薄幸の佳人

江馬 百合子

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第七話 砂時計

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 日向の車は、どこにでもありそうな黒の普通車だ。
 それなりに値の張るものではあったが、春乃宮家の次期当主が使うにはあまりに簡素だった。
 彼はまた、春乃宮邸には寄りつかない。事務所近くにマンションを借り、そこで生活をしている。
 そしてその全てを、自身の稼ぎで賄っていた。
 かつて無月はこう漏らした。

「日向は自由よね」

 日向は一瞬瞠目すると、悲しげに微笑んだ。

「俺は、『ワケあり』だからな」

 無月は自身の不用意な言葉を後悔したが、それでも、と続けた。

「日向が自由だから、私も少しだけ自由になれるわ」

 日向はまた僅かに目を見開き、今度は穏やかに微笑んだ。

「…それは良かった」

 無月は気づいていたのだろうか。日向がその言葉にどれほど救われてきたことか。


――――……


 無月は何時ものように助手席に乗り込むと、バッグを膝に乗せてシートベルトを締めた。
 いつもの庭園が後方へと流れる。
 その若葉の茂る庭景色をぼんやりと眺めた。

 ここ藤泉院邸は、敷地がまるで城壁のような壁に覆われている。おかげでただでさえ威厳のあるこの屋敷の門が、外部からは更に物々しく見えるのだ。
 しかし、内部からはその壁は視認出来ない。敷地の外周が森になっているからだ。
 どんな目的で森に囲まれた屋敷になったのかは定かでないが、一説には、迷い込んだ者は二度と日の目を見ることが出来ないと言われている。
 たかが敷地内の森、ではなかった。

 無月でさえ、未だ敷地の全容を把握しきれていない。目を細めてじっと見つめれば遠くに緑が見えるような気がしないでもないが、全く終わりが見えないのだ。
 歩いて端までたどり着けるとも思えない。

 本邸は門から歩いて数十分程かかるため、大学へは伊勢が近くの通りまで送迎している。
 個人的に出かけるときも同様だ。
 そのため、無月はほとんど庭の芝生を踏んだことがなかった。
 興味がなかったわけではないが、一人で出かけることを、あの家の者たちが許すとは思えなかったのだ。

 車内からよく見れば、様々なところに花壇があり、色とりどりの花を咲かせているし、所々絶妙な位置に木々が植わっている。
 また、無月は伊勢から噴水の話や水車小屋の話をよく聞かされていた。
 さながら自然公園のような景観は、無数の庭師によって支えられているらしい。

 だが、その美しい庭園を見る無月の目は、驚く程無感情なものだった。
 壁は、見えないけれど。
 確かに存在している。

――ここから逃げられると思うなよ。

 頭の中に響く声に、無月は冷笑を浴びせた。
 逃げられないまでも、せめて、森に迷い込んでしまえるだけの度胸があったなら、何かが変わっていたのだろうか。

 そのとき、「無月」と日向が口を開いた。
 暗い顔をしてしまっていたのだろうか、と無月は努めて軽く「何?」と返す。
 すると日向は片手で、ダッシュボードを開けると、中から小さな箱を取り出した。

「お土産」

 そう言って、前を向いたまま手渡すと、日向はすぐに手をハンドルに戻し、ウィンカーを出す。

「…お土産」

 無月は、手の中の小さな箱を見つめた。

「開けてもいい?」
「あぁ」

 珍しいこともあるものだと思った。
 日向の俳優業は、決して公に認められていることではない。
 他家は、何故春乃宮家の長子が?と首を傾げているし、春乃宮家としても、それを良しとはしていないはずだ。
 しかし、何故かかの家は、日向の勝手な行動を黙殺し、彼が春乃宮家の者だということを世間から隠し続けてきた。
 どれだけの人間に、どんな手を使って口止めをしてきたのかは、無月にすら分からない。
 藤泉院家としては、春乃宮家の事情に口出しすることを、なるべく避けているため、日向の言動には目を瞑っているのだろう。
 しかし、日向自身、自分の行動の理由を無月の両親が理解しているとは思っていなかった。
 故に、海外での撮影の際、他家に土産を渡したことは一度もない。
 無月に個人的に渡すことは、皆無ではなかったが、無月だって、家の都合で国外へ赴かねばならないことは度々あるのだから、気安い者同士、しいてお土産を渡し合う必要はなかった。

 一体、何が入っているのだろうと、一目で安物だと分かる包みを開いていく。
 すると、中から、おもちゃのようなネックレスが現れた。
 無月は、砂時計の付いたそのネックレスを見つめ、思わず、ふふっと笑ってしまった。
 日向もつられて、にっと笑う。

「無月あの本好きだっただろ」

 無月は、「えぇ」と笑い続ける。目尻に僅かに涙が浮かんでいた。

「これ、時間を戻せるんでしょう?」

 無月は、砂時計をしゃらしゃらと振った。

「…私は、どこまで時間を戻せばいいのかしら」 

 ほとんど無意識の呟きに、日向はどきりとした。
 無月もすぐに自分の言葉に気がつき、誤魔化すように笑う。

「ごめんなさい」
「…謝るなよ」

 目線は、相変わらず前を向いたまま。けれども、その強い声音に無月は、はっとした。

「謝ることはないんだ。無月。時間なんか戻さなくていい。お前は…俺たちは、何を恥じる必要もない。ただ未来だけ、見ていればいいんだ」

 無月は、これまでを思った。
 祖父母に慈しまれ育った幼少時。そして、突然出生について聞かされ、藤泉院家に移され、好き勝手に弄ばれた近しい過去。
 決して受け入れられない出来事も、数え切れないほどあった。
 しかし、本当に辛いことばかりだったのだろうか。
 少なくとも、自分はそれらの過去には負けなかった。

「…そうね、日向。きっとそうだわ」

 無月の瞳が、初夏の日差しを受けて、キラキラと光った。

「私たち、まだまだ若いんだもの」

 そう言って、無月は久方ぶりに声を出して笑った。

 それから日向は、「さて」と平生通りに、今後の予定を話し始めた。

「たまにはゆっくりしよう、ということで、温泉なんかどうだ?」

 日向のひょうきんな語り口に、無月はくすくす笑う。

「えぇ、ゆっくりしましょう」

 目尻の涙を拭いながら、無月は頷いた。

「夕方までに着けばいいんだ。だから、寄りたいところがあれば遠慮なく言うように」
「はいはい」

 無月は、笑いながら下道の景色を眺めた。歩道を行き交う人々。自転車に子供を乗せた女性。コンビニ前でふざけ合う高校生。
 思わず、無月は一葉を思い描いた。彼女も放課後に、友達とコンビニに寄ったりするのだろうか。

「…日向、私、コンビニに行きたかったわ」
「コンビニ?」

 日向はたった今通り過ぎたコンビニをちらりと見る。

「飲み物が欲しいのか?そこに買って置いてあるだろ」

 無月は、ゆるゆると首を振った。

「違うの。今じゃなくて。高校生だった頃に、あんな風に」

 日向は、そういうことかと納得した。それから、じっと考えて、慎重に、「俺は、無月はもう少し自分の容姿を理解した方がいいと思うんだが」と切り出した。
 無月は、きょとんとしてしまった。
 日向から容姿について何かを言われるのは、初めてのことだったのだ。
 それに、無月は自分の姿が賞賛されうるものだということは、きちんと理解していた。むしろ、自覚が足りないのは日向の方ではないかと、理不尽な怒りが湧いてくる。

「確かに、綺麗だって言われることはときどきあるけれど、でも、道端でお茶に誘われたりしたことはないもの。日向は色んな人から誘われたりしてるでしょ?」

 日向は、ため息を禁じえなかった。
 無月が滅多に誘われないのは、その容姿が桁外れなものだからだ。きっと、遠巻きに見つめられていることにも、気づいていないか、はたまた家柄のためだと斜め上の解釈をしているに違いない。
 無月を誘いうるのは国外の王族やそれに準じる家柄の者、つまり、自分のある点において絶対的な自信を持つ者に限られているのだ。
 それがまた、無月の勘違いを増長させている。
 大方、家柄目当ての者以外に、自分を好いてくれる者など存在しないと決めこんでいるのだろう。

「…俺が言い寄られるのは、仕事のためだ」

 日向曰く、俳優は様々な役をこなす。
 日向とて、冷血漢から、女性に甘い女たらしや、どんな頼みも断れない優しい人物など、幅広い役を演じてきた。
 そして、それを見た女性は、あたかもそれが彼の一部であるかのように錯覚してしまうのだ。
 声をかければ、応じてもらえるかもしれないという僅かな隙が生まれているのである。
 それでも、大部分の女性は、日向に声をかけることなどできない。
 日向は、自分の姿が人目を惹くものだと自覚していたが、それが無月に負けず劣らずのものだとは気づいていなかった。
 よって、日向に言い寄ろうとするのも、ある一定の自信を備えた者だけであったのだが、少なくとも無月よりはその機会も多かった。

「…嘘よ。日向はいつも色んな人に囲まれているもの」

 日向はそんな無月を視界に収めながら苦笑する。
 こんな風にいじける彼女も、ペットボトルのお茶を飲み干してしまう彼女も、誰も知らない。
 彼女の肌が、陽の光の下でこんなに滑らかに輝くのも、笑うと僅かにえくぼができるのも、「日向」と呼ぶ声がこんなに愛らしいのも、きっと、自分だけが知っているのだ。

「無月は、本当に綺麗なんだ」

 低く、ゆっくりとした声に、無月の心臓が跳ねた。思わず、見慣れたはずの日向を見つめてしまう。
 朝日を受けて、彼の髪はより柔らかい色を発し、ビー玉のような瞳も、温かみのある白い肌も、まるでそれ自身が自ら光を発しているかのように、ぼんやりと輝いていた。
 そんな日向に、一瞬惚けていた自分に、無月は戸惑う。こんなことは、これまで、一度もなかったはずなのに。
 旅行に、浮かれているのだわ。
 無月は、そう納得した。その解釈は、不思議なほどにすとんと胸に落ち、それまでの困惑はすぐに消えていった。しかし、そんな心の安寧も長くは続かなかった。

「本当は、誰にも知られたくない」

 そう言い切って、はにかむように笑う日向に、無月は、呆気に取られてしまった。

 日向は、どうしてしまったのだろう。どうして急に、こんなことを言い出すようになってしまったのだろうか。
 どこか冷めたような優しさも、完璧な人形のような笑顔も、全て無月は見てきた。物心ついたころから、ずっと。温かな優しさは、しかし、芯の部分には何もなかった。少なくとも無月は、ずっとそう思ってきた。
 彼が無月に執着しているのは知っていた。それが、ただの幼馴染に向ける以上の熱を孕んでいたことも。ただ、それは執着でしかないはずだった。無月は、孤独で。日向もまた、孤独だったから。
 無月もまた、そんな日向だからこそ、安心して共にいられた。変化のない、穏やかな、ぬるま湯のような関係。

 今はもう、日向の表情はいつもの、温かくも、無機質なものに変わっていた。

「どうした?」

 そう尋ねる日向に、先程の照れたような笑顔は見られない。
 無月は昔から、日向なら、どこかの国へスパイに遣わしても、必ず無事に任務を果たして戻ってきそうだと思っていた。
 優しいのに、どこか飄々としていて、あらゆることを無難にやり遂げる。だからこそ、その性質なんて、まして真実の部分なんて、絶対に掴めない。

 それでいい。ずっと、そう思っていた。物事に真実なんて存在しないと、無月はそう信じていたから。
 日向の見せる面だけが、無月にとっての絶対だった。だからこそ、無月は日向の心など、知らない。
 彼の知ってほしいところだけを見てきたのだ。隠したがっているものを、無理に覗き込む必要はない。
 しかし、その理屈でいくならば、と無月は思い至る。
 日向が何か別の面を見せようとしているというのなら、それを受け入れるしかないのだ。
 日向を拒むなんて、ありえない。そんな選択肢は初めから存在しなかった。
 そして、そう納得した瞬間、無月の戸惑いは綺麗に霧散していった。

「何でもないわ、日向」

 そう言って、これまで戸惑っていた自分を笑い飛ばすかのように晴れ晴れと笑った。

「そうか」

 日向も、そんな無月の笑顔に、ほっとして微笑む。

「…ちょっと疲れてしまったのかもしれないな。次のパーキングで昼を摂ろう」
「えぇ、私、きつねうどんが食べたいわ」
「…その庶民感覚でよくあの家でやっていけるな」

 あぁ、良かった、いつも通りだ。そんなことを考えながら、無月はまた声を立てて笑った。


 
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