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第三十七話 氷解―前編―
しおりを挟む初めて彼女に触れた日、今日この日のことは、生涯心に刻んでおこうと密かに誓った。
怯えたような目も、強張った体も、愛らしい涙声も、全て自分のものにしたくて、誰より優しくしたいと祈りにも似た気持ちでいたはずなのに、願いのままに奪ってしまった。
そうしてそのまま、制止も聞かずに、その身を抱き続けた。そうすることで、彼女の心までもが手に入る気がしていたのだから、始末に負えない。
最後に共に寝た日、彼女は知っていたはずだ。もう、二度と会うことはないのだと。
それなのに、彼女は寸分違わずいつも通りに、身を任せ、涙を流し、帰っていった。
いや、本当にいつも通りだったのだろうか。
どこかにヒントがあって、それを愚かにも見落としてしまっていたのではなかろうか。
思い返そうにも、その輪郭は徐々に朧げに周囲の背景に溶けていき、甘く優しい思い出へと変わっていく。
これは、防衛本能なのだろう。思い出してしまえば、きっと今よりもっとずっと苦しい。
締め付けられるような悲しみは、ぼんやりとした温かい思い出に揺蕩っているうちは、鈍痛へと変わる。まるで麻酔のようだった。もしかしたら、体がそうしろと命じるままに、彼女を忘れてしまえば、楽になれるのかもしれない。
しかし、それでも、考えずにはいられない。もし、あのとき、彼女の異変に気付いていれば。嫌がる彼女の言葉に耳を傾け、自分を抑えていれば。優しい彼女につけこまなければ。
きっと、こんな結末を迎えることは、なかった。
透が扉を開けると、ごく微かな息遣いが聞こえた。
彼女のことだから、すすり泣いてでもいるに違いないと踏んでいたのだが、室内は驚くほどに静かだった。
罪人として連れて来られた彼女は、窓際にぽつんと置かれた小さな椅子に腰掛けているはずだ。
だが透は、強いて彼女の姿を視界に入れることはしなかった。一目見てしまえば、決意も覚悟も、全て一瞬のうちに崩れ去ってしまうことが、分かっていたからだ。
彼女が、目の前にいる。すぐ、そこに。
焦がれ続けた体温が。
瞬きほどの間でさえも忘れることのできなかった存在が。
泡沫の夢でもいい。幻でもいいから。一目だけでも姿を見たい、と、どれほど想い続けたことか。
懐かしい彼女の香りが加減によって微かに届く。
その度に体中の血が否応無く沸き立った。
六年もの間、まるで飲まず食わずで過ごしてきたかのようだ。
彼女を奪え。奪ってしまえ。
自分のものとは思えない獰猛な声が、響いてくる。
だが、透は両手を握りしめ、ひたすら床を見つめた。意志に関わらず力の込められた口元からは、薄っすらと血が滲んでいる。震える瞼も、眉も、どうしようもなかった。
彼を今押しとどめているものは、たった一つ。
これからの、彼女の幸せ。ただ、それだけだった。
「……蜜華に、全て聞きました」
もっと、声が震えると。抑えきれない想いが溢れてしまうと覚悟していたのに、平生そのものの声が出た。まるで他人の声のようだった。
「……貴女は、何も知らなかったんでしょう」
少しだけ、息を吸い込む音がする。そして、全く変わらないかつての声のまま、聞いたこともないような冷たい言葉が流れ込んできた。
「いいえ、私が、清和に命じたのです。我が子のために、あの家の跡取りを廃してほしいと」
時が、止まったかのようだった。
彼女の声以外の音という音が、消えてしまった。
頭も、まるで飾りのように働かない。
全身が徐々に凍っていくかのようだった。
「蜜華様が、透様に何を申し上げたのかは存じませんが、真実は、私が貴方様の秘書に何度も申し上げた通りです。私は光のために、蜜華様を欺いてきたのです。今、私にとって最も重要なのは、光の未来、それ以外にはありません。清和を味方につけるために、手段は選びませんでした」
嘘だ。聞きたくない。
透の頬を無意識のうちに涙が伝った。
彼女が他人に触れられているところなど、想像に耐えられなかった。
「ここまで正直に申し上げたのですから、光のことは、どうか哀れに思い、情けをかけてやってください。それと、私のことも助けてくださるのであれば、とても嬉しいです。透様はお優しいので、正直にお話しすれば、不問にしてくださるのではないかと思って」
言葉が、出てこない。日頃あれだけ饒舌に回る口が、全く動かなかった。
絶望は、これで二度目だった。
一度目は、扉越しに聞いた、父親への涙ながらの訴え。
「後生ですから、もうやめさせてください」
あの言葉に一度、透は心を殺されていた。
それから、蜜華を通じて、彼女もこの六年の間、多かれ少なかれ、自分を想ってくれていたのだと知った。
それがどういった感情なのかは分からなかったが、少なくとも、彼女の中から跡形もなく消されてしまったわけではないのだと知り、涙が出るほど嬉しかったのだ。
死んだ心に、再び若葉が芽吹き始めたほどに。
二度目の刃には、もう、耐えられない。
彼女に愛されていなくてもいい、想われていなくても構わない。それでも彼女を、彼女との子を守りたい。この六年間、ずっとそう思い続けたはずなのに。
あのとき、彼女がずっと見守ってくれていたのだと聞いて、救われてしまった。目を背け続けた気持ちに、気付いてしまった。
本当は、想っていてほしかった。
生涯を誓うほどの愛なんて贅沢なことは言わない。ただ、一欠片ほどの恋でもいい。吹けば消えるほどの恋心でもいいから、どこかにひっそりと抱いていてほしかった。
毎日でなくていい、週に一度が多すぎるなら、数ヶ月に一度でもいいから、思い出してほしかった。
かつて、哀れなほどに恋い慕った、愚かな男を。
「……藤子さん」
もう、抑えきれなかった。
溢れ出る涙も、嗚咽も、彼女を求める瞳も、震える声も、何もかも、限界だった。
いつの間にか立ち上がっていた彼女は、あの日朝焼けの中で見た娘の姿そのままだった。
「……不問には、できません。耐えられません。藤子さん。罪を贖うと言うのなら、ずっと私の傍で生きてください。そうすれば、この家の権利も、何もかも、全て光のものにしてあげます」
藤子の目が、ゆっくりと見開かれる。
しかし、それを打ち消すように、再び冷たい光が彼女の瞳に宿った。
「……そんなことをすれば、一生お恨み致します。透様、私には他に想い人がいるのです」
「構いません」
対する透は、その瞳に、静かな炎をたたえていた。
「本当は、今日、貴女を解放して差し上げようと思っていました。光を我が家で正式に引き取り、貴女にはもう、自由に生きてもらおうと。それが、貴女の幸せなのだと」
それを聞いた瞬間、藤子の表情が、さっと強張った。
「……それは……」
藤子の声が揺れ始める。対する透は、かつてないほど強く、藤子を見つめた。
「どうか、恨んでください。私を、許さないでください。それでも、貴女を諦めることのできない私を、少しでも哀れに思ってくださるなら、生きるための道具としてでもいい。私を、利用してください」
藤子は、呆然と宙を見つめ乾いた唇で、呟いた。
「……困ります」
「藤子さん」
「……だって」
「お願いです」
「……それじゃあ、何のために、お傍を離れたのか、分からないじゃないですか」
今度は、透が困惑に揺れる側だった。
窓ガラスが、がたがたと音を立てる。今晩は、嵐になるはずだった。
「……どういうことですか」
「正直に申し上げれば、私の意思を尊重してくださいますか」
透は答えることができない。
それでも藤子は、無言を肯定と受け取り、言葉を続けた。彼女は、必死だったのだ。何とか、透を思い止まらせようと。
「……私の望みはただ一つ、貴方様の幸せです。貴方様の、血の滲むような努力が身を結び、誰もに認められる実り多い人生を歩んでいただくことです。私は、その妨げにしかなりません。お願いですから、気をしっかり持ってください。冷静に、ご自身の幸せを、よく考えてください」
ここに、透は悟った。蜜華の言葉はやはり、嘘偽りのない真実であったのだと。危ういほどに心根の優しい彼女は、信じていた通りの女性だったのだ、と。
「藤子さん」
一歩、前へ足を踏み出す。
すると、藤子は怯えたように肩を揺らし、一歩下がった。
「……逃げないでください」
もはや、非情に取繕われた彼女の仮面は、見る影もない。涙を流しながら、首を振り、よろよろと後ずさる。
「透様、来ないで。怖いんです。貴方様の未来を、私なんかが潰していいはずがない。透様、お願いですから……」
藤子の乞うような視線を受け流し、とうとう、透は彼女を壁際へ追い込んだ。
その頬へ手を伸ばし、触れようとする。途端に指先が氷のように固まり、動かなくなった。
彼女に触れることが、こんなにも恐ろしい。
透は苦しげに眉を寄せ、そっと手を下ろした。
「藤子さん」
「いや、透様……お願い、私はただ、貴方様に幸せになってほしいだけなんです」
「……心が死んだまま生き長らえることが、私の幸せだと、貴女は本当に思っているんですか……!」
荒げられた声が、あまりに悲愴で、痛ましくて、藤子は茫然とした。
違う。
彼を拒絶するつもりはなかった。
こんな顔をさせたいわけでは、なかったのだ。
「……どうして、そんな顔をなさるんですか」
この世の全てに見限られたかのような。
そんな、たった独りの子供のような顔を。
「……貴女を、愛しているからです」
もはや、彼を置き去りにすることなど、できなかった。彼の手を取らずには、いられなかった。
何と細く、青白くなってしまったことだろう。
かつては快活な笑い声を立てていた口元は、血の気を失い、かつて未来に輝かせていた瞳は、鏡のように悲しみを反射させている。
全て、間違っていたのだ。
自分勝手に決めつけ、思い込み、そのために、彼の意思も覚悟も踏みにじった。彼が信じた未来を、裏切ったのだ。
あまりに大切すぎた。共に過ごすうちに、質量を増していく愛しい気持ちが、いつしか自分の全てをかけてでも守りたいものになってしまった。
もし、彼が不幸になってしまったら。そう思うと、足がすくんでしまった。どうしても、その先に踏み込むことができなかった。
否、それだけではない。
結局のところ、自分の弱さに負けたのだ。
子供ができたと分かったあのとき、一番に彼に相談しなかったのは、彼に負担に思われはしまいかと、疎まれはしまいかと、恐ろしかったのだ。
自分などが彼に愛されるはずがない。いつかは捨てられてしまう。そんな妄想に負けたのだ。全て、弱い自分の心が故だった。
そして、一番大切な人を、傷つけた。
何故、彼を疑ってしまったのだろう。
こんなに純真で、優しい、彼の気持ちを。
彼の手を引き、その折れそうな体を胸に抱く。
透は、なされるがまま倒れこむように抱きすくめられた。
羽のように軽いその体に、更に胸が締め付けられる。
呆然としたまま、一切の抵抗を示さない彼は、まるで人形のようだった。
「……藤子さん?」
小さな吐息のような声が、鼓膜を揺らす。
これが夢か、現か、幻か、確かめているかのような、頼りない声。
「はい、透様、私はここにおります」
そう、穏やかな声で告げると、透はそっと息を飲んだ。
「藤子さん、どうして」
今、彼女に抱き締められている、そんな夢のような現実が全く受け入れられなかった。
これは、浅ましい妄想を映す白昼夢に違いない。
しかし、それにしては、彼女の心地良い鼓動の音までもが信じられないほどに鮮明で、耳に優しい。
「……覚悟が、できたのです」
「……覚悟?」
うわ言のように唇が動く。
藤子はそんな透を、更に強く抱き寄せた。
「全てを受け入れる覚悟です。貴方様の苦労も、悲しみも、全て分けていただいて、共に乗り越えていく覚悟です。この先もし、私のせいで貴方様が苦しむことになったとしても、私が、必ず貴方様をお守りします」
その言葉を理解し終えないうちに、太陽の光を反射して黄金色に輝く瞳から、次々と涙が溢れ出した。
堰き止めようとしても、止まらない。
幼い嗚咽さえ、止めることができない。
「……藤子さん、藤子さん……!」
言いたいことは、たくさんあった。
貴女といて、不幸になることなんて、ありえない。
共にいてくれるなら、どんな場所でも、そこは天国なのだから。
しかし、どうしても震える口は多くを語ることができない。
透は、ゆっくりと両腕を上げて、暖かな体を包み込み、そして、その耳元に唇を寄せた。
「――私が、一生、貴女を守ります」
掠れたその声に、藤子はそれまで堪えていた涙が、とうとう溢れ出すのを感じた。
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