雨降って地固まる

江馬 百合子

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二十八、真実

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「義久様、そろそろ御休憩くださいませ」

 ふと視線を後方へ走らせると、不安げな表情の葵が部屋の片隅に佇んでいた。

「…あぁ」

 あともう少しで仕上がるところだった書類を置いて、義久は立ち上がる。

 あの日、義久が目覚めてから早一週間。
 既に傷はほとんど塞がっており、本当なら先程の書類はきりの良いところまで終わらせてしまいたかったのだが、もう二度と、自分のことで涙を流す葵の姿を見たくはなかった。
 それに、今日は大切な話がある。

「葵」

 呼び掛けながら、義久は葵の隣に腰を下ろした。

「はい、何でございましょう?」
「…話がある」

 葵は、まるで予め予想していたかのような落ち着いた笑みを浮かべる。

「はい、是非ともお聞かせ願いたく存じます」

 しかし、これから何を言われるのかと、内心、葵はかなり緊張していた。
 そんな葵のただならぬ様子に、義久は僅かに笑みをもらした。

「そう固くなるな。こちらまで緊張してくる」
「は、はい…」
「あの桜の木だが…」
「桜…?」

 葵は義久の指の動きに従って、視線を庭先の桜の木へと移した。

「あぁ、あの木は気に入っているか?」

 義久の急な質問の意図が今一つ掴めない葵であったが、こんなところで嘘をついても仕方がないと、正直に答える。

「はい、とても。特に、こちらへ嫁いで来た最初の日などは、とても安心致しました」
「そうか」
「はい」

 一体何の話をしようとなさっているのかと、葵は訝しむ。

「実はその木は、清政殿の言葉に従い、俺が植えさせたものなのだ」
「義久様が…?父上に…?」

 混乱する脳内を、様々な疑問が渦巻く。
 ようやく口から出た言葉は、今、最も素直に聞きたいと思ったこと。

「それは、私のためにでございますか?」

 いつ、父とお会いになったのか。何故、その言葉に従ったのか。
 他にも、聞きたいことはいくつかあった。
 それでも、あえて根掘り葉掘り尋ねなかったのは、尋ねずとも、彼の方からお話しくださる、と確信していたから。

「…あぁ」

 葵は、その後に続く義久の言葉を静かに待った。

「今から、大切な話をする。…聞いてくれ」

 葵は、ただゆっくりと頷き、肯定の意を伝えた。
 それを目の端に認めると、義久はそのまま話を始めた。

「やはり、お前は覚えていないようだが、五年程前に俺とお前は会っている」
「…え……?」

 葵は、瞳を見開いて義久を凝視した。

「私が…義久様と…?…五年前……」

 暫くの間停止していた思考を再起動させ、必死で過去の記憶を探る。しかし、やはり「斎藤義久」なる人には覚えがない。

「申し訳ございません…私には…」
「いや、謝るな」
「……はい…」

 何と無礼なのだろう。まさかそんな大切なことを忘れてしまっていたとは。

「あの…一体何処で…?」

 なるべく早く思い出すために、葵は少しでも多くの情報を得ようと、さらに問いを重ねる。
 義久は懐かしげに両の目を細めると、いつもより少しだけ柔らかな雰囲気を纏いつつ、その口を開いた。
 それは、その思い出が、義久にとってかけがえのないものである、という何よりの証拠。
 葵は、一言たりとも聞き逃すことのないように、息を殺した。

「五年程前、俺は領主として、秀之とともに各国へ顔見せに出向いていたのだ」

 葵は驚いたような声を上げた。

「かように幼き頃から…?」
「別段驚くような歳ではない。父上が早くにお隠れになり、致し方なかったのだ」
「左様にございますか」
「それに、秀之が付いていた」

 一瞬悲しげに瞳を伏せた葵であったが、それを聞くと少し表情を明るくした。
 それを見て、義久はまた話を進める。

「そして、隣国、笹野清政殿のもとへ出向いたとき…葵、お前に会った」
「………」

 やはり何度思い返してみても自分には覚えがない。

「無理もない」
「…はい…?」
「あのときのお前は俺の名すら知らなかったはずだ」
「それは…どういう…?」
「あの日、秀之を外に待たせ、俺は清政殿に次代当主としての挨拶をしなければならなかった。俺は、もとよりこの争いには何の意味もないと、出来ることなら和睦をと、そう考えていた」
「それ故に、わざわざ我が父上のもとまでご足労くださったのですね」

 隣国の若き当主は、ずっと和平を望まれていた。
 内心、葵はとても驚いていた。
 祖国では、義久はまるで悪の総大将の如く言われていたので、当時は葵も、それを疑ったことなどほとんどなかったのだ。

「父の代で叶わなかったこの話を、俺から清政殿に持ち掛け、いつの日か和睦を、と初めはその程度の考えだったのだが」
「途中で、考えをお変えになられたのでございますか?」
「いや、和睦という根本にある目的に変わりはない。…だが、少々それを急くようになった」
「それは、一体どういう…」

 義久の瞳が、細まる。

「理由は…葵、お前だ」
「私……?」

 わけがわからぬままに、葵は義久を凝視する。

「一通りの挨拶を済ませ、そろそろ和睦の話を持ち出そうと考えていたとき、清政殿が言われたのだ」

――私には一人、大切な娘がおるのだが、生憎城には同じ年頃の者がおらん。宜しければ、相手をしてやって貰えないだろうか?

「…清政殿は俺の返答も聞かずに席を立ち、そのまま部屋を出て行かれてな…」
「…父上…」

 葵は父の傍若無人な振る舞いに恥じ入り、ぎゅっと着物の裾を握り締めた。

「…ようやく戻って来たかと思えば…」

――あやつは今朝方鍛練をしていたようでな、先程湯浴みを終えたところらしい。今、こちらへ向かってきておる。

 葵は、恥ずかしさで義久の顔が直視できなくなってしまった。
 だが、義久はそんな心情を知ってか知らずか、そっと葵の顔を覗き込んだ。

「そして、お前が入って来た。それも、髪に水を滴らせてな」
「え!?」
「冗談だ、と言いたいところだが、あのときのお前の怒り様から察するに、大方、清政殿に嵌められたのだろう」

――父上!これは一体!?兄上が私をお呼びだと!

「その後、清政殿は有無も言わさず退室してしまい、必然的に俺とお前が取り残されてしまったわけだ」

「…まさか…」
「どうしたものかと、視線を泳がせていたところ、お前が笑いかけてきた」
「…まさか…!」

 葵は戦慄く唇に指を当てた。

「あのときの…?」
「…漸く気づいたか」

――もし宜しければ、私と遊びませんか?

 遊ぶと言っても、義久は生まれてこの方、一度も子供のように遊んだことなどなかった。

「………」

 難しい顔で黙り込んでいる義久だったが、葵は構わずその手を引いて、そのまま部屋を出る。

「……おい…」
「はい?」
「…一体どこへ向かっている?」
「私の部屋でございます!」
「なっ…」

 流石の義久も、嫁入り前の娘の部屋に押し入るのは、気が引けた。

「待て!何を考えて…」
「すぐにお分かりになります!」

 そう言うと、葵は自室の襖を豪快に開け放ち、義久を部屋へと引き入れた。

「これは…」
「綺麗でございましょう?」

 義久は眼前に広がる光景に、思わず息をのんだ。
 部屋中の、中庭に面した障子は全て開け放たれ、そこから見えたのは、淡く輝く、桜花。
 部屋の中まで舞い込む花びらは、暖かな陽の光に照らされて、柔らかな輝きを放っていた。

 暫くの間魅入っていた義久だったが、今度は、遠慮がちに引かれた腕の感覚で我に返った。

「あちらで御覧になりませんか?」
「…あぁ…」

 遊び方のわからない義久にとって、この葵の申し出は、有り難いものだった。

「………」
「………」

 しかし、そもそも義久は、このようなときに何を話したら良いのか、全くわからない。
 だが、葵もまた、口を開く気配はなかった。
 どことなく嬉しそうに、瞳を細めながら、桜の花の舞い散る様を眺めている。
 義久は、無性に時の流れを、惜しく感じた。

「あ、そういえば、名前を名乗るのを忘れておりました。私は葵と申します。貴方様のお名前は?」

 ゆっくりと紡がれた葵の言葉に応じ、義久は視線をそちらへ向ける。

「俺は……」

 知られたくない、と思ってしまった。
 敵国の領主である自分の名を聞いた後の、少女の反応が、恐ろしい。

「………」
「…いつの日か、お教え下されば…とても嬉しうございます」
「…わかった」

 いつの日か。それまでに、少しでもこの戦の絶えぬ乱世を、泰平の世へと導いてゆく。
 そして、いつの日か、この名を伝えよう。


――――……


「あの後、何度も会いに来てくださいましたのに、ある日突然消息を絶ってしまわれまして、とても、心配致しました。父上にも、何度かお尋ねしたのですが、何も話しては下さりませんでした」
「そうか、悪かった」
「いえ、ですが、何故もう少し早くお教え下さらなかったのですか?私は、その…貴方様から直接聞きたかったと…」

 顔を赤く染めて俯く葵に、義久は怪訝そうに聞き返す。

「…何を?」
「…ですから、婚儀の件にございます」

 義久は漸く葵の言わんとするところが理解出来た。

「…俺も、出来ることなら清政殿を通さず、自ら申し込みたかった。お前にとって、斎藤義久なる者は全く見知らぬ人物。それどころか、敵国の頭だ。さぞかし不安な思いをさせてしまったに違いない」
「…はい、最初は、ですが」
「…すまなかった…恐ろしかったのだ」
「…え?」
「お前の拒絶が…お前が俺の前から消えてしまうのではないかと」

 葵はまだ赤みの残る顔を上げ、強い意志のこもった瞳で義久を見つめた。
 そして、その手をそっと、一回り大きな義久の手に添える。

「私は、ずっとお側におります」

 葵は、その手がしっかりと握られるのを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。

「…あの桜は、清政殿が条件に出されたのだ。『誠に葵を嫁にしたくば、桜をなるべく近くに植えてやってくれ。あやつは、桜のもとでしか生きられぬ』と」
「…私はかように儚げな桜の如くは生きられません。お梅と、約束致しましたので」
「約束…?」
「はい、桜は強くあらねばならぬのでございます」

 ご存知でしたか?と幸せそうに笑う葵を、義久は力強く抱きしめた。

「…葵」
「はい…?」
「…許せ」

 唇に感じるこの温度に、耳を掠めるこの言葉に、涙が零れそうになる。

「葵……ずっと、お前を想っていたのだ」

 一寸先も見えないような暗闇の中、その想いだけが、どれほど優しく、眩しく見えたか。その想いのために、どれほど強くあれたか。
 この想いを、全て彼女に伝えることは、できない。そんな言葉は、きっと存在しない。
 だから、この先、長い長い年月を、彼女と共に生きるのだ。生きて、彼女に伝えたい。
 どれほどの想いを、この胸に秘めてきたか。どれほど、強く焦がれてきたか。
 愛しい、唯一の、存在に。

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