月と闇夜の渡り方

江馬 百合子

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輾転反側

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「こちらでございます」

『千鳥の間』

 私達の案内された部屋の入り口には、達筆な字でそう書かれていた。
 辺りはひっそりとしており、人の気配すらしない。

「こちらは離れでございますので、どうぞお二方でごゆっくりと…」

 そう言って慇懃に礼をした宿主は、そそくさと去って行った。
 厄介払いなのだろうか…?
 こんなふうに穿った考え方をするのは、良くないことだと、分かってはいるのだけれど。

「…入るぞ」

 晴明様も、別段気にしておられる様子はない。
 部屋に入ると、やはり私の穿ち過ぎであったことが悟られた。
 内装から調度品まで、廊下から覗いたどの部屋よりも、豪奢なものであったからだ。
 要するに、ここは、特に身分の高い方などのための、特別な部屋なのだろう。
 灯りも、十分すぎる程に輝いていて、中央には、既に夕餉が用意されている。
 奥にもまだ部屋が続いているようだが、十中八九、寝所であろう。

「大分、落ち着いてきたようだな」

 そこで、はっと自分の状況に気がついた。

 涙が止まってからも、私は晴明様にもたれるようにして、ここまで歩いてきてしまったのだ。

 何と、迷惑な…!
 ご無礼を…!

「あ、あの、晴明様、本当に、すみませんでした…えっと…もう、大丈夫ですので…」

 取り敢えず、そう言って、晴明様から離れた。

 笑顔が、引きつっているのが自分でもわかる。

「なんだ、もう良いのか」

 対して、晴明様は何だかとても楽しそうだ。

「…しかし、傍から見れば、あれでは私はここへ恋人を連れ込んだようにしか見えぬな。
 何人に噂をされることやら…」

 そうして、私にとどめを刺された。

『ただでさえ、既に私の意識は晴明様で満杯であるのに、その上、そのような…!』

 この先、人々の間でそのような噂がなされるのかと思うと、羞恥やら何やらで、やりきれない。

 そこで、はっと思い至る。

 私はしがない一娘であるのに対し、晴明様は、あの安倍晴明様である。
 そのようは噂が立っては困るのではないだろうか。

「あの、晴明様、それは、大丈夫なのですか?
 まして、相手がこの私では…」

「…どういう意味だ?」

 どうやら、分かっておられないようだ。

「…ですから!晴明様程の方が、私のような身分も何もない醜女とねんごろだと噂になってはまずいのではないのですか…と…」

 予想はしていたけれども、自分で言うと、余計に悲しいものがあった。

 そして、気づいた。

 私と晴明様の、あまりの差に。

 まぁ、別に本当に晴明様とねんごろになる必要はないのだから、釣り合っていなかろうと気にすることはないのだけれど。

 …ないはずなのに。

 どうして、こんなに胸が痛むのだろう。

 …もう、この話題は切り上げてしまおう。

「まぁ、今更言っても詮方無きことですよね。
 夕餉にしましょう!
 私もうお腹が空いてしまって…」

 そう言って、私は用意されている座についた。

 上手く、笑えているだろうか。

 私に倣うように、晴明様も、正面の座につかれる。

 そして、すっと私を見つめた。

「では、いただきましょ「千代」

 折角、調子を取り戻してきていたのに、その一言で、また胸がざわつき出す。

「は、はい、何でしょう?」

 思わず、どもってしまう程に。

 晴明様は優しげな面持ちで、さらにこう続けられた。

「…私は、構わぬ。
 そのような噂等…むしろ本望だ。
 あまり、己を卑下するな。
 言ったであろう、其方は、自らの魅力に、気づいておらぬだけだ」

 そして、苦し紛れに飲んでいたお茶を、むせさせた。

「ごほっ…ごほっ……」

「大丈夫か?」

 性質が悪い。
 あんな殺し文句をさらりと言ってしまうなんて。
 私を、安心させようと言ってくださったのであろうが…。

「…あ、ありがとうございます…ですが、晴明様、少しご自分のお言葉を思い返してみてください…もう少し、ご自重を…」

 でなければ、私の心臓がもたない。

「何のこ…」

 そこで、晴明様は不自然に言葉を切った。

 不思議に思って晴明様の方に視線を向けると、晴明様は黙々と箸をお運びになっていた。

 下を向いておられるので、顔色は窺えない。

 これまで、晴明様がこれほど食べ物にがっついておられたことなどあっただろうか。

 余程空腹であったのだろう。

 もはや、私の空腹状態も限界に達していたので、私も、漸く箸を取った。

 それと同時に、

「寝支度をしてくる。
 其方も食事が終わり次第、支度をしてから寝所へ来い」

 そう言って、晴明様は普段より若干せわしなく立ち上がられた。

 見れば、夜間着一式が側に揃えてある。

 それにしても、もうお食べになられたのか。

「晴明様、きちんと味わってお食べになりましたか?」

 少し心配になってそう尋ねてはみたものの、

「…あぁ」

 あまりにあっけなくそう言って、晴明様は奥の間へと消えてしまった。

『…不機嫌…?』

 しかし、心当たりが全くない。

『取り敢えず、早く食べてしまおう』

 そう思い、私は少し急いで、お吸い物を飲み干した。

「晴明様…?」

 そうして夜間着を着付けながら、障子越しに、呼びかけてみた。

「どうした?」

 いつも通りの返答が、また、返ってくる。
 それに、ひどく安心する自分がいた。

「いえ、怒っていらっしゃるのかと思ったのですが、気のせいみたいですね、すみません」

 思わず、顔がほころぶ。

「少々、決まりが悪かっただけだ…気にしてくれるな」

 あぁ、晴明様も、気にしておられたのか。

「…嬉しかったです。
 あそこまで言って私を元気づけようとしてくださる晴明様が…」

 心にもない言葉でも、心根の込もった言葉は、やはり嬉しいものだったから。
 しかし、暫しの沈黙の後、

「いや…本心だ」

また、私はいたたまれなくなってしまった。

「晴明様、酔っておられるのですか…?」

 火照って仕方のない頬を誤魔化すように、そう茶化してみれば、

「…そうかも知れぬな」

 また、いつも通りの晴明様。
 何だ、と安堵する自分と、少し寂しさを感じる自分。
 後者を打ち消すように、また、会話を続けた。

「晴明様、よもやとは思いますが、同室で眠るのですか?」

「嫌か?同室どころか布団まで一つだが」

 …今、何と…?

「な、何故!?」

「さてな。
 しかし、見たところ布団は一つしか用意されていない。
 大方、先程の騒ぎで宿側が勘違いをしたのだろう」

 声を大にして文句を言ってやりたい。

 何を勝手な勘違いを…!

 しかし…あの様子を見れば誰だってそんな勘違いもしてしまうだろう。
 つまり、全て私が原因だ。
 文句を言いたいのはむしろ、晴明様の方かもしれない。

「そうですか…すみません、とんだご迷惑を…」

 寝相にだけは、気をつけよう。

「私は構わぬよ。
 むしろ楽しみだ」

 そして、本当に楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

 …楽しみ…?

 まぁ、晴明様に限ってそれはあるまい。
 杞憂というものだ。

「支度が終わったのなら早めに休むぞ。
 明日も早い」

 確かに、明日も早朝出発だ。

「はい、すぐ行きます」

 私は部屋の明かりを全て吹き消してから、寝所の障子をすっと開いた。


――――……

 部屋の中の火は既に吹き消されていた。急に暗い寝所へ足を踏み入れたため、一寸先のものすら満足に見えない。

「晴明様…?」

 呼びかけてはみたものの、返事はない。このまま手探りで布団を探しても良いのだが、既に休まれている可能性のある晴明様を、誤って踏みつけてしまわぬよう、暫しその場で目が慣れるのを待った。

 こうして、視覚が奪われてしまうと他の感覚が鋭敏になるようだ。普段は気にも留めないような音が、ひたひたと耳に入ってくる。遠く響く虫の音。風にざわめく尾花。雨音。そして、ひどくかすかな息の音。
 何もおかしなことはない。晴明様も人の子なのだから。ただ、少々浮世離れした存在であるかのように思っていたかの人を、何だか、とても身近に感じた。
 その音に集中して更に耳を澄ませていると、円形の窓から差し込む月光が、ぼんやりと浮き上がってきた。どうやら、漸く暗闇に慣れてきたようだ。そのまま、ぐるりと部屋を見回す。
 二人で休むには少々広すぎる、畳敷きの部屋であった。左手には書棚や文机なども備え付けられている。そして、その部屋の中央には、先程晴明様が仰っていたとおりに、一組の布団が用意されていた。
 宿の者を呼び、もう一組追加させれば良いのではないかと、そのときはたと思い至ったのだが、すんでのところで思い留まる。それで恥をかかれるのは他でもない、晴明様であるからだ。「寝所まで連れ込んでおきながら、閨を共に出来なかったのか」と。それに、そんな言い訳を抜きにしても、晴明様と共に休みたかった。無論、妙な意味ではなく。

 しかしやはりきまりは悪い。なるべく布団を直視しないように、差し込む月光に視線を向ける。
 その窓辺に、晴明様は座しておられた。

 普段は烏帽子の中に纏められている濡れるような黒髪が、背中にまで流れ、月光を浴び、銀色に輝いている。
 抜けるように白い肌も、自ずからぼんやりと白い光を発しているようだ。
 そして、底の見えない深い瞳は墨のように、黒く掴み所がない。月に向けられたその瞳を見ていると、彼の意識、彼自身が、既にここには存在していないかのように思われた。それ程に、彼の瞳は、現を見てはいなかった。

「晴明様?」

 先程より、はっきりと呼びかけてみた。そうしなければ、彼の意識は戻ってこないような気がした。
「…案外早かったな」

 すっとこちらに向けられた瞳に映るものは、もう虚空ではない。

「…また泣くのか」

 今、晴明様の瞳に映るのは私だけ。彼の瞳に映る私は、なんてみっともない顔をしているのだろう。

「泣きませんよ…!」

 自分に言い聞かせるように虚勢を張った。下がっていた口元を引き締め、すたすたと晴明様の元まで、なるべく堂々と歩いて行った。そうして、出窓の端に腰掛ける。晴明様はまた視線を月へと戻した。心なしか、先程より雰囲気が柔らかくなったような気がした。

「雨夜なのに、驚く程綺麗な月ですね」

 私も月光を追い、窓から見える空へと目を向ける。

「そうだな」

 晴明様は、何も感じていないのだろうか。
 単なる自然災害を自らの呪いだと見なされ、道を歩けばあの言われよう。
 一体、彼が何をしたというのだ。
 彼が特別な力を持っているから、それがどうしたというのだ。

 何も、あんな目を向けなくてもいいではないか。
 あんな、冷たい目を。

 彼の歩む道は、なんて孤独なのだろう。

 信太の森、葛の葉。

 それらが晴明様とどう関係しているというのか。

 考えれば考えるだけ、腹が立つ。無力な自分が悔しくて仕方がなかった。
 じんわりと涙が浮いてくるのが自分でも分かった。しかし、今日はもう、これ以上泣くつもりはない。代わりに、視線を晴明様へ向けてみる。視線に気づいたのか、かの人も、ゆっくりとこちらを向いた。
 あぁ、何て冷たい光を放っているのだろう。
 私は、精一杯の笑顔で、それに応えた。

 そのときの晴明様の顔を、私は生涯忘れないだろう。
 大きく見開かれた目は、月の光を受けて、まるで宝石のように潤んで見えた。

「なんて顔をしてるんですか」

 強いて笑っていたはずなのに、いつの間にか声を上げて笑ってしまっていた。

「…いや…」

 晴明様の決まりの悪そうな反応が、また嬉しくて、楽しくて、私はひとしきり笑い続けていた。
 そんな私を、晴明様はただ眺めていた。無表情なようでいて、どこか困っているような、そんな表情。もしかしたら、それは単なる私の願望なのかもしれない。そんな、些細な表情の変化だった。

 その視線がすっと私から逸らされる。前髪が顔にかかり、彼の表情は読み取れなかった。すると、次に瞬きしたときには、その姿もふわりと消えてしまった。
 はっとした。
 消えてしまった。

 ばっと立ち上がり、部屋を見渡すと、晴明様はこちらに背を向け、障子に手をかけている。

「晴明様、どうされました?」

 自ずから早口になり、声音も震えてしまった。
 その震えに気づかれたのだろうか。晴明様はその姿勢のまま、顔だけをこちらに向けた。

「…そろそろ休む」

「休む…?」

 たったそれだけの言葉を理解するのに、数瞬の時を要してしまう。

「こちらで休まれるのではないのですか?」

 そう、晴明様は、確かにそう仰っていたはずだ。
 すると、晴明様は心底可笑しそうに、それでいて静かに笑った。

「まさか本当に同衾するはずもないだろう」

 その瞬間、自分の頬にかっと血が巡るのを感じた。これは、怒りか、それとも恥じらいなのだろうか。
 
「それでは、晴明様はどちらで…?」

 これ以上声が震えないように、腹部に力を入れた。そんなささやかな努力も虚しく、寂しげに響いた私の声に、晴明様は答えなかった。
 すっと引かれた障子に、考えるより先に体が動いた。
 晴明様の元まで、四歩。
 それから、右手、左手で、すがった。
 腕の中で、彼の体が強張ったのが伝わってくる。普段はひんやりとしている体温も、今は熱いほどに感じられた。

「…千代?」

 晴明様の声音も、心なしか上ずっている。何故、こんなにも心音がうるさいのか。そもそも、これはどちらの音なのか。

「共に休むと約束しましたよね」
 
 かつてない程に、しっかりとした声が出た。両腕の力も、なるべく強める。彼が、消えてしまわないように。
 これまでにない私の様子に、晴明様は戸惑っているのだろうか。それとも、呆れているのだろうか。流れる沈黙が、それでも、私にとっては心地よかった。

 すると、前触れなく、ふっと晴明様の力が抜けた。突然のことに、体が跳ねる。それに気を取られて、少しだけ腕を緩めてしまった。それに気づいたときには、もう遅く、晴明様は既に私の腕の中にはいなかった。

「…い、行かないで…!」

 虚空を掴んだと思われた私の手は、しかし、何かを捉えた。
 眼前には、晴明様の顔と、窓から見える、あの月影。

 何が起こったのか、全く理解できない。
 私の手は、晴明様の袷をしっかりと握っている。そして、私達はあの布団の中にいた。
 私の間の抜けた顔がそれ程面白いのか、晴明様は声にも表情にも出さずに笑っておられた。

「行かぬよ、千代。私は其方を置き去りになど、しない」

 そう言って、晴明様は、未だ袷を握りしめていた私の手に、その左手を重ねられた。すっと力が抜けていく。

「驚かせてすまなかったな」

 頭の上に置かれた右手は、やはりいつもより熱い気がした。

「安心して休め」

 そして、そのとき晴明様の表情に浮かんだ微笑は、決して冷たくなどなかった。

「晴明様、からかったんですね」

 私も負けじと微笑み返し、心持ち彼に寄り添いながら、ゆっくりと瞳を閉じる。恥じらいも戸惑いも、全て心地良い微睡みに溶けていってしまったようだ。


――――……


「警戒心というものがないのか。

 …こんな化物を前にして」

 その夜、彼の瞳が閉じることはなかった。


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