音無しの世

江馬 百合子

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音無しの世

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 辺りが暗くなり始め、村中で走り回っていた子供達も、皆各々の家へと帰って行った。

 しかし、此処、露子婆の家には、今だ一人の娘が、囲炉裏の傍に腰をおろしている。

「ねぇ、露子婆様、何かお話聞かせて?」

 その娘、松がそうせがむと、着物を繕っていた露子婆は、作業を中断して楽しそうに微笑んだ。

「そうだねぇ…どんなお話が聞きたいの?」

「んー…露子婆様にとって、大切なお話ってある?」

「勿論、ありますよ」

「じゃあ、それが聞きたい!」

「はいはい…」

 露子婆は、目尻の皺を深くしながら、懐かしげに語り始めた。

「これは、まだ私が十七かそこらだから…ちょうど貴女くらいの歳の頃の話で…」

「どんなお話なの?」

 露子婆は、悪戯に笑うと、そっと囁いた。

「恋の…お話ですよ」

 僅かに頬を染めた松に、露子婆は釘を刺した。

「ただし、この話は、うっとりするような恋のお話ではないのよ。こんな話、本当にしてよいのか今だに迷ってしまうくらい。
でもねぇ、私はいつか貴女が大きくなったときに、この話を聞かせようと思っていたの…」

 松は、深く頷いた。
 露子婆が今から語ろうとしている話が、本当に大切な話であるということを、感じたから。
 何故、自分なんかに話そうと思ってくれたのか、わからないけれど…それでも、そう思って貰えたことが嬉しくもあった。

「それでは…これより、始めさせて頂きましょう…」

 露子婆の口調が、急に変わった。
 これは、語りをするときの露子婆の癖のようなもので、松は、この癖が大好きだった。

 露子婆の、流れるような語調に任せて、松の意識は話の淵へと落ちていった。


――――……

 当時私は、とある村の外れにひっそりと佇む診療所で、父の助手を勤めておりました。
 私の父に当たります泉田秋吉先生は、常に医は仁術を体言なさっておられるような方でして、本に立派なお医者様にございました。

 その日は、昼過ぎまで誠に清々しい秋晴れでございましたのに、どういうわけでございましょう?
 夕刻には怪しい雲が出始めまして、日がとっぷりと沈んでしまいました頃には、轟々と凄まじい風が戸口を叩いておりました。
 これは、今夜中に嵐になるだろう、ということは、安易に予測出来ましたので、私は夕餉の粥を作りながら、出張致しておりました父の帰りを、今か、今か、と待っていたのでございます。

 しかしながら、待てども待てども、父の帰る気配は致しません。
 作った粥も、とっくに冷めておりました。

 流石に不安になりました私が、探しに行こう、と立ち上がりました、ちょうどそのとき、戸口を叩く者があったのでございます。
 それは、明らかに風によるものではございませんでしたが、なにせ、草木も眠るなんとやら…。
 父も不在であるのに、この戸口を開ける勇気が、私にはございませんでした。

 すると、「…ゆ…お露…」と風に掻き消されながらも、確かな父の声が私の耳に届いたのでございます。
 私は、先程の情けない自分を恨みながらも、急いでその戸口をお開け致しました。

 戸口に立っておりました父は、雨風に晒され、顔面蒼白、まるで川にでも嵌まってきかのように、髪からは水滴が滴り落ちておりました。
 私が急いで父の手を引き、家の中へと促しましたところ、父はどうやら背に人を負っているようでございました。
 別段、珍しいことではございません。
 父は、お代など殆ど受け取らぬような医者でございましたので、行き倒れている人を、捨て置くことは出来ぬのでございます。
 また、私は父のこのようなところを尊敬致しておりました。

 ですので、戸口に立ち尽くし、家へ入るのを躊躇う父が、私は不思議でなりませんでした。

「先生!早くお入りくださいませ!」

 私の必死の叫びが通じたのでございましょう。
 父は、躊躇いながらも家へと入り、背に負っていた人物を、ゆっくりと患者様用の布団へと、寝かせたのでございます。

 そのとき、私は唖然と致しました。
 その男性は全身、血に濡れていたのでございます。
 しかし、わたしがその方を目に留めていられたのも、ほんの僅かな間だけ。
 すぐに、父に追い出されてしまいました。
 治療を始めるためだと申しておりました。
 本音のほうは、言わずとも、私には刺激が強過ぎると判断なされたのでございましょう。

 それから明け方まで、父はその部屋から出てきませんでした。
 その間、私はいつ呼ばれても良いように、ずっと待機しておりましたが、とうとう父は私を呼ぶことなく、お一人で治療を終えたのでございます。

 治療を終えました父の着替えを手伝い、温め直しました粥を共に口に運んでおりましたところ、不意に父がその口を開きました。

「あの者が回復するまで、面倒を看てやってくれ」

「はい!…ですが、あの方は一体…?」

「あの者は、川に流されていたのだ」

「川に…?」

 父が濡れておりましたのは、雨に打たれたのは勿論のこと、川に飛び込んだためでございました。

「あの…あの方はお怪我を…?」

「いや、大した傷ではない。かすり傷だ。ただ、濡れて血が滲んでいただけだ」

 私には、父のこの言葉が嘘でありましたことは、すぐにわかりました。
 しかし、父がそう言われるのであれば、私には、それ以上申し上げることは、何もございませんでした。

 その後数日間、その方は昏睡致しておりました。
 よほど傷が酷かったものと思われますが、確認は致しておりません。
 体を拭くなどの仕事は、全て父がやってしまい、私にはやらせて下さいませんでしたので。

 しかし偶然、その方がお目覚めになられた日、父はまた、出張へ出ていたのでございます。

 私が、また夕餉の粥を作り終え、看病致しておりましたところ、急にその方の顔が苦しげに歪んだのでございます。
 どこか痛むのか、と思いましたが、私にはどうすることも出来ません。
 すると、その双眼がゆっくりと開き、私の姿を捉えたのでございます。
 正直、驚き入りました。
 うめき声の一つも漏らさずにお目覚めになられるなんて、予想だにしておりませんでしたので。

 その方もまたかなり驚かれた様で、私の姿を認めると、あろうことかその身を起こしたのでございます。
 案の定、傷口が痛んだ様でして、すぐに倒れてしまいましたが。

「大丈夫ですか…?まだ寝ていて下さいませ」

「………」

 相当痛んだのでございましょうか?その方は返事をして下さいませんでした。
 しかし、その目はじっと私を捉えております。
 なんだか照れ臭くなりましたので、私はその沈黙を破りました。

「私は、泉田露子と申します。ここで父の助手を致しております。貴方様は一体、どちらのお方なのですか…?」

「………っ…!」

 聞こえなかったはずはございません。なにせこの至近距離でございます。
 ですが、あえて無視をしているようにも見えませんでした。
 何かに驚き、慌てているような…。

「まさか!お声が出ぬのでございますか…!?」

 すると、その方はゆっくりと頷かれました。
 私は、何とかしなければと思いましたが、これは父の領分だと判断いたしましたので、

「安心して下さいませ。
父ならば、きっと治して下さいます」

とだけ、お伝え申しておきました。

 しかしながら、名がわからぬというのは、不便な話でございますので、私は隣の部屋から紙と筆とを持ち出して、その方にお渡し致しました。

「お名前を、お聞かせ願えますか…?」

 するとその方は、何やらさらさらと書き込んで下さいました。

「弥之介…様にございますか?」

 一応確認をとってみましたところ、またその方はゆっくりと頷かれました。

 そのとき、その方…もとい弥之介様の腹の虫が、こちらにまで聞こえてくる程に激しく鳴ったのでございます。
 私が思わずくすりと笑いましたところ、弥之介様は何やらばつの悪そうなお顔をされております。

「それでは、弥之介様。
只今、粥をお作り致しましたので、どうぞお食べになって下さいませ」

 そう言って、粥を匙で口元へとお運び致しました。
 ですが、弥之介様はその口を開いて下さいません。

「粥は…お嫌いですか?」

 首を左右に振られます。
 嫌いでないのであれば、何故食べて下さらないのでございましょう?

 私は試しに、それを自ら食して見せました。
 それから、また再び匙を弥之介様のほうへと運びましたところ、今度は多少躊躇いながらも食べて下さいました。
 どうやら警戒されていた様でございます。

 私はこのときから、少なからず弥之介様の過去が気になっておりました。
 しかしながら、そのようなことは、そのときも、そしてその後もけして詮索致しませんでした。
 そのようなことをすれば、弥之介様はきっと、私の前から姿を消してしまわれると、そのように思われたのでございます。

 その後、父がお帰りになられましたので、弥之介様の喉を看てもらいましたところ、父は、

「…治るまで、此処にいなさい」

とだけおっしゃり、すぐに奥の部屋へと入ってしまわれました。

 父は、望みは薄いと判断したのでございましょう。
 弥之介様もそれを感じ取られた様で、瞳は絶望の色に染まっておりました。

 私は、少しでも元気づけたく思いましたので、

「大丈夫でございます!
きっといつか治ります!
それまで、一緒に傷のほうを治していきましょう!」

と申し上げました。

 そのとき弥之介様の見せて下さった笑顔は、苦しげで、優しくて…惹かれなかった、と言えばきっと嘘になるのでございましょう。


 それから、一年足らずの時が流れました。
 季節は、うだるような暑さが身を焦がす、夏。
 私達は既に、晴れて恋仲となっておりました。

 初めて父にお話ししましたときも、特に反対されることはなく、穏やかなものでございました。
 恐らく父も、弥之介様の誠実なお人柄に惹かれていたのでございましょう。

「弥之介様ー!!」

 そのとき私達は裏手の畑にて、野菜を収穫致しておりました。
 弥之介様が、大きく手を振って下さいましたので、私は収穫物を入れる籠を片手に、駆け寄ります。

「弥之介様が手伝って下さったお陰で、今年は豊作でございます!」

「………」

 言葉など無くとも、私に応え、弥之介様は優しく微笑まれるのでございます。
 それから、私達は手早く大方の収穫を終えてしまいました。

「それでは弥之介様、私はこれをいつもの方々へ売って参ります。先に水車小屋にて水を汲んでいて下さいませ。私もすぐに向かいますので」

 弥之介様の頷く姿を確認しまして、私はいつもの通り、村の方々へ野菜を売りに参りました。
 これは、本当にいつものことでしたので、全てを売り払うのに半刻もかからぬのでございます。

 手持の野菜を全て売ってしまい、水車小屋へ向かっていた…そのときでございました。

「あの、貴女が例の露子さん?」

 茶屋の娘に声を掛けられたのでございます。
 その方は、誠に見目麗しいお方でして、女子の私から見ましても、かなりお可愛らしい目鼻立ちでございました。
 しかしながら、そのような方が自分に何のご用でございましょう?

「はい、あの、何かご用で…?」

「あぁ、やっぱり貴女なのね!話せない他所の男性と夫婦になろうとしている方というのは!」

 私は、驚きで返事を致すことすらかないませんでしたが、それでもその娘は構わず喋り続けます。

「悪いことは言わないわ、そんな男性止めておきなさい。自分を安売りしてはいけないわ!三軒先の呉服屋の若旦那様、実は貴女に想いを寄せていらしたのよ。あの若旦那がよ?財は十分お持ちだし、かなりの美男、その上その優しいお人柄といったら…今からでも遅くはないわ、さっさとそんな男なんて捨ててしまいなさい」

 私は余りの怒りに我を忘れそうでございました。
 ですが、この娘なりに私を気遣かって下さったのだということは察せられましたので、

「…有難うございます」

と、多少の厭味を込めて一礼をした後、そそくさとその場を後に致しました。

 その後、水車小屋にて弥之介様を見つけましたときのあの安心感は、今でも忘れることが出来ません。

「弥之介様!」

 私は急いで駆け寄り、その胸に抱き着きこうと致しましたのに、何故か弥之介様は後退なさるのでございます。

「弥之介様…?」

 弥之介様の瞳は、出会ったときと同じく、私を警戒致しておりました。
 しかしながら、私にはどうしてそのような態度をとられるのか、皆目見当がつきません。
 ただ、悲しくて仕様がございませんでした。

――そのとき…!

 弥之介様が私を抱え、飛んだのでございます。
 飛んだというのは嘘ではございません。本当に飛んだのでございます。

 着地した後、弥之介様は私を背に庇い、何者かを睨みつけておりました。

 そのとき聞こえてきましたのは、冷たく鋭い、刃の様な声音でございました。

「やっと見つけたぞ、弥之介…」

「よもや、このような所に隠れていようとは…」

「大人しくしておけ…」

 どうやら三人組のようでございます。
 ですが、一体弥之介様に何の用があるのでございましょう。
 私は弥之介様の背にしがみついておりました。
 すると、その者達の注意が私に注がれたようで。

「弥之介…お前の女か?」

「それならば…お前共々消すより他はない」

 思わず身震いが致しましたが、弥之介様がしっかりと抱きしめてくださり、私は誠に安心致しました。
 しかしながら、私が弥之介様の背から顔を覗かせた瞬間、その者達の目の色が変わったのでございます。

「お、お前は…!」

「いや、そんなはずはない!しかし、あの首に提げているものは…!」

「何より、瓜二ツではないか!『長十朗』に!」

 私にはわけがわかりませんでした。いくら記憶を探ろうとも『長十朗』なる人は存じ上げません。

 首飾り…と申しましたのは、物心ついた頃には既に首に掛けておりましたので、私自身これがどのような物であるかなど、知る由もございません。

「おい、女。貴様は何も知らぬのか?」

 その不躾な問いに、私はそっと頷いておりました。
 私はその話が気になったのでございます。
 私はこれまで、自分は捨て子であったのだと、そう信じておりました。
 しかしながら、その者達は何やら私の過去を知っているようでございます。
 父の話して下さらなかった真実を、話して下さるのやもしれません。

「そうか、では冥途の土産にきかせてやろう…」

「貴様は、弥之介が忍であることを知っていたか?」

 私は、全く驚きはしませんでした。
 最初の怪我といい、声の出ない喉、それから稀に見せる超人的な身体能力。普通の村人であるなどとは思っておりませんでした。

「…まぁ良い。その昔、貴様の兄、長十朗と弥之介は大の親友であったのだ。そして、二人とも我等と同じ里の同士だった。無論、貴様もな」

「それでは…何故私は…」

「全ては、お前の兄の裏切りによるもの…」

 そのとき、弥之介様の纏う空気が冷たくなりましたのが感じられました。
 きっとこれが、弥之介様の逆鱗なのでございましょう。


「お前の兄は、あろうことか他里の女と結ばれようとしたのだ」


――なぁ…弥之介


「忍里の懲罰は一族殺し。例外などありはせぬ。貴様の兄は、私が罰した」


――…俺は……


「当時貴様ら兄妹の親は、既に殉していた。故に残されたのは未だ五つかそこらの貴様のみだったのだ…」


――…恋というものを


「皆で話し合った結果、貴様は川に流されることとなった。しかし、それに頑なに反対した者があった。そこにいる、弥之介だ」


――…してしまった…


「死に逝く友への贖罪であったのか…」


――…それ故に……


「無論、貴様は俺が川へ流した。しかし、弥之介は最後まで諦めなかった。皆の記憶からその件が薄れ始めた頃を見計らい、あろうことか、此奴は里を抜け、貴様を探し始めたのだ」


――…俺はもうじき…


「弥之介の声が出ぬのは、我等が長が此奴の裏切りを恐れ、予め、里を離れれば声が出ぬようになる秘薬を飲ませておいたため…」


――…死ぬ…


「危惧していた通り、弥之介は里抜け出た。その際、此奴は長十朗を罰した私を切り付けて去った」


――だが…悔いはない…


「全く、信じられぬ奴よ」


――…ただ一つだけ…


「自らも見殺しにしたのだ。我等と同罪ではないか」



――妹を…頼んだ



 その瞬間、私には何が起こったのか、全くわかりませんでした。

 目に入ってきましたのは、余りにゆっくり崩れ落ちてゆく男達の亡骸と…返り血に染まった弥之介様の立ち姿のみにございます…。

 それが余りに恐ろしくて…弥之介様が、まるで狂ってしまわれたかのようで…

「なぁ…露子…」

 私はいつの間にやら涙を流しておりました。

「あの薬は…同士の血を浴びると効果を失うのだ…」

 本当に、恐ろしくて、恐ろしくて…

「露子…俺は…長十朗を…お前の兄を…」

 私は、後ずさってしまったのでございます。

 そのときの弥之介様のお顔は、今となりましてもけして忘れることなど、かないません。

 驚いておられるようで、哀しんでおられるようで、笑っておられるようで…

「…その首飾りはな…俺が長十朗から譲り受けたものだ…」

 私は、取り返しのつかぬことをしてしまったのだと、今更ながらに気づいたのでございます。

「…お前が、この村で幸せに暮らしてゆけるのならば…俺には…もう…生きる意味など無い」

「そんな…弥之介様…」

「…呉服屋の若旦那ならば…信頼に足る人物だ」

「き、聞いておられたのですか…」

「お前はあのとき…頷いていたな…」

「あれは…!」

「お前は今…後ずさった」

「…っ……」

「…俺が…恐ろしいのだろう?」

 私には、弥之介様に嘘をつくなどということは断じて出来ませんでしたので、ただ、正直にお答え申すより他にございません。

「はい…とても。しかし、私にとっては弥之介様を失うことのほうがよっぽど恐ろしいことなのでございます!…どうか…私を置いて行かないでください…!」

 弥之介様は両の目を見開き、驚かれておりました。

「しかし、もうこの里にはいられぬのだぞ…?秋吉殿にも、もう二度と…」

 父の名を出され、心が揺れなかったと言えば嘘になるのでございましょう。しかし…

「他に道が無いのであれば…私は弥之介様について行きます」



――そのとき…



「お露…行きなさい…!
ただし…いつでも、いつでも帰ってきなさい!」


 懐かしい、父の声が聞こえてきたのでございます。

 その声音は心なしか、涙に濡れておりました。


「はい…!父上!!」


 私が父を父と呼んだのは、それが、初めてでございました。



 その後、私は弥之介様の広い背に背負われ、夜の闇の中を、ただ、ひたすらに駆けたのでございます。


――――……


「…それで…露子婆様はこの村に…?」

「えぇ、そうなのです。
そして貴女は私達の…大切な孫娘」

「私が…」

「重く感じましたか?」

「…この命が…」

 露子婆は満足げに笑うと、深刻な表情で固まっている松をしっかりと抱きしめた。

「松、命は巡るのです…だから誰かに伝えておきたかった…」

「…絶対に忘れない」

 そう言う松の表情は真剣そのもので、露子婆は、心の底から伝えてよかったと安心した。

「あ、それから…言い忘れていた…」

「……?何を…?」

「今日は…」

―…ガラガラ…バンッ!

 言いかけた露子婆の声は激しく開けられた戸口の音に掻き消されてしまった。

 露子婆が苦笑をもらしていると、土間の方から

「…露子!今日は台所には下りて来るな!」

と聞き慣れた声が聞こえてきた。

「はいはい、わかっておりますよ」

 不思議そうにしている松に、露子婆は、先程の続きを話し出した。

「今日はね、私達が共にこの村に住み始めた…つまりは共に生まれ変わった記念日なのですよ」

 松は、露子婆の胸中を思うと涙を零してしまった。
 それまでの大切なものを全て捨てて…それどころか自分というものまで捨ててしまったなんて…果たして、今の自分に、この露子婆と同じことが出来るだろうか…

「そんな顔をしないで頂戴?今日は本当におめでたい日なのだから。それより、貴女の父母も呼んできて下さいな。今日は、この日をいつもより盛大に祝いたい気分なの」

 露子婆があまりに幸せそうに笑うため、松もつられて笑ってしまった。

「うん!すぐに連れて来る!」

 松が出ていくのを見送ると、露子は弥之介に語りかけた。

「…いつから聞いておられたのですか?」

「『何かお話を…』の下りからだな…」

 露子は、軽くため息をつくと、ゆっくりと土間へと下りていった。

「やはり弥之介様だけでは不安でございますので、私もお手伝い致します」

「そう怒るな」

「怒ってなどいません。何せ今日は、何より大切な日…」

「そういえば、何故あのような嘘をついたのだ?」

「嘘はついておりませんよ?ただ、本当のことを言っていないというだけで…」

 弥之介は苦笑すると、また野菜を刻み始めた。

「今日は…俺とお前が初めて出会った日だろう?」

「はい。そしてこの地へ移ってきた日でもあります」

「…お前は…後悔していないのか…?」

 露子は一瞬懐かしげに瞳を細めたが、またすぐに、いつものにこにことした表情に戻った。

「私は一度も後悔など致しませんでした。辛いこともございましたが、それ以上の幸福を頂きましたので」

「そうか…俺も同じだ」



――長十朗…果たして、俺はお前との約束を守れたのだろうか…いや、それはじきに、直接聞ける。
とりあえず、今はこの幸福を伝えておこう。


もう暫く、そちらで俺達の生き様を、見守っていてくれ。
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