薄幸の佳人

江馬 百合子

文字の大きさ
35 / 63

第三十五話 小さな一歩

しおりを挟む

「分かりました。それでは、近くに待機しておりますので、お帰りになられる際にまたご連絡ください。お迎えにあがります」

 伊勢に、堀家で夕飯をご馳走になりたいと連絡を入れると、呆気にとられるほどあっさり了承された。
 そういえば、これまで自分から外出を願い出たことがあっただろうか。
 外に出ることは許されていないのだと思っていた。
 しかし、そもそも「出たい」と口に出したことさえ、なかったのかもしれない。
 唯一、あの家に引き取られてしばらくの間、祖父母の家に戻りたい、そうでなければどこかに行ってしまいたいと願ったときには、それはならないと強く禁じられてしまったけれど。
 もしかしたら、自分は何か重大な勘違いをしているのではあるまいか、と無月はそのとき微かな違和感を感じた。
 しかしそれも、「どうでした!?」と勢い込んで暖簾の隙間から飛び出して来た夏希に打ち消されてしまった。

「え、えぇ。大丈夫だったわ」
「本当ですか!? やったぁ! 母も張り切って紫蘇のハンバーグ作っちゃってるんですよ! もう焼きあがるので行きましょう!」

 不思議なものだと思う。
 昨日出会ったばかりの人たちと、共通の知人さえ挟まずこんな風に食卓を囲んでいるなんて。
 初対面であるはずの彼らの両親さえ、一瞬ぱちくりと瞬きをしてから、まるで娘の友人に接するかのように親しげに迎え入れてくれた。身元や家名を尋ねられることもなかった。
 心底、不思議な人たちだと思う。
 しかし何より、この場に居心地の良さを感じてしまう自分自身が、最も不思議で仕方がなかった。

「それで、親父が『私の腰が治らん限りはこのパン屋を閉めるしかない』とか言い出すもんだから、会社勤めしてた俺も腹をくくったってわけですよ。ただ、始めてみるとこう、胸がわくわくしましたね。天職だったのかもしれません」
「それは、お父様の腰に感謝しないといけないわね」
「そうだ、私の腰のおかげで無月さんは今日こんなに美味いパンを食べられるんだぞ」

 こんなに長く話したのは、いつ以来だろう。こんなに大きな声で話すのは、もしかしたら初めてかもしれない。こんなに口を開けて笑ったことは、これまで間違いなくなかった。
 何より、誰かの人生をこんな風に聞かせてもらったのも、初めての経験だった。
 聞きながら、考えずにはいられない。
 今、私は何をしているのだろう、と。
 何を考えながら、何を目標にして、どのような道を生きているのだろう、と。
 本来なら、すぐにこう答えられたはずだ。
 藤泉院家に縛られ、あの家の益になることが、これから辿るべき道なのだと。
 しかし、それは誤りだったのかもしれない。
 それは、漠然と感じている責務であって、自らの意志で定めた目標ではない。目標を見つけるために動いたことすら、恐らく一度もない。
 だからこそ、いくら未来を思おうと、心が微塵も動かないのだ。未来を、夢を想像することさえできないのだ。

 この先、どうしたいか。
 どんな自分になりたいか。
 どんな場所にいたいのか。
 誰の助けになりたいのか。

 佐月の話に耳を傾けながら、無意識のうちにそう考え始めていた。
 考え始めると、もやのかかった心の中に、きらりと光る粒を見つけた。それはあまりに朧げで、一瞬目を離した隙に見失ってしまいそうなほどの、小さな小さな欠片だった。
 しかし、無月はそこから、目を逸らさなかった。その一粒の欠片を掴み、その形、光り方をじっと見つめた。そして、その粒がどこから来たのか、偽物なのではないか、静かに考えた。
 無月の様子を見て、佐月は微笑んだ。
 元々、身の上話をしたのは、無月にもっと真剣に自分自身に向き合ってもらいたかったからだ。
 自身には何の力も無いと思い込んでいる彼女に、目を覚ましてもらいたかった。もっと未来を思ってほしかったのだ。
 今、彼女は恐らく、未来への小さな一歩を踏み出そうとしているに違いない。
 気付かぬうちに、扉はそっと開かれたのだった。


――――……


 自分の部屋のベッドの上に寝転びながら、颯馬は後悔していた。
 何故あのとき、あそこまでむきになってしまったのだろう。彼女は何も悪いことはしていないし、そんなつもりもなかったに違いない。実際、ひどく驚いた顔をしていた。
 颯馬自身、これまであんな風に怒鳴ったことなど、ほとんどなかった。
 だからこそ、あのとき感情を制御できなかった自分自身に戸惑ったのだ。
 あの後すぐに何か言葉をかければよかったのだろうが、彼女の涙を見た瞬間、何も言えなくなってしまった。
 悪いことをしてしまったと思う。
 全面的に自分が悪いと分かっていたのに、涙を流す彼女を置き去りにしてしまった。
 後に残された二人は、さぞ困惑しただろう。
 否、ひどく傷つけてしまったかもしれない。

「はー……俺らしくない」

 感情を制御できなかったこともそうだが、こうして悶々と悩むことも、やはり自分らしくなかった。

「……よし」
 
 そう勢いづけて起き上がり、携帯を手に取る。しかし彼女の連絡先を知らないことに気付き、再び項垂れた。
 結局、佐月に謝罪のメールを打ち、迷った末、末尾に「無月さんには明日謝りに行きます」と添えた。
 一葉の言っていたことが確かなら、彼女はもうしばらくの間あの病院に寝泊まりするはずだった。
 彼女にも都合があるだろうが、謝罪は早い方がいいだろう。それなら明日、行くだけ行ってみよう。不在なら、また出直せばいい。
 そう決めて、颯馬は送信ボタンを押した。

 そのとき、階下から「颯馬ー! お風呂に入りなさーい!」という茶子さこの声が聞こえた。
 彼女は夫婦喧嘩をする度に、こうして実家に入り浸るのだ。三人の中で最も気の強い姉の臨時帰還は、颯馬にとって喜ばしいものではない。
 階段を下りながら、「また康助こうすけさんを泣かせたのか」と呟くと、聞こえていたのか、茶子が般若の形相で振り返った。

「違うわよ! いい歳して情けないあいつが悪いの!」

 颯馬は、絡まれると大変だと、急いで浴室に逃げ込んだ。
 扉を閉めてから、姉に聞こえる程度の声で独り言を呟く。

「康助さんは寂しがってるだろうな。茶々姉ちゃちゃねえの我が儘で縁もゆかりもないうちの近くに家建てたのに、あそこに一人ぼっちか。可哀想に。今日はコンビニ飯かなぁ」

 すると、扉の向こうで、姉が言葉を詰まらせている気配を感じた。その表情も、颯馬には手に取るように分かる。
 自分が悪いと分かっていながらどうしても意地を張ってしまうときの表情だ。
 口を引きむすんで、相手を睨みつけるようにしながらも、視線は落ちてしまう、まるで子供のようだと思った。

「……今夜電話して、明日の朝迎えに来てもらうわよ」

 そう、扉越しの颯馬にだけ聞こえる程度の声で告げると、茶子はわざとどしどしと機嫌悪そうに去っていった。
 颯馬は思わず笑ってしまう。
 もしかすると、姉がこうして帰ってくるのを、心のどこかで楽しみにしているのかもしれない。
 口うるさくても、邪魔くさくても、やはり家族は特別な存在なのだ。
 今日はお風呂から上がったら、肩でも揉んであげようかと、そんなことをぼんやりと考えた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

三年間片思いしていた同級生に振られたら、年上の綺麗なお姉さんにロックオンされた話

羽瀬川ルフレ
恋愛
 高校三年間、ずっと一人の女の子に片思いをしていた主人公・汐見颯太は、高校卒業を目前にして片思いの相手である同級生の神戸花音に二回目の告白をする。しかし、花音の答えは二年前と同じく「ごめんなさい」。  今回の告白もうまくいかなかったら今度こそ花音のことを諦めるつもりだった颯太は、今度こそ彼女に対する未練を完全に断ち切ることにする。  そして数か月後、大学生になった颯太は人生初のアルバイトもはじめ、充実した毎日を過ごしていた。そんな彼はアルバイト先で出会った常連客の大鳥居彩華と少しずつ仲良くなり、いつの間にか九歳も年上の彩華を恋愛対象として意識し始めていた。  自分なんかを相手にしてくれるはずがないと思いながらもダメ元で彩華をデートに誘ってみた颯太は、意外にもあっさりとOKの返事をもらって嬉しさに舞い上がる。  楽しかった彩華との初デートが終わり、いよいよ彩華への正式な告白のタイミングを検討しはじめた颯太のところに、予想外の人物からのメッセージが届いていた。メッセージの送り主は颯太と同じ大学に進学したものの、ほとんど顔を合わせることもなくなっていた花音だった。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end**

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

Blue Bird ―初恋の人に再会したのに奔放な同級生が甘すぎるっ‼【完結】

remo
恋愛
「…溶けろよ」 甘く響くかすれた声と奔放な舌にどこまでも落とされた。 本宮 のい。新社会人1年目。 永遠に出来そうもない彼氏を夢見つつ、目の前の仕事に奮闘中。 なんだけど。 青井 奏。 高校時代の同級生に再会した。 と思う間もなく、 和泉 碧。 初恋の相手らしき人も現れた。 幸せの青い鳥は一体どこに。 【完結】 ありがとうございました‼︎

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

27歳女子が婚活してみたけど何か質問ある?

藍沢咲良
恋愛
一色唯(Ishiki Yui )、最近ちょっと苛々しがちの27歳。 結婚適齢期だなんて言葉、誰が作った?彼氏がいなきゃ寂しい女確定なの? もう、みんな、うるさい! 私は私。好きに生きさせてよね。 この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。 彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。 私の人生に彩りをくれる、その人。 その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。 ⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。 ⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。

処理中です...