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第四十二話 無月と日向
しおりを挟む空港のベンチに腰掛けながら、遠くを行き交う人々の足音に耳を澄ませる。
平日の正午過ぎ。梅雨も明けたのか、眩いほどの晴天だった。ガラス張りの壁から降り注ぐ太陽が、観葉植物の葉の間から、きらきらと漏れ出ている。
無月は、それをぼんやりと眺めて、そっと目を閉じた。
思い出す。
恐らく、全てはあの日始まった。
この場所で、深草一葉と出会った瞬間に。
「……彼女は、本当に、不思議な方だわ」
「誰のことだ?」
懐かしい声が、真横から聞こえる。
同時に、隣に人の腰掛ける気配を感じた。
「……久しぶりね、日向」
目を開けて、隣の人物に目を向ける。
そこには確かに、幼馴染の姿があった。
そしてその背後には、見たことのない異国の女性が立っていた。
本能的に分かった。
彼女は、間違いなく、日向の母だった。
口を開く。しかし、声が出る前に、その女性は涙ぐみ、両手で顔を覆い、そのまま深く会釈をして、走り去ってしまった。
呆然とした無月は、暫くののち、はっと我に帰り、ようやく「いいの?」と尋ねた。
日向は静かに頷き、「無理もない」とだけ呟いた。
「どういうことなの?」
「……長い話になる」
それから、日向は清宗から聞いた話、母から聞き出した話を淡々と話して聞かせた。
否、淡々と話したつもりであった。しかし、声に涙が混じるのは、致し方なかった。
この瞬間、より冷静であったのは、恐らく無月の方だった。
「そう」
「そうだったのね」
頷きながら、過去の朧げな記憶と、辻褄の合わなかった現実を、細い糸で結び合わせていく。
最後に、日向は、「すまなかった」と結んだ。
「俺が、もっと早く気づいていれば。無月をこれほど長く苦しませることもなかった」
無月は、そっと日向の手を取った。
「……私は、結局最後まで、日向に全てを背負わせてしまったのね」
真実を知るその瞬間に、側にいることができなかった。
想像と現実のあまりの違いに惑う彼の側に、いてあげることができなかった。
これまでずっと、そうであったように、最後の最後まで、守り続けてくれた。
「ありがとう、日向」
その瞬間、金色の瞳から、透明な雫が落ちた。
同時に、分かってしまった。恐らく生まれ落ちたその日から、絶えず無月に抱き続けてきた感情。その答えが。
無月のことが愛おしい。
まるで、実の娘のように。
これは、恋などという可愛らしい感情でもなければ、愛執のような欲にまみれた感情でもなかった。
自分はただ、父親のように、無償の愛で彼女を包み守りたかっただけなのだ。
まだ目の見えない雛鳥のような彼女に、果てのない広い世界を見てほしかった。
様々な想いを抱える人々に出会ってほしかった。
そして、人生は、それほど悪いものではないと、気づいてほしかった。
そして今、かつて悲しみの海に揺蕩っていた彼女は、信じられないほど穏やかな声で、呟く。
「日向、私、先生を目指しているの」
今日、遠目に彼女を見つけたそのときに、日向には分かっていた。
彼女はもう、以前の無月とは違うと。
纏う空気が明るくなった。
強張っていた肩が、爽やかな夏の空気の中で自然に解されている。
全てを拒絶していた瞳が、全てを受け入れようとしている。
何が彼女をここまで変えたのだろう。
誰が、彼女を導いたのだろう。
「……もう、大丈夫みたいだな」
涙に濡れたまま、日向はまるで少年のように笑った。
それから、二人は恐らく生まれて初めて、未来の話をした。
「俺は、あの家を継ぐよ」
「そう」
母と並ぶ彼を見たときから、いや、きっと初めから、そんな気はしていたのだ。
優しい彼は、家を捨てることはないだろう、と。
どれほどあの家が彼を傷つけようとも、彼は誰も見捨てはしない。
「私は、あの家を出るわ」
「あぁ」
人とは思えぬ存在である無月が、現世で生きていく。それは、到底不可能なことであるように思われた。
どれほどの苦痛が彼女を襲うことだろう。
どれほどの危険が彼女を脅かすことだろう。
それでも、彼女は既にその覚悟を固めてしまっている。
それならば、彼女を祝福しなくては。
並び立つことはできなくとも、それぞれの場所で、互いに胸を張れるように。
「一葉や、あいつらが力になってくれるだろう」
「えぇ、きっとそうね」
「……今が、話しどきか」
不思議そうに首を傾げる無月を、日向は優しく見つめた。
「あの深草一葉は、無月の従姉妹だよ」
「……え」
言葉も出ないのか、見たこともないような無防備な顔で、無月は固まった。
そして日向もまた、大の大人とは思えないほど楽しげな声を立てる。
「まぬけな顔だ」
「……一葉さんが?」
「そうだ」
「……私と、血が繋がっているの?」
「あぁ」
ようやく理解し始めた無月の頭を、日向は軽く撫でた。
「驚いたか」
「……えぇ」
「あの兄妹は一滴も血が繋がっていないらしい。そして、深草一葉の母親は陽子さんの実の妹だったそうだ」
「……そう、だったのね」
無月は両手で顔を覆った。
かつて、槙の見せた、悲しげな笑顔を思い浮かべて。
血の繋がらない妹に恋をしてしまった彼は、どれほどの苦しみを背負っていたのだろう。
そんな彼を、知らず知らずのうちに責めていなかっただろうか。自分だけを見てほしい。そんな気持ちが、彼に伝わっていなかっただろうか。
「……一葉さんは、このことを知っているの?」
「俺が無月に話すと伝えたら、あの男も重い腰を上げたようだ。今頃伝えていることだろう」
「……良かった」
白く輝く床を見つめる。
遠い喧騒が心地良い。
そう遠くない未来への期待に、胸が高鳴っているのだろう。
「二人は、上手くいくかしら」
「……あの二人の場合、両親は同姓を名乗ってはいたが、戸籍上は別姓。事実婚だったらしい。法的にはどうだか知らないが、世間の目もある」
「でも、そんなものより大切なものが、きっとあるわ」
「……そうだな」
ここに至るまで、二人は一体どのような道を歩いてきたのだろう。
こんな酷い世界に生きているのは自分だけだと、思っていた。
そうであるはずがないのに。
皆同じように苦しみ、それでも希望を忘れず、懸命な努力を重ねているというのに。
目を覆って生きてきた自分は、そこら中に散らばっていた希望の欠片を見つけることができなかった。
大好きな祖父母。
自分を深く愛してくれていた両親。
全てを投げうち守ってくれた母の親友。
どんなときも味方でいてくれた友。
残された従姉妹。
そして、目の前で微笑む幼馴染。
どれほど恵まれた人生だったか。
まだまだ、数え切れないほど多くの光で、道は照らされていた。気づかぬうちに、守られていた。
だからこそ、今、自分も周りの人の足元を、明るく照らしたい。そのために、できる限りの努力をしたい。
この優しく気高い幼馴染に恥じない自分でありたい。
全く違う場所から、あの世界を変えていくのだ。
「これからも、よろしくね、日向」
「心強い相棒だ。これから忙しくなるぞ」
「望むところよ」
彷徨い続けた迷路の果てに、ようやく辿り着くことができた。
あとはただ、まっすぐに進んで行くだけ。
不安がないわけではないけれど、今は自分を信じることができる。
心強い相棒が、そして仲間がいる。
「さぁ、日向、お母さんを探しに行きましょう!」
さっと立ち上がり、幼馴染の手を掴み、無月は走り出す。
真っ白な空港の中、二人はまるで幼子のように駆けた。
そんな彼女の背中を、日向は眩しげに見つめていた。
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