が更けてゆく。
部屋の明かりが、縁側から漏れ出して闇の世界を柔らかく照らしていた。
――――……
夕餉を済ませると、葵は縁側の義久の隣に座し、恐ろしいほどに美しい月を眺めた。そして、ゆっくりと空になった杯に酒を注ぐ。
あまりにも穏やかに流れる月夜の時。この方が、明日戦へと旅立たれるとは。
葵は、月の眩しさに耐えかね、そっと目を伏せた。
「葵」
「はい」
「お前には、辛い想いをさせてばかりだ」
しみじみと呟くように発された言葉に、葵は目を見開く。
「急に、如何されたのですか?」
義久は小さく息をつくと、また話し始める。
「残される身が辛いということくらい、俺にも分かる」
葵は身じろぎ一つできずに、義久の横顔を見つめる。
「まして此度の戦の相手は大国。帰りが何時になるとも知れぬ。お前の身となり考えれば、どれ程神経を擦り減らすことだろうかと」
そこまで言うと、義久は視線を少し落とした。
しかし、葵は強いて明るく言い放った。
「御心配には及びません。私はただお待ちしているだけではございませんので。義久様がお留守の間は、私がこの地、この城をお守りしなければなりません。故に、暇を持て余すことはないでしょうから」
「…あぁ、お前になら城を任せても安心だ。俺が留守の間、この城を頼んだぞ」
「はい、この命に代えましても」
義久は呆れたように溜息をついた。
「何があっても命を優先しろ。…お前を失うわけにはいかない」
葵の顔が瞬時に赤く染まる。
「か、かしこまりました」
照れを隠すかの様に、葵はおもむろに口を開いた。
「本日、御部屋にお呼びくださったのは…」
「戦の前夜だ。…お前には暫く会えなくなるからな」
「それは…」
言いかけ、一瞬躊躇った後、葵は再び口を開く。
「名残惜しいのですか?」
「…どうだろうな」
葵は、ちらりと盗み見る。しかし、彼の表情からはその真意を測ることはできなかった。
「それでは、自惚れさせていただきますね」
「…あぁ」
短く、それでもしっかりと義久は頷いた。
「私は、この先もこの城に置いていただく自信がありませんでした。いえ、今も、こんな私で本当に良いのだろうかと迷わぬ日はございません」
義久は、目を見開くと、さっと葵に向き直る。しかし、話の内容とは裏腹に、葵はとても穏やかに月を眺めていた。
「これまで、私は無礼ばかり働いておりました」
「それは俺が」
「いえ、義久様は全く悪うございません。言葉を尽くされなくとも、義久様のお気持ちを測ることはできたはずです。全ては私の無知と弱さのためでした」
神々しい月の光のもとで微笑む葵は、無知でも弱くもない。彼女には、誰よりも強い意志がある。
「……お前はやはり、昔と変わらない」
「昔…?」
「いや、戦が終われば、必ず話す」
だから、今は。
静まり返る部屋の中。淡い月光に照らされて、浮かび上がった重なる影。
葵は自分の唇に手をあててみる。
「よ、酔っておられるのですか?」
「…さぁな」
相変わらず彼の表情は動かない。しかし、その顔が僅かに朱いのは、酒に酔っているせいなのだろうか。
「…義久様、御慕い申しております」
義久は、静かに目を見開き、そして、そっと眼前に佇む妻を抱き寄せた。その肩に頭を乗せ、微かに呟く。
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葵は、涙を堪えながら、頷いた。
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