雨降って地固まる

江馬 百合子

文字の大きさ
26 / 36

二十六、恋慕

しおりを挟む
――矢之原へ出陣されていたこの国の次期当主が、見事勝利を収め、堂々帰ってこられた、その翌日。領主、清政はこの城で最も有能だと言われる女中を自室に呼び出していた。

「突然呼び出してすまないな」
「いえ、今日の分の仕事は既に終わらせてしまいましたので。それで、どのような御用件でございましょう?」
「お梅」
「はい」
「我が娘も嫁入りし、今では誠に義久殿を想っているらしい。そろそろ、お前も、室に入ってはどうだ?」

 お梅は、さして驚きもせずに淡々と返事をする。

「恐れながら、これまでもそのようなお話は、お断りさせていただいてきたはずでございます」
「…お梅、そろそろお前もいい歳だ。お前は自分で思っているより、器量も気立ても良い。このような話も次々と舞い込んできておる。何故そこまで拒むのか…」
「清政様、何度言われようとも、私めはどこぞの大名家の室に入る等、真っ平御免被ります」
「私はそれで構わん。お前程の優秀な女中は、この国中探そうともそうはおるまい。しかし、私はお前も我が子の一人のように思うておる。お前には、女子としての幸せも知ってもらいたい」
「清政様、勿体なきお言葉にございます。しかし、このお話はどうぞなかった事に。それでは、失礼致します」

 そう言うと、お梅はそそくさと退室してしまった。
 清政の部屋を出て自室を目指しながら、お梅は一人、考えに耽る。

 あのような保証も何も無い口約束を、これまで疑う事もせず、信じ続けてきたなんて、我ながら呆れてしまう。それでも、信じ続けていたい。それだけが、幼い主人を送り出してから、彼女の心に宿る、最後の希望だった。
 例え、かの方に忘れられていようとも、もう二度と、相見えることがかなわなくとも、それでも、忘れることなどできなかった。
 この想いが叶わぬものであったとして、今生で想いを遂げることが出来ぬ運命だとしても、諦めて他の方の元へ嫁ぐことなど、この胸の痛みが、決して許しはしまい。

 お梅は、主人が嫁いで行ってしまってからというもの、古い記憶の先にいる、愛しき想い人に想いを馳せることが多くなっていた。
 以前と比べ、心に隙が出来たから、という単純な理由によるものなのか。
 それとも、姫君の嫁ぎ先がかの方を思い出させるのか。
 いずれにせよ、お梅は僅かな幸福感と、それ以上の切なさを伴いながら、心に秘められた想いを自ら確かめている。
 今日もまた例外ではなく、自室へ戻ってからも、彼女はいつものように過去の記憶を手繰り寄せていた。


――――……


 初めてお会いした日は、今でも不思議なほど鮮明に覚えている。
 あれは、ちょうど今から五年前。
 中庭の桜の木は今より小さく、しかしその花は今と同じく美しく咲き誇っていた頃。
 隣国の新しい当主様が、清政様に挨拶にいらしたのだ。
 その時に見た。
 まだ幼さの残る当主様の隣で、若き家臣が必死に主を守ろうとしていた姿を。
 自分とさして変わらぬ年頃の青年が、敵地で一人、主人を守ろうと背を伸ばし、瞳を光らせるその姿に、お梅は人知れず、自分を重ねた。
 もし、姫様が敵地へ赴かれることがあれば、自らもあのように、そのお側を片時も離れず、何人にも触れさせはしないだろう。


――――……


 清政様のお部屋へは当主様お一人で入られ、その家臣は障子の外に正座し、待機していた。
 お梅は自らの用をこなしながら、度々その従者を視界の端に収める。いつ終わるかも知れぬものを、控えの間にも入らず、このまま廊下に座しているつもりなのだろうか。それは一見、礼儀を知らぬ、馬鹿馬鹿しいものに思われた。
 しかし、とお梅は思い直す。恐らく、自分が同じ立場に置かれたならば、やはり同じように、廊下に座してお待ち申し上げるに違いない。
 いや、もしかすると、一緒に中に入れるのだと喚いてしまうかもしれない。
 五度目に通りかかったとき、とうとういたたまれなくなってしまい、遂に声をかけてしまった。

「あの…」

 その家臣は緊張した面持ちで応答する。

「はい。何でしょう?」

 お梅は相手を警戒させないよう、なるべく柔らかく接した。

「ちょうど今、異国の使者様より頂いたお茶を淹れてみたところなのです。当主様方にはもうお出ししたのですが、少し茶葉が余ってしまいまして。そこにおられても、いつ終わるのかも分かりませんし、よろしければいかがでしょうか?」

 その男は、かなり渋った。口には出さずとも、この城の者を信用していないことは、火を見るよりも明らかだった。
 しかし、そこまで渋られては、お梅としても立つ瀬がない。何とか宥め、その場から動かそうと言葉を重ねる。
 すると、ぱんっと勢いよく障子が開かれた。

「騒がしい。俺が呼ぶまで何処ぞへ行っておけ」

 肩を怒らせた幼子の言葉に、従者は勿論、お梅までも、思わず平伏してしまった。


――――……


 それからまもなく、お梅と例の家臣は、中庭の桜の木が一番良く見える縁側に腰掛けていた。
 あの後も渋り続けた家臣をお梅が半ば強引に、ここまで引きずってきたのである。

「わざわざ私などのために淹れ直して頂いて、すみません」
「いえ、大切なお客様にございますので。お味のほうは、お気に召されましたでしょうか?」
「えぇ。とても美味しいですよ」
「それは、よろしうございました。私もこのお茶はとても良いお茶だと思っておりましたので」

 あれだけの問答を繰り広げた後だというのに、あまりに穏やかな女の表情に、従者は内心驚く。
 先程まではさぞかし気の強い女子なのだろうと踏んでいたのだが、予想が外れ、少々肩透かしを食らった気分だ。
 そのまま、茶を飲みながらときを忘れ、延々と話を続けてしまった。

「そろそろ、終わる頃でしょう。…今日はどうもありがとうございました」
「こちらこそ、とても楽しうございました」
「それでは、また」

 そしてその日、彼等は自国へと帰って行った。


――――……


 その帰りの道中、主の口から発された思いもよらない言葉に、彼は自分の耳を疑う。

「和睦を?」
「…なるべく早く」
「…承知しました」

 一体何があったのだろうかと不思議に思ったが、無論和睦は両国にとっての悲願である。
 この益のない諍いに、終わりが来る。そんな夢のような未来に、従者は思いを馳せた。


――――……


 その後も、彼等は度々訪問を重ねた。

「なんでも殿は、なるべく早く両国間の争いを収束させ、恒久的な和睦を結びたいのだそうです」

 ある日、例の家臣はこう言った。
 そして、笑いながらこうも付け足した。

「それから殿は、東雲城の庭にも、桜の木をお植えになりました。まったく何を考えておられるのやら」

 そう言いながらも家臣はその心情を把握しているようだ。
 お梅も何となく察せられたので共に笑う。

「それは仕方がございませんね。欲目かも知れませぬが、姫様は誠にお可愛らしいお方にございますから」
「そうですね。ゆくゆくは、お二人が両国を繋ぐ、平和への掛橋になられるやも」
「しかしその時になれば、きっと私めは素直に姫様を差し出すことが出来ぬかと思われます」

 お梅がそう言うと、二人は可笑しそうに笑った。
 しかし、どうも先程から家臣の様子がおかしい。
 笑ってはいるものの、纏う空気に、いつものような飄々とした自由さが見当たらない。
 どこか哀しげな視線に、お梅は訝しむ。

「如何かなさったのですか?」
「…今日がきっと、最後になります」

 お梅は目を見開く。

「そんな」
「…名を、お聞かせ願えますか」
「う、梅にございます」
「梅…良い名ですね」

 家臣はそっとお梅の手を取り、とても真剣な瞳でこう言った。

「いつの日か、両国間が誠に平和になった時、私は貴女を必ず迎えに来ます。何時になるかも解りませんが、互いの主人を信じましょう。その日まで、待っていてくださいませんか?」

 お梅は、力強く頷いた。
 嬉しくて、哀しくて、そうするのがやっとだった。
 家臣は嬉しそうに微笑むと、おずおずと背中に手を回し、お梅を抱きしめた。

「覚えていて下さい…私の名は………」

 突然の突風に桜吹雪が舞うが、お梅がその名を聞き逃すはずもない。

「はい…!」

 お梅は、舞い踊る花弁の中で、花の様に微笑んだ。


 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

処理中です...