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第四十六話 無月と薫
しおりを挟む「私との約束なんて、もうすっかり忘れられているものと思っていたわ」
どこか責めるような物言いなのに、相手にそうと感じさせない雰囲気は、長年の経験と試行錯誤を思わせる。
「急に入院したと思ったら帰ってこないなんて言うんだもの。きちんと食べているの?」
再婚相手の連れ子を疎ましく思いながらも、最低限の礼儀と体面の為に、ささやかな反抗にさえ付き合う継母。
薫の擬態は完璧過ぎた。
こんなの自分でなくても気づかないだろうと、無月は苦笑した。
「何を笑っているの? まぁいいわ。せっかく無月さんから連絡してくださったのだもの。ゆっくり選びましょう」
そう言うと、薫は無人の店内を足音一つ立てずに進んで行った。
眩いほどの室内灯。
色とりどりのドレス。
空気と同化している店員。
以前は気詰まりで仕方がなかったその場所を、今はどこか遠くから見ているような気がした。
「無月さんこちらはどう? この鮮やかな赤は無月さんの御髪に映えると思うわ」
わざと継子の勘に触るような声色、言葉選び。
気づいてしまえばどこまでも痛々しく、まともに見ていることさえできないほどだった。
「薫さん」
「何?」
少女のような無邪気さを装った微笑み。
腹に一物あるに違いないと無月を警戒させ続けたもの。
それはきっと、彼女の本心を、心をぎりぎりのところで守り続けた鎧だったに違いない。
無月は一度大きく息を吸うと、もう一度呼びかけた。
「薫さん」
何かの気配を感じたのか、薫は先程のような気軽な返答ができないようだった。
それでも強いて微笑みを保ち、「どうしたの?」と首をかしげる。その一瞬の迷いに見た表情に、彼女の仮面の下がちらついたような気がした。
「もう、やめてください」
薫は持っていたドレスを置き、また心配げな仮面を被り「本当に、どうしたの?」と近づいてくる。
以前の無月なら逃げ出しただろう。
しかし今、彼女は一歩も退かなかった。
近づいてきた薫の両手を取ると、一歩距離を詰める。
ぎょっとしたのは薫の方だった。
先程までの淑女の微笑みが見る影もない。
見開かれた目。固まった背。呼吸さえ忘れた体。
彼女は近くで見ても美しかったが、目の下に痣のような影があることに、無月は今日初めて気がついた。
「薫さん、私……!」
そのただならぬ様子に全てを悟った薫は、咄嗟に両手を振り払った。
「違う! 違うわ無月さん!」
そして無月の両肩を掴み、幼子に言い聞かせるように告げる。
「誰に何を吹き込まれたか知らないけど、それは真実ではないわ。貴女を慰める為に皆が嘘をついてるのよ」
彼女のこんな必死な相貌を見るのは初めてだった。
血気迫るその様子は、余計に無月の胸を締め付けた。
親友の子を無事に育て上げる。その為だけに生き続けた人。その人の生きがいを今、自分は奪おうとしている。
それは、誤りなのではないだろうか。
このまま何でもないと引き下がるのが、正解なのではないか。
一瞬、そんな迷いが浮かび、そしてそれは、あの日の言葉の響きに、霧散した。
――言いたいことがあるなら、言えばいいだろ。やりたいことがあるならやればいい。どうして全部やる前から諦めるんだよ。言わないと伝わらないし、やらないと一生できないままだ。やってみればいいだろ。
そう、言わなければ伝わらない。
やってみなければ、何も始まらない。
彼が呼び起こしてくれたこの心を忘れてはいけない。
進んでいく覚悟をしたのだから。
「……嘘をついているのは薫さんだわ」
呆気にとられている薫に、無月は真っ直ぐ言い放った。
「私のために、優しさも孤独も全て殺して、嘘をつき続けてくれたのは、薫さんの方よ」
もっと他に言い方があったはずだった。
深い感謝と謝罪を示す言葉が。
しかし、今無月の心にあるのは、感謝だけではなかった。
やりきれない後悔と、苛立ち。
何故嘘をついていたのか分かっていても、頭では必要なことだったのだと理解していても、どうしても思ってしまう。
どうして本当のことを教えてくれなかったのか。
知っていれば、恩人を傷つけるような態度を取ることもなかった。
これまで重ねてきた冷ややかな視線は、言葉は、もう取り戻せない。
「どうして、自分を傷つけるような道を選ぶの……! そんな風に守られて、私が喜ぶとでも思ったの!」
剥き出しの感情が溢れ出る感覚に、手足が震えた。
溢れ出るままに発される声は、耳を焼くようだ。
子供のように眉を下げ、大粒の涙を流す無月は、女神などではなかった。
まだ幼い頃、日向が置いて行ったのだと泣いた表情、そのままだった。
薫の頬を、一筋の涙が流れ落ちた。
すぐに帰ってくるわよ。
そう言って抱き上げると、柔らかく温かく、小さな手が首元にまとわりついてくる。
人一倍寂しがり屋な子だった。
それなのに自立心だけは旺盛で、全て自分でやりたがっては駄々をこねていた。
あの小さな子が、いつの間にか、あの頃の自分よりずっと大きく、優しく育っている。
どんな人たちに囲まれてきたのだろう。
どんなものを見て、何を感じて、今日この日まで歩いてきたのだろう。
あの日の自分の選択が、この子を茨の道へ導くことは知っていた。
それでも生きてほしかった。
決して幸せにはなれない運命の中で、なお生き続けてほしかった。
年を重ねる毎に、罪悪感は増していった。
心がどんどん深いところへ沈んでいく。
それを、まだそんな感情が残っていたのかと自嘲した。泣き出しそうな鏡の中の自分から目を逸らし続けてきた。
疲弊していく誰より優しい当主。
物言いたげな執事。
去って行った友。
全てに目を背け、ただ自分の為だけに、あの子を飼い殺してきたのだ。
そのはずだった。
それなのに、今自分の目の前に立つ無月は、決して不幸には見えない。
「無月さん、貴女、誰のことも恨んでいないの?」
薫は、祈りにも似た気持ちで尋ねた。
「……恨めなかったわ。恨んでいると言いながら、誰のことも心底憎めなかった」
無月はそれが、ずっと不思議だった。
ずっと悔しかった。
どんな仕打ちを受けても相手を恨むことのできない自分が。
どうして、憎むことができないのだろう。この心は既に意味を失くしてしまったのだろうか。
そんな風に考えたことも一度や二度ではなかった。
しかし今の無月には、その理由がはっきりと分かる。
両親の隠された愛情、周囲の者達の気遣いが、満ちていたから。幼馴染の覚悟、友の真心に守られていたから。
「薫さん、私は、不幸なんかじゃないわ」
薫の眼前に、青い青い空が広がった。
こんな奇跡があるのか。
不運と孤独、死の影さえ乗り越えて、こんな風に微笑む日が来るなんて。
「だからね、薫さん、だからこそ、私はあの家を出るわ。私のこの心を生かしたい場所があるの」
そのとき脳裏に蘇ったのは、泣きたいほどに懐かしい友の姿だった。
――見て、薫!
遠く連なる山々を指差して、振り返る。
薄くなった雨雲の間から日が差して、彼女の背を照らした。
湿った土の匂い。若草のひんやりとした雫。
眩しくて目を細めた薫は、それでも彼女の指の先へ視線を移した。
――見渡す限り雨粒できらきらしてるわ。雨上がりって綺麗ね。
透明な水に洗い流された世界。
まるで生まれ変わったかのような生き生きとした景色を、彼女は愛していた。
何故今になって、その笑顔が蘇ったのだろう。
彼女を亡くしたその日から、姿形はおろか、面影さえ思い描けなくなってしまったというのに。
夢にさえ現れてはくれなかったのに。
もう二度と思い出せないのだと思っていた。
思い出せなくなるのと同時に、まるで痛覚が麻痺するかのように悲しみが薄らいでいった。
それが今、まるで昨日のことのように、全てを懐かしむことができる。
ほんの少しの寂しさを伴って。
――あの子がこんなに大きくなって。綺麗になったわね。
そんな風に言葉を交わし合うことは、もはやできないけれど、まぶたの裏側の彼女は、今でも楽しそうに笑っている。
「ありがとう……やっと許すことができる」
あの日の自分も、過ちだと思っていた日々も、全てを認めることができる。
「お父様のことも?」
視線を向けると、無月は悪戯にはにかんでいた。
薫は静かに目を閉じ、心から呟く。
「……えぇ、今、とても話しがしたいわ」
過ぎてしまった時間は、もう戻せないけれど、あの日見た空のように、この先の道のりはきっときらきらと輝くのだろう。
たくさん話しをしたい。
愛しい過去のことも、待ちきれない未来のことも。
娘の巣立ちを、共に世界で一番喜びたい。
「……おかあさま」
薫は息を飲む。
「これから少しずつ、そう呼んでも良い?」
頼り無く曖昧に笑う無月を、薫は力いっぱい抱きしめた。
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