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第三十五話 小さな一歩
しおりを挟む「分かりました。それでは、近くに待機しておりますので、お帰りになられる際にまたご連絡ください。お迎えにあがります」
伊勢に、堀家で夕飯をご馳走になりたいと連絡を入れると、呆気にとられるほどあっさり了承された。
そういえば、これまで自分から外出を願い出たことがあっただろうか。
外に出ることは許されていないのだと思っていた。
しかし、そもそも「出たい」と口に出したことさえ、なかったのかもしれない。
唯一、あの家に引き取られてしばらくの間、祖父母の家に戻りたい、そうでなければどこかに行ってしまいたいと願ったときには、それはならないと強く禁じられてしまったけれど。
もしかしたら、自分は何か重大な勘違いをしているのではあるまいか、と無月はそのとき微かな違和感を感じた。
しかしそれも、「どうでした!?」と勢い込んで暖簾の隙間から飛び出して来た夏希に打ち消されてしまった。
「え、えぇ。大丈夫だったわ」
「本当ですか!? やったぁ! 母も張り切って紫蘇のハンバーグ作っちゃってるんですよ! もう焼きあがるので行きましょう!」
不思議なものだと思う。
昨日出会ったばかりの人たちと、共通の知人さえ挟まずこんな風に食卓を囲んでいるなんて。
初対面であるはずの彼らの両親さえ、一瞬ぱちくりと瞬きをしてから、まるで娘の友人に接するかのように親しげに迎え入れてくれた。身元や家名を尋ねられることもなかった。
心底、不思議な人たちだと思う。
しかし何より、この場に居心地の良さを感じてしまう自分自身が、最も不思議で仕方がなかった。
「それで、親父が『私の腰が治らん限りはこのパン屋を閉めるしかない』とか言い出すもんだから、会社勤めしてた俺も腹をくくったってわけですよ。ただ、始めてみるとこう、胸がわくわくしましたね。天職だったのかもしれません」
「それは、お父様の腰に感謝しないといけないわね」
「そうだ、私の腰のおかげで無月さんは今日こんなに美味いパンを食べられるんだぞ」
こんなに長く話したのは、いつ以来だろう。こんなに大きな声で話すのは、もしかしたら初めてかもしれない。こんなに口を開けて笑ったことは、これまで間違いなくなかった。
何より、誰かの人生をこんな風に聞かせてもらったのも、初めての経験だった。
聞きながら、考えずにはいられない。
今、私は何をしているのだろう、と。
何を考えながら、何を目標にして、どのような道を生きているのだろう、と。
本来なら、すぐにこう答えられたはずだ。
藤泉院家に縛られ、あの家の益になることが、これから辿るべき道なのだと。
しかし、それは誤りだったのかもしれない。
それは、漠然と感じている責務であって、自らの意志で定めた目標ではない。目標を見つけるために動いたことすら、恐らく一度もない。
だからこそ、いくら未来を思おうと、心が微塵も動かないのだ。未来を、夢を想像することさえできないのだ。
この先、どうしたいか。
どんな自分になりたいか。
どんな場所にいたいのか。
誰の助けになりたいのか。
佐月の話に耳を傾けながら、無意識のうちにそう考え始めていた。
考え始めると、もやのかかった心の中に、きらりと光る粒を見つけた。それはあまりに朧げで、一瞬目を離した隙に見失ってしまいそうなほどの、小さな小さな欠片だった。
しかし、無月はそこから、目を逸らさなかった。その一粒の欠片を掴み、その形、光り方をじっと見つめた。そして、その粒がどこから来たのか、偽物なのではないか、静かに考えた。
無月の様子を見て、佐月は微笑んだ。
元々、身の上話をしたのは、無月にもっと真剣に自分自身に向き合ってもらいたかったからだ。
自身には何の力も無いと思い込んでいる彼女に、目を覚ましてもらいたかった。もっと未来を思ってほしかったのだ。
今、彼女は恐らく、未来への小さな一歩を踏み出そうとしているに違いない。
気付かぬうちに、扉はそっと開かれたのだった。
――――……
自分の部屋のベッドの上に寝転びながら、颯馬は後悔していた。
何故あのとき、あそこまでむきになってしまったのだろう。彼女は何も悪いことはしていないし、そんなつもりもなかったに違いない。実際、ひどく驚いた顔をしていた。
颯馬自身、これまであんな風に怒鳴ったことなど、ほとんどなかった。
だからこそ、あのとき感情を制御できなかった自分自身に戸惑ったのだ。
あの後すぐに何か言葉をかければよかったのだろうが、彼女の涙を見た瞬間、何も言えなくなってしまった。
悪いことをしてしまったと思う。
全面的に自分が悪いと分かっていたのに、涙を流す彼女を置き去りにしてしまった。
後に残された二人は、さぞ困惑しただろう。
否、ひどく傷つけてしまったかもしれない。
「はー……俺らしくない」
感情を制御できなかったこともそうだが、こうして悶々と悩むことも、やはり自分らしくなかった。
「……よし」
そう勢いづけて起き上がり、携帯を手に取る。しかし彼女の連絡先を知らないことに気付き、再び項垂れた。
結局、佐月に謝罪のメールを打ち、迷った末、末尾に「無月さんには明日謝りに行きます」と添えた。
一葉の言っていたことが確かなら、彼女はもうしばらくの間あの病院に寝泊まりするはずだった。
彼女にも都合があるだろうが、謝罪は早い方がいいだろう。それなら明日、行くだけ行ってみよう。不在なら、また出直せばいい。
そう決めて、颯馬は送信ボタンを押した。
そのとき、階下から「颯馬ー! お風呂に入りなさーい!」という茶子の声が聞こえた。
彼女は夫婦喧嘩をする度に、こうして実家に入り浸るのだ。三人の中で最も気の強い姉の臨時帰還は、颯馬にとって喜ばしいものではない。
階段を下りながら、「また康助さんを泣かせたのか」と呟くと、聞こえていたのか、茶子が般若の形相で振り返った。
「違うわよ! いい歳して情けないあいつが悪いの!」
颯馬は、絡まれると大変だと、急いで浴室に逃げ込んだ。
扉を閉めてから、姉に聞こえる程度の声で独り言を呟く。
「康助さんは寂しがってるだろうな。茶々姉の我が儘で縁もゆかりもないうちの近くに家建てたのに、あそこに一人ぼっちか。可哀想に。今日はコンビニ飯かなぁ」
すると、扉の向こうで、姉が言葉を詰まらせている気配を感じた。その表情も、颯馬には手に取るように分かる。
自分が悪いと分かっていながらどうしても意地を張ってしまうときの表情だ。
口を引きむすんで、相手を睨みつけるようにしながらも、視線は落ちてしまう、まるで子供のようだと思った。
「……今夜電話して、明日の朝迎えに来てもらうわよ」
そう、扉越しの颯馬にだけ聞こえる程度の声で告げると、茶子はわざとどしどしと機嫌悪そうに去っていった。
颯馬は思わず笑ってしまう。
もしかすると、姉がこうして帰ってくるのを、心のどこかで楽しみにしているのかもしれない。
口うるさくても、邪魔くさくても、やはり家族は特別な存在なのだ。
今日はお風呂から上がったら、肩でも揉んであげようかと、そんなことをぼんやりと考えた。
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