私の世界

江馬 百合子

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未知の世界

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 気を許した、というわけではない。

 突然現れ、あまつさえ私の世界を壊し、そしてこともあろうに私を誘拐したこの者から、警戒心を取り払おうというほうが土台無理な話だった。
 しかし、私は必要以上にその者に対し、敵愾心を持っていたというわけでもない。

 今まで私を外界から守ってくれていた世界から強制的に外の世界へと出されたのだから、少しくらい警戒心が過剰になっていてもおかしくはなさそうなものなのに。
 などと、呑気に考えることが出来る程に私の精神は安定していた。
 安心していた、とまでは言わないが、目が外界の過剰とも言える光の量に慣れるまで、目を閉じていようとさえしていた。

 今私を抱えているこの者が何者なのかは知る由もないが、少なくとも今このときに限っては、敵、というわけではなさそうだし。
 もしこの者が敵ならば、これ程までに大切に労りながら、運びはしないだろう。
 何が目的なのかは知らないけれど。

 私は自分が何も持ち合わせていないことをよく知っている。
 容姿だってよくはないし、家柄だってあってないようなものだ。
 と言うより知らない。
 財産だってあの箱庭にあったものが全てだったのだが、この者がそれらのうちの一つたりとも、拾っているような気配はしなかった。

 そもそも、普通に生きていれば私の存在に気づくわけがないのだ。

 自らの今後の身の心配より、むしろ私はこの者の素性や事情のほうが気になっていた。

 そのような考えても仕様のない、生産性のないことを、一体、どれ程の間考えていただろうか。

 今までいた世界では、時の進み方などに気を配ったことすらないので、正確には把握出来ない。

 しかし、これまで真上から、私の閉じられた瞳をこれでもかと言うほどに攻撃し続けていた太陽が、今はもうその位置にはなさそうだということに、気づいた。
 また、辺りも少し肌寒い。
 先程までは抱えられているだけで背中や額に汗が滲んでいたのに、今はそのかいた汗のせいで風邪をひいてしまいそうだ。
 なるべく静かにしていようと思っていたのに、思わず身震いしてしまった。

 すると、これまで一切速度を落とすことなく歩み続けていたその者が、急に歩みを止めた。
 そして、「大丈夫か?」と、これまた気遣わし気に尋ねてきた。

 その声に驚いて、思わず閉じていた瞳を開くと、辺りは夕焼けで真っ赤に染まっていた。
 どうりで目の痛みが治まってきたはずだ。などと、考える余裕はなかった。
 なんと美しい。
 特に何があるというわけでもない、ただの道。
 道の両脇には果てしない田園が広がっている。
 また、所々に木々が生えており、その枝葉を自由に伸ばしていた。
 夕日色に染まる田。
 その田の中で、ちょうど逆光になり、黒く影を落としている木々。

 何とも言えない、懐かしい匂いがする気がする。
 秋風の香だろうか。
 懐かしいも何も、全て初めてであるはずなのに。
 かような冷たい秋風を、感じたことなどないはずなのに。
 しかし、心地好い。
 風に吹かれ、夕日の光を浴びながら、私は、ざわめく稲穂に目をやった。
 比喩ではなく、砂金でもばらまかれているのではないかと思った。

 きらきらと、それは見事に輝いている。
 しかし、金のように目に痛い輝き方ではない。

 外の世界に少なからず不安を感じている私に、「大丈夫だ」と、そう言ってくれているかのような、温かな光だった。
 勿論、そんなはずはないのだけれど。
 しかし、そのような風景の御蔭で精神的に少し余裕が出来たことも、又偽らざる真実であった。
 その、心に出来た僅かな余裕が促すままに、私は私を抱えている者の顔に、このとき、初めて視線を移したのだった。
 だが、残念なことに、私はその者の顔を見ることは出来なかった。
 顔は布のようなものでぐるぐる巻きにされており、唯一見えているのが目と口だけ、という状態だったからだ。
 しかしながら、胸や首の辺りを見た限り、その者はどうやら男であるようだ。
 いや、ここまで、決して軽くはない私を抱えて歩いて来ている時点で、その点に関しては大方予想済みだったのだが。
 他にも特徴を掴んでおこうと、その男の顔を凝視してみる。
 とは言え、見えるところといえば目と口だけなのだけれど。
 それも口に関しては、唇は大方布に覆われていて、食事の為に申し訳程度に口のある位置に布と布の隙間がある、といった様子だ。
 残るは目だが、何せこれまで殆ど人間と対面する機会などなかった私だ。
 目を見たところで、その男の感情を読み取ることなど、出来るわけもなかった。
 だが、そんな私でも、その真っ直ぐに前だけを見つめる瞳を見ていると、不思議と惹かれるものがあった。
 夕焼けに染まって、瞳自体が赤く見える。
 それがまたよく似合う。
 心なしか、泣いているようにも見えた。
 顔なんて殆ど見えていないのに、綺麗だ、と自然とそう思えた。

 自分でも気づかない程の長い間、私はその男の瞳に釘付けになっていたのだと思う。
 ふと気がつくと、これまで規則的に私の体を揺らしていた揺れが止まったのを感じた。
 どうやら男が私の視線に気づいて足を止めたようだ。
 射抜くような視線が、しっかりと私の瞳を捉えていた。
 そういえば、先程の「大丈夫か?」という問いに対して、私はまだ返事をしていなかった。
 私は対人能力には乏しいが、これでも礼儀は弁えているつもりなので、「ええ、大丈夫です。突然誘拐されてしまい大変混乱しておりますが、全く問題はございません。ご心配感謝痛み入ります」くらいは言ってやりたいのだけれど、残念ながら声が出なかった。
 今の私では、皮肉すら言えないのだ。
 そこで、私に残されていた選択肢は一つ。
 黙って睨みつける。
 ただ、それだけだった。

 するとその男は、ふっ、とまるで私を馬鹿にしているかのように笑った。
 目の細め方だけでここまで他者を不快にさせるだなんて、この男、只者ではない。
 私は男を、更にきつく睨んだ。
 すると、「そんなに睨むなよ。敵ってわけじゃねぇんだから」と宥められてしまった。

 敵じゃない?嘘をつけ、何が目的だ!と叫びたい気持ちでいっぱいだった。
 無論声が出ない以上、そんなことは不可能だった。

 反駁するでもなく、ただただ表情だけが険しくなっていく私を見て、男は何を思ったのか、「わかったわかった。疲れてるよな。そんな睨むなって。もうじき宿に着くからすぐに休ませてやるよ」と何やら釈明めいたことを言い出した。

 私は何も、疲れているから不機嫌なわけでも、不機嫌だから男を睨みつけているわけでもない。
 その誤解に更に苛立ちが増したが、確かにこれ以上外気に触れ続けるのは、体力的に限界だった。

 気がつけば、つい先程まで真っ赤だった世界が、もう薄紫色になっていた。

 どんどん体温が奪われていく。
 私はまた僅かに体を震わせた。

 それに気づいたのか、男は自分の羽織っていた足首まで覆える程の長い布を、私にかけて、今度は先程より少し早足で歩きだした。

 私としては、混乱するばかりだ。

 敵ではない?
 …そんなはずはない。
 私を強引に私の世界から誘拐したのだ。
 しかし、敵ならば、どうして私にここまで気を配る必要があるのだろうか。
 懐柔策か…?

 いずれにせよ、この冷たい秋風の当たらない場所に連れていってくれるというのであれば、私としては願ったり叶ったりだ。

 遠くに、温かな明かりが見える気がする。
 あれが宿だろうか。

 私は、その遠くに見えるぼんやりとした光を、虚ろな瞳で、しっかりと見据えていた。

 
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