薄幸の佳人

江馬 百合子

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第五十二話 成宮邸会―幕引―

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 無月は両手をぎゅっと握りしめた。
 この期に及んで迷うわけではないけれど、足がすくんでいるのもまた事実だった。
 何を恐れているのだろう。
 批判だろうか。反発だろうか。
 それとも、自らが選ぼうとしている先の見えない未来だろうか。
 真実に気づくことがなければ、あのまま、安穏と暮らしていけたのだろうか。
 無知なまま、皆に守られ安全に。

「……そんなのは、ごめんだわ」

 呆れたように笑いながら、無月は小さく呟いた。
 透、藤子と目が合う。
 二人は力強く頷いた。
 無月もまた、しっかりと頷き返す。
 見たい未来はそんなものではない。
 自らの足で進んだ先の景色が見たいのだ。

「……次の、お知らせは」
 
 視線の先にジュリアが手を振っている。
 いつになく穏やかな目をして。
 根底に確かな覚悟の色を携えながら。

「日向のお母様、ジュリアさんが戻ってくれました」

 その瞬間、堂内が水を打ったように静まり返った。
 皆がその名を知っていた。
 ジュリエッタ=デュボア
 かつてあの光のような少女と並び立っていた異国の娘。
 あの頃は、国籍が違う、見目が違うというだけで、まるで自分たちとは全く違った存在に見えていた。
 受け入れ難い存在だと、思っていたのだ。
 だが誰もが知っていた。
 例え生まれがこの国でなかろうと、金色の髪を持っていようと、彼女は自分たちと何ら変わるところのない、真面目で直向きな少女だった。
 彼女がこの地を去り、春乃宮の当主が開かずの間に籠るようになってから、後悔しなかった者は一人としていなかったのだ。
 日向を「ワケあり」と揶揄し続けたのも、そんな自らの後悔から目を背ける為の逃げ道だった。
 その言葉がどれ程幼い日向を傷つけてきたことか、自らを正当化するに必死な人々は気づくことさえできなかった。
 その子を認めないと口に出すことで、我々の過去の行いは過ちではないのだと、思い込みたかったのだ。

「皆様」

 最後列でジュリアは口を開く。
 無月に気を取られていた人々は肩を揺らし、一斉に振り返った。
 そこには、歳を経て歳月の重みを身に纏ったかつての少女と、周囲を明るく照らす気さくな当主が、変わらず寄り添い合っていた。
 
「かつての私は若く、彼の隣で生きることが、どれ程の覚悟を要することなのか、どれ程の責任が伴うものなのか、分かってはいませんでした。ただ彼と共にいたい。それだけを力にして、我武者羅にもがいていた私は、皆様の目にとても頼りなく、また危うく映ったことと思います。私自身、最後まで自分を信じることができませんでした」

 優しい声の響きは、かつてのまま。
 そこに、積み重ねられてきた日々の苦悩と勇気を思わせる、思慮深さや聡明さが確かに滲み出ていた。

「そうして私は、海を隔てた向こう側に逃げました。これで良いのだと、全てがあるべきところに帰るのだと自分に言い聞かせて。でも、いくら遠くへ離れても、何をしていても、彼を、我が子を、忘れることはできませんでした」

 永久のような長い時間を過ごしました。
 そう小さく呟かれた声は、何より彼女の過ごした孤独を肌身に感じさせた。

「そして気づいたのです。安らかな生活などいらない。安全な環境なんて、必要ないのだと。ただ彼の笑顔をもう一度見たい。我が子をもう一度この腕に抱きたい」

 ジュリアは十数年前に練習した完璧な笑顔ではなく、持って生まれた人好きのする笑顔で笑った。

「そして結局、戻って来てしまいました。彼らと共にいたい。それだけを力にして」

 軽く発せられたこの言葉が、どれ程の勇気の元に固められた決意なのか。
 当時を知る者は勿論のこと、知らぬ若者もまた、穏やかな中にも込められた声の震えに、自ずと悟った。
 
「奇しくもかつてと同じ理由で、私はここへ飛び込みました。でも、今の私は何も知らなかったあの頃とは違います。この道の険しさも理解しています。皆様の御心配も分かっているつもりです。それでも、私は彼らと共にいたいのです」

 ジュリアは願いを込めて膝を折った。

「私はもう、逃げません。どうか、皆様のお力をお貸しください」

 その瞬間、一斉に紳士は腰を折り、淑女は深く屈んだ。頭を下げる音だけが静かな堂内にこだましている。
 迷う者は一人もいなかった。
 当時を知る者の中には、後悔に胸を潰されそうな者もいた。
 何故あそこまで意固地になって、愚にも付かぬ嫌がらせを重ねていたのだろう。
 確かに彼らにとって家柄は大切なものだった。場合によっては本人の性質以上に重要視されていた。
 しかし、それにこだわり続けた挙句、あの底抜けに明るかった時成から笑顔が消えた。
 姿さえ見せなくなった。
 そして公平な慈悲の心さえ、失わせてしまった。
 この冷たい社交界で、最も温かな体温を備えていた彼が、人であることをやめてしまったのだ。
 そしてそんな彼の隣にはもう、あの青空のような少女はいない。
 神に見放されたかのようだった。
 しかしいくら悔やんだところで、少女の行方は知れない。当主が屋敷を出ることはない。息子であるはずの日向は取りつく島もない。

 全て自業自得だった。
 もう二度と、彼らの幸せは戻らぬのだと思っていた。
 そんな彼らの線が再び交わろうとしている。
 縺れたその細い糸を今、解いていくことができるなら。

「ジュリア嬢に任せきりで、あやつは隣で泣いているばかりではないか。喋らなくて良いときは騒がしいくせをして」

 会場の端から清宗が毒づく。
 どれ程の月日が経とうと、変わらずジュリアはしっかり者で、時成はどこか頼りない。
 眉間に皺を寄せながらも、隠しきれない喜色を滲ませた声で呟く。
 その言葉に、薫はくすりと笑った。
 

――――……


「それから、次のお知らせですが……」

 再び無月の方へ皆の視線が移る。
 こんな驚きがいつまで続くのかと、誰もが手に汗を握っていた。
 しかし信じ難いことに、誰もがまた、この状況に胸を躍らせていた。
 何故なのだろう。
 本来変化は決して受け入れられないものである。
 伝統、格式こそが全て。
 継続、永続、不変。
 それだけを求め、皆自らの家を、そして社交界を保つ努力を重ねてきたのだ。
 誰もが、永遠に終わらない今日を生きてきた。
 そして変わらない日々に、確かに安心していたのに。
 変化に変化を告げられる今このときが、何故かとても面白いのだ。
 これからの予測できない未来を思うと、不安以上の期待に胸が膨らむ。
 変わり続ける一瞬の連続。
 それが過去を作り、今を構成し、未来を紡いでいく。
 そんなことにも気づかなかったなんて。

「日向と、蜜華の婚約が決まりました」

 無月の落ち着いた、それでいて心から喜ばしげな声。
 自分のことのように幸せそうな表情。
 朝日に照らされた桃の花のような横顔に、皆しばし見惚れた。
 しかし、それも一瞬のこと。
 その言葉の意味が頭に入るや否や、会場中に激震が走った。

「そんな、ばかな」

 一人の紳士の呟きを皮切りに、周囲の紳士淑女も言葉にならない声を零した。
 信じられなかった。どう考えても冗談以外にありえない。
 幼い頃から、自分たちだけの世界を作り上げてきた二人。
 互いのことだけを見つめ、その世界の中だけで生きてきた二人。
 日向は無月を無二の存在として愛し、無月もまた、確かに日向を愛していたはずだ。
 互い以外の有象無象など、一切目に入らないとでもいうかのように。
 そんな無礼な振る舞いも、あの二人だからこそ、許されてきたのだ。
 霞の上の世界に住む、不幸な少女と、不幸な少年。
 体を寄せ合い、温め合うかのような姿は、寂しくも幻想的だった。
 そして、その後の未来は、確かに決まっていたのだ。
 二人が生涯の伴侶として生きていくことは、確定していた。
 それ以外の未来など、存在しなかった。
 それは周囲の者の思い込みなどではなかった。
 もしあの日、無月が一葉に出会わなければ。
 何か一つでも歯車が違っていたならば。
 きっと、ここで発表されていたのは、無月と日向の婚約であっただろう。

 しかし、二人は知ってしまった。
 寂しさを埋める絆と、恋は別物だということ。
 そして、互いに寄りかからずとも、自分の足で立てるのだということを。
 そうして歩く道のりは、険しくも充足感に満ち、その先にある景色は、見たこともない美しさで迎えてくれる。
 だからこそ、互いに互いを見送ることができたのだ。
 寂しさは確かにある。
 欠けた空白は、すぐに埋められはしない。
 しかし、すぐに埋めたいとも思わない。
 その場所は、これからゆっくり積み重ねていくもので、満たしていけば良いのだから。
 無月が再び口を開こうとしたところで、一人の令嬢の口からぽつりと言葉が漏れ出た。

「……無月様を残して、他の方を選ばれるなんて」

 思わずといった呟きだった。
 しかしそれが、彼らの本音だった。
 二人が結ばれないこと以上に、日向が無月を残していくことに、皆驚いていたのだ。
 もし二人が袂を別つときが来るとするならば、それは無月が別の相手を選ぶときだと考えられていた。
 並び立つ二つの名家、藤泉院家と春乃宮家。
 しかしその優位性はいつも藤泉院家にあった。
 例え春乃宮家の長子といえども、藤泉院家の娘を袖にするなんて、許されることではない。
 しかし無月は、はっきりと首を振った。

「いいえ、そうではありません」

 視線の先にいる日向と蜜華。
 無月が微笑みかけると、蜜華もまた微笑んだ。
 そんな彼女の小さな手を、日向がすくい、しっかりと握る。
 その瞬間、蜜華の顔が真っ赤に染まった。
 こっそり離せと睨みつけるも、日向はどこ吹く風とばかりに視線を合わせようとはしない。
 思わずぐいと手を引くと、ようやく彼は蜜華の顔を見た。
 眉を下げ、申し訳なさそうな、困ったような、しかしとても幸せそうな笑顔。
 その表情に、蜜華の頬が更に熱くなる。
 彼の耳が僅かに赤いことに気づいたときには、その手を引いたことを心底後悔した。
 こんな笑顔を見てしまったら、彼の心が真実だと認めざるをえないではないか。
 同じ心を返したくなってしまうではないか。

 その様子を見守っていた人々は、得心した。
 浮いていたパズルのピースが、ぴったりはまったかのような感覚だった。
 そうだったのか、と。
 確かに無月と日向は似合いの二人だった。
 しかし、決して二人に「お幸せに」と声を掛けることはできなかっただろう。
 何故なら、二人が共にいて幸せになることは無いと、感覚的に知っていたから。
 強いて言葉を掛けるとするならば、「少しでも互いの孤独を埋め合えますように」ただそれだけ。
 そんな二人に慣れた人々は、すっかり忘れていた。
 本来、生涯を誓い合う二人は、祝福のもとに旅立つものなのだ。

 無月は、二人の方へ一歩足を進めた。
 人波が分かれ、その先で寄り添い合う親友が手を振っている。
 無月は手を振り返すと、駆け足で二人の元へ飛び込んだ。
 しっかりと受け止めた二人は、呆れたように無月を抱きしめ返す。
 彼らはもう、人形でも、女神でも、妖精でもなかった。
 
「私たちはずっと、ずっと友達です。ただ歩んでいく方向が違うだけ」

 無月の言葉に答えるかのように、薄雲が途切れ、いっそう眩しい日の光が彼らを照らした。
 堂内全体が温かな空気で満たされる。
 もはや、この結末に異を唱える者はいなかった。
 今なら皆が胸を張って言えた。
「おめでとう、お幸せに」と。

 無月は窓から太陽を見上げた。
 深緑の庭。鮮やかな花々。
 真夏の光は、この世界をいっそう鮮やかに見せ、庭師の撒く水が、青々とした芝生を濡らす。
 外へ一歩踏み出せば、足にひんやりと心地良いに違いない。
 無月は最後に、と口を開いた。

「私は、教師になります」
 
 もうこれ以上驚くまいと決めていた人々も、これには天を仰ぐより他なかった。




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