雨降って地固まる

江馬 百合子

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二十四、沈黙

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 ゆっくりと、血を滴らせながら、倒れていく。
 静かに、それでも確かに地に倒れていく。
 見覚えのある少女を背に庇いながら。

「…義久様!」

 自らの叫び声に驚き気がつくと、朝になっていた。
 葵は腫れぼったい目をこすり、明るすぎる朝日をぼんやりと眺める。
 そしてその眩しい朝日に照らされながらも、未だ瞳を開かない夫の頬を撫でた。
 あのとき吉田を討っておかなかったがために。
 何度繰り返したかもしれない後悔の念が、再び渦巻く。
 葵の頬を、大粒の涙が伝った。
 その雫は太陽の光を反射してきらきらと輝く。

 義久が吉田を斬り、この戦を終結させてから、既に三日が経とうとしていた。
 あの戦いの後、駆け付けた政幸と秀之は、すぐに義久を城へと運び、丁寧な処置を施した。
 それらを済ませ、義久を寝かせた後、政幸は勿論、秀之までもが、葵の無事をまるで父親のように喜んだ。
 しかしそれは、かえって残酷なもののように感じられた。
 思わず、拳を握り締めてしまうほどに。
 ただひとえに、不甲斐ない自分を責めた。

 夕刻には義久は傷のための高熱に苦しみはじめ、葵は、何故私ではなく義久様が、と心のうちで不毛な問答を何万回も繰り返した。
 そして、その熱は今だ下がりきってはいない。
 彼はそのまま三日三晩、こんこんと眠り続けているのだ。
 その間葵は、片時も義久の傍を離れようとはしなかった。否、離れることが出来なかった。
 もし、このまま目覚めることがなければ。
 もし、この傷が癒えることがなければ。
 嫌な想像ばかりが渦巻く。それ故に。

 葵は一度固く目を閉じると、頭を振った。

「私が、信じて差し上げなければ」

 少しでも気分を紛らわせようと、既にぬるくなった手ぬぐいを冷水に浸し、固く絞る。
 前髪をよけ、冷えた手ぬぐいを額にのせるとき、そっとその汗ばむ額に触れてみた。
 葵の手が冷水によって冷えていたことも相まって、その額は火鉢の如く熱く感じられる。
 しかし、手ぬぐいを替えた後の義久の表情は、先程に比べると幾分穏やかなものとなっていた。

「冷たいものが、気持ち良いのでしょうか」

 葵は義久の手をすくうと、それを自らの両手で包み込んだ。
 少しでも熱を冷まして差し上げたい。しかしそれ以上に、少しでも近くにいたかった。
 義久の熱っぽい手の平に、自らの冷気が吸収されていくのが感じられる。
 そして自らの冷たい手に、じわじわと義久の熱気が伝わってきた。
 それだけが、今の葵にとっては、この上なく幸福な感覚。

 確かに、また共に暮らして行けるのだと確信できる、生きている証。
 しかし、その思考に反して、葵の瞳からはとめどなく涙が零れ続ける。

「…この大変な時分に泣いている暇など」

 自分に言い聞かせるように呟き、涙を止めようと固く目を閉じた。
 そして、そのとき、確かに感じた。
 自らの手がきつく握り締められる感覚。
 自らの手を熱い手の平が離れていく喪失感。
 そして、頬に感じる優しい温度。
 葵は、あまりの出来事に頭がついて行かず、ただ目を見開くことしか出来なかった。

「…何故泣いている…葵…」

 決して夢ではない、しかし現のこととも思われない。

「…よ…義久様…」

 葵は信じられないといった顔で、呆然と義久を見つめる。

「…そのような顔をするな…」

 そう言うと、義久は弱々しくもその指先で葵の涙を拭った。

「待たせて悪かった……今帰った…」

 その一言で、葵の意識は完全に現へと戻ってきた。
 沢山、謝りたかったのに、沢山、言いたいことがあったはずなのに、口をついて出たのは、たったの一言。

「…お帰り…なさいませ…」

 謝罪も、幸福も、感謝も、全てが、この一言で伝わるように。
 また再び、相見えることの叶ったこの運命を、噛み締めるように。
 すると、不意に義久がその瞳を僅かに細めた。

「如何かなさいましたか…?」
「…懐かしい顔だ…」

 葵は嬉しそうに微笑むと、頬に触れている義久の手に自らのそれを重ねる。

「…ずっとお待ち申しておりました。…約束、守ってくださいましたね」
「…当然だ」
「誰一人欠けることなく…」
「…あぁ、それについては秀之に礼を言わねば」

 葵はその一言に、一層笑みを深くした。心の内で、呟く。

 霜田様、ありがとうございます。
 義久様の御負担を、共に背負ってくださって。

「…義久様は、幸せ者にございますね」

 義久は一瞬、固まってしまったが、ふっと笑った。

「義久様」
「何だ」
「ありがとうございました」

 義久はよくわからないといった表情を見せる。
 それを読み取った葵は、更に説明を重ねた。

「私を、私の大切なものを守ってくださり、本当に、ありがとうございました」
「そういうことか…」

 義久は、漸く合点がいった。しかし同時に、その表情は曇ってしまった。

「…礼を言われる覚えはない」
「え…?」
「俺は、お前を守れなかった」

 葵は心外だとばかりに目を丸くすると、激しく首を横に振った。

「いいえ!私共は確かに貴方様に守っていただきました!それに…」
「……現に!」

 その義久の強い語調に葵は黙らざるを得なかった。

「お前は危険に曝されたのだ」

 葵は少しの間俯き、考え込んでいたが、不意にぱっと顔を上げるとはっきりと言い放った。

「それでも、私は無傷にて、貴方様の御傍に座しているではございませんか!」

 義久は軽く瞳を閉じる。
 自分はいつも、この少女に言いくるめられてしまうのだ。
 それも、悪くはないと思っている自分がいる。
 義久は、そんな自分を自嘲気味に嗤った。

「無事で、何よりだ」

 結局それが、精一杯の一言。
 しかし、それでも葵は幸せそうに言葉を紡ぐ。

「私は、とても嬉しいのでございます。再び、貴方様と言葉を交わすことができるのです。これから、共に未来を描くことができるのですから」

 義久は、自らの未来に想いを馳せた。
 かつて、未来など、絶望の行き着く果てでしかないはずだった。それなのに、今、この少女とともに歩む未来には、確かな希望を感じる。
 彼女とともに、未来を生きたいと願ってしまう。

「葵、ただいま」

 どうか、この少女に、暖かな未来を。

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