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第三十三話 若瀬三姉妹
しおりを挟む「伊勢、日向は元気なの?」
昏れなずむ歩道を歩きながら、無月は半歩後ろを音もなく歩く付き人へ問いかけた。
「息災だと、伺っております」
尋ねたことに最低限の返答しかしないのは、この男の悪い癖だと無月は恨めしく思う。
「どこにいるの? もう一週間以上顔を見ていないわ」
「……国内にはいらっしゃいません」
「仕事?」
「……」
「口止めされているのね」
無月はため息をついた。
日向はこうしてたまに姿をくらませる。そしてその間のことを尋ねても、決して口を開こうとはしないのだ。
「……日向は自由で羨ましい」
自然と溢れた呟きに、伊勢は否定も肯定もしなかった。
「いつ戻って来るの?」
「再来月の成宮家の会までにはと」
「そう。それで、日向に私の世話を任されているのね」
「……無月様にお仕えしているのは、私の意思でございます」
「意思?」
無月はさっと振り返った。道行く人が不躾な視線を投げ付け、ともすれば立ち止まる者もいる。しかし、そんなことは気にならなかった。
「私のそばにいるのは、貴方の意思なの?」
伊勢は、話しすぎたとばかりに口を閉じた。
しかし、無月は追及をやめなかった。
「答えて、伊勢。貴方は草柳家に仕えていたんでしょう? 何故私に付いて藤泉院家に入ったの? 何故あの家で執事を務めるようになったの? 何故私のそばを離れないの? 何故――」
尚も言い募ろうとする無月を、伊勢は視線でそっと制した。
「……私には、お答えいたしかねます。その問いに答えるべき方が、他にいらっしゃるはずです」
その声は静かで、どこか悲しげだった。
無月は、それ以上言葉を重ねることができなかった。自分の言葉が、彼を追い詰めているかのように感じられたのだ。
彼の悲しみが溢れる前に、無月は強いて明るく笑った。
「伊勢を困らせるつもりはなかったの。ごめんなさい」
そう言って、また歩き出した。
真実を知りたいと思うのは、これが初めてではない。しかし、何をどうすれば良いのか、誰に何を尋ねれば良いのか、皆目見当もつかなかったのだ。
「……仕方がなかったのよ」
誰にも聞こえないように呟く。
生まれた環境も、持って生まれた容姿も、運命さえ、自分の力ではどうにもならないのだから。
そのとき、遠くから、ぼんやりとした掛け声が聞こえてきた。
無月は、足元に落としていた視線を上げ、声の上がっているところを探した。
しかし、眼前には高々とそびえ立つコンクリートの塀しか見えない。どうやら声はその中から聞こえているようだ。
「グラウンドの裏手に出てしまったようです。正門へ回りましょう」
「いいえ。せっかくだから、裏門から入ってみましょう」
伊勢は不満げに眉を寄せたが、言っても無駄だと分かったのか素直に「はい」と頷いた。
グラウンドを囲む塀沿いに歩く。
夕焼けに照らされた歩道がなだらかに続き、民家の塀の上で山茶花や冬青、辛夷の枝が揺れていた。夕飯の支度をしている家々からは、食欲をくすぐる香りが、夏の爽やかな風に溶ける。どこからか、「ご飯よ」と呼ぶ声が聞こえてきた。
遠くに聞こえる掛け声を頼りに、無月は歩みを進める。
そして、とうとう塀と塀との間に僅かな隙間を見つけた。
門と呼ぶにはあまりにお粗末だったが、傍らに申し訳程度に打ち付けられている木札には掠れた筆文字で高校名が記されていた。
制止する伊勢には目もくれず、無月はそこを抜け、グラウンドに足を踏み入れた。
「無月様、予定にない道を行かれては……こちらからは護衛の者が入れません」
「すぐに出れば済むわ。颯馬さんを探さないと」
無月がそう言うのと、広いグラウンドを周回していた野球部員が練習を終えたのはほとんど同時だった。
裏門の傍には年季の入った四角い建物が建っている。無月はちょうど彼らの部室の前に立っていたのだ。
伊勢が「失礼」と無月の手を掴み背に隠す前に、何人かの部員が無月の存在を目にしてしまった。
そして彼らがまた周囲へと指し示す。
今や、その場にいる全員の目が無月へ注がれていた。
無月はこれまで、こんな風に大勢に囲まれたことなどなかった。どうしてだろう。考えるまでもなかった。これまでは、そうならないよう、日向が手を回してくれていたのだ。
それならば、今回は伊勢が守ってくれるだろう。
自然とそんな考えが頭に浮かぶ。
そして、はっとした。
そんな考えをごく自然に受け入れてきた自分に、今日、初めて気がついたのだ。
自嘲せずにはいられなかった。
あの家が疎ましい。自由が欲しい。
そんな風に願いながら、これまで、自分は一体何をして来たのだろう。
放っておいてと背を向けておきながら、あの家に守られるのは当たり前だと思っていたのだ。
それだけではない。日向に全てを負わせ心苦しく思いながら、果たして、彼の負担を減らすために、自分から、何かをしようとしたことがあっただろうか。
どうして今この瞬間、こんなことに気づいたのか、無月にさえ分からない。
しかし、その視線の先には、集団の後ろから焦ったように駆けて来る颯馬の姿があった。
「無月さん、どうして、ここに」
息を切らせて駆け寄った颯馬に、今度は彼らの目が向かった。その視線には誰の目にも明らかな悪意と軽蔑が込められている。
「若瀬の知り合いか?」
周囲の冷たい問いかけに、颯馬は「はい」と端的に答えた。
「先輩、片付けは終わりました。今日は先に失礼します」
そして、周囲からの視線を何でもないことのように受け流し、颯馬は無月の手を取った。
――――……
門の外で伊勢と、颯馬が着替えるのを待ちながら、無月は考えていた。
彼らは何故、チームメイトにあれほど冷淡な視線を向けていたのだろう。何故、声に悪意を込めていたのだろう。
無月はずっと、外の世界に行けば、人間の汚い感情に触れることは無くなるのだろうと思っていた。虚偽と欺瞞と悪意の渦巻く世界から、抜け出せるのだと。
しかし、そうではないのか。
人というのは、どこに住んでも、どこで生きても、あんな感情を抱き得るものなのか。
自分は、あの世界に生きるから苦しいのだと思っていた。しかし、颯馬は、外の世界で生きているはずなのに。
一見、全くこたえていないかのように見えた。しかし、昨日会ったときの、落ち着いたどこか楽しげな表情とは、やはり違った。
強張った表情に、揺れぬように努められた声は、何を意味しているだろう。
「待たせてすみません」
制服に着替えた颯馬が重そうな鞄を背負い、門を出て来た。そしてその顔には、擦ったかのような傷が付いていた。
先ほどまではなかったはずだ。
無月の視線に気づき、颯馬は決まり悪そうに目を逸らす。
「行きましょう」
「……ちょっと待って」
無月の小さな声に、颯馬は足を止めた。
「その傷、さっきの人たちにやられたの?」
「……違います」
そう言うと、颯馬は無月の手を取って、また歩き始めた。
手を握られながら、無月はまた不思議な気持ちになる。
何故、この人は私の手を握ることができるのだろう。私の目をまっすぐに見つめることができるのだろう。
そして、すぐに答えが分かってしまった。
(この人は、私に興味がないんだわ)
その答えは、驚くほどにすとんと胸に落ちて来た。そう、彼は無月を、友人の友人以上には思っていなかった。
こんなことは、初めてだった。
「あの人たちは、貴方の敵なの?」
まるで自分の痛みのように、無月の顔は歪んでいる。「いいえ」と誤魔化そうとしていた颯馬は、彼女の顔を見た瞬間、口が動かなくなってしまった。
初めて彼女を見たとき、その印象は、ただの「不思議な人」だった。
頭に包帯を巻き、困ったように売店前を彷徨う彼女は、はっきり言ってしまうと、何がしたいのか分からなかった。
ただ、困っていることだけはひしひしと伝わってきたため、素通りすることもできなかったのだ。
「全ての女性を平等に、大切に扱え。できない男は、万死に値する」
という姉の教えが頭をちらついたのも、否定はしない。
颯馬には、姉が三人いた。上から、茶子、初子、江子である。名前の由来は両親に尋ねるまでもなかった。
名前のおかげか、三人の姉妹はとても美しく育った。
上の二人は既に嫁に行っているにも関わらず、職場の人間に言い寄られたりと、いまだにトラブルが絶えないらしい。
そんな姉を妻に貰ってくれた義兄たちには、正直頭が上がらなかった。
まだ学生の江子にも、長く付き合っている恋人がいる。卒業すれば、恐らく結婚するのだろう。
そう、姉たちは美人だからといって、自堕落なわけでも、周囲に媚びを売るわけでもない。
颯馬の見る限り、真面目で思慮深く、自分に厳しい、どこにでもいる普通の娘たちだった。少しだけ気が強い点は、玉に瑕だったけれど。
しかし、周囲はそうは思わなかった。
最も派手な顔立ちをしている長女の茶子は、遊んでいると噂を立てられたことも一度や二度ではなく、常にトラブルに巻き込まれてきた。
三人の中で最も真面目な初子は、妙な輩に付け回されたり、望まぬ争いの渦中に立たされることが多い。
そして、芸大に通う明るく溌剌とした江子には、味方と同じ数だけ、過激な敵がいた。
三人それぞれ性格は違えども、皆どこか一様に親しみやすい性質であるためか、異性から言い寄られることも、同性からの嫉妬も多かったのだ。
そんな姉を三人も持つ颯馬が、無事でいられるはずもなかった。
三人のうち誰かが先輩を振れば、レギュラーから外され、調子に乗るなと殴られる。教師でさえ、姉にすげなくされたと、颯馬に当たり散らした。そんなことは日常茶飯事だった。
だが、それでも、颯馬にとっては大切な姉だった。
彼女たちを不埒な輩から守るために体も鍛えた。体を鍛えれば、自然と心も鍛えられた。
レギュラーから外されたときには、正直なところ、涙も流したが、それでも、負けるものかと練習には欠かさず参加している。
颯馬にとって、彼女たちは大切な家族である。美しかろうとそうでなかろうと、きっとそれは変わらない。
しかし、美しい人を、素直に賛美することは、もはやできなかった。どうしても、苦労の象徴に見えてしまうのだ。
だから、初めて無月を見たとき、颯馬は「不思議な人だ」と思った。
妙な格好で、妙な動きをしている女の人。
話しかければ驚くほどに普通で、でもどこかずれている、できれば関わりたくない類の、恐らくどこか面倒な人。
送り届けてしまえばそれで終わりだと思っていたのに、まさか彼女が、一葉の友人だったとは。
本当に妙な縁だと、颯馬はこっそりため息をついた。
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