人魚

尼子猩庵

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人魚

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 同窓会の案内が来た。

緑寿ろくじゅ同窓会》と銘打ってあった。

 緑寿が六十六歳を意味するものとは知らなかった。辞書にも載っていないので、ネットで検索したらヒットして、いわく、今世紀に入ってから作られた、新しい長寿祝いとのこと。

 聞けば、妻も娘も緑寿を知らなかった。知ったのちも、とくに祝い直してくれる気配はなかった。

 さて、これまで私は、同窓会のたぐいを欠席して来た。べつに強い理由があったわけでもないけれど、何となく何となくで、結果的に一度も行っていなかった。

 なぜかしら。

 たぶん、家庭というものに、人生を終始していたかったのではあるまいか。

 会社勤めという狩りに出て、妻が守ってくれている巣に帰るという、質朴なものに、人生を置きつけておきたかったのではあるまいか。

 けれどもこいつが、近ごろは、どうもよろしゅうない。

 これと言う問題があるわけではないのだが。

 妻は、定年退職した夫が家の中に常居するという危機をぬるりと乗り越え、二人で散歩もするし、時にはちょっと遠出して、温泉などにも行く。

 娘も、しょっちゅうニコニコと孫を見せに来るし、旦那も礼儀正しい好青年で。ここも、非常に強固な安定状態が呈せられている。

 経済面も健康面も、大した問題はない。

 考えるほど文句はないのに、今私は、どうして「よろしゅうない」なんて思ったのだろう?

 ……これはよろしゅうない。

 そういうわけで、このたびは同窓会、出席で返事を出した。

 幹事の奴は、小川といって、よく覚えていた。私たちは親友だった。

 ほかに数人を加えて、我々は我が物顔に天下の往来を歩き、若さのまにまに太陽の下を駆け回ったものだった。

 時には遅くまでグズグズと家に帰らず、この世に存するあらゆる事柄について、大いに語り合ったものだった。

 あれほど濃ゆかった友情を、いつの間にやら喪失していたとは、思えば信じがたいことだった。

 会場に着いた。受付で名前を記入して、奥のホールに入った。

 おお、たくさんの、どこか見覚えある顔が一斉にこちら向く。べつに仲良くなかった人も、よく思い出せない人も押しなべて歓迎的な郷愁のほほ笑み。

 何だか、いずれ死ぬるまぶたの裏に、笑って待っていてくれる、幸せなあの世のようだ。

 私より先にいた人たちには、ある種の貫禄を感ずる。何でも知っている人かのような。

 しかし今また一人、また一人と、新しく入って来る人たちも、先にいた人たちを、私をも含め、同じように感じているのだろうな。私もつい今来たんだよ。

 お久しぶり、お久しぶりと挨拶を交わしながら、私はしばらくふわふわしていた。

 そこへ、

「よう」

 と声をかけられて、振り向けば、一瞬わからなかったものの、短からざる経年のよそよそしさの奥から一瞬にして懐かしい面影。

 やがて往年のグループで固まっていた。

 これまで親族知人を幾人も送ったけれど、ここは一人も欠くることなく。みんな変わっていなかった。

 そんな私が一番変わっていないという驚くべき指摘を受けて、嬉しいやら情けないやら。

 浮かれているからか、チットモ酔わなかった。これは飲み過ぎるぞと思っていると、小川の奴が、

「おい、覚えてるか。人魚――」
 と言った。

 我々は一様に数十年の眠りから覚めたごとく、ささっと隅へ移動して、お互いを見合う無言の確認に、この話、この面子で過不足はなかろうな。

 ――大丈夫だ。確かにこのメンバーだった。

 あれは中学二年生の夏。秘密基地でも作ろうと、町はずれの森の中を探検していた時のこと。

 けっこう分け入ったあたりで、とつぜん、自然の敵意のようなものに気圧されて、これは下手すりゃ遭難するぞと案ぜられた矢先、木々のひらけた草むらに出た。

 とりあえず休憩しようと言い合っていると、小川の奴が「何だあれ……?」と言う。

 見ると地面に、風景と非常に不釣り合いな、取っ手のついた鉄板があるのだった。

 相談のすえ、じゃんけんで負けた私が斥候に決まって、錆びた取っ手を握り、おっかなびっくり引き開けた。

 すると、苔むした石の階段が、地下の闇へと伸びていた。

 我々は降りて行った。

 空気は清らかなようだが、でこぼこした階段が存外長い。これはどこまで続くのだろうとビクビクしていると、とつじょ終わった。

 我々は洞窟の中に立っていた。

 奥のほうがおぼろに明るいから、歩いて行くと、ゆるいカーブを曲がった先に、満々たる水があった。

 そうして、どれだけ深いのかわからない、淡く緑色に光っている水の中には、非常になまめかしい人魚たちがいたのである。

 下半身は鱗に覆われ、上半身は一糸まとわぬ美女たちが、仰向けに浮かんで、おいでおいでをしていた。

 けれども、早い話が、我々は、畏縮したのであった。

 人魚たちが露骨に示して来る、いわゆる〈ふるさと〉に対しても、我々は寸毫も、望郷の念を覚え得なかった。

 なまめかしい人魚たちは、そうとわかると、美しい声で嬌笑し、人差し指でちょいちょいと呼びつけた。そうして、膝をついて水面まで顔を近づけた我々の頬を、あでやかになでたのち、

「大人になったら、またいらっしゃい」

 そう言うと、明るい水底へ、ゆらゆらと沈んで行ったのだった。

 あとにはかぐわしい匂いだけが残っていた。

「……不思議だな。すっかり忘れていた」

 と私が言えば、俺も、俺も、俺も。

 あの時、無事に森を出てからも、夢を見ているようだった。そして、たいへんな罪を犯したかのごとき沈痛な面持ちで、「このことは忘れよう」と言い合ったのだった。

 翌日教室や廊下で会っても、みんないつも通りにしていた。

 頭によぎってはいたのだ。しかし、もう一度確かめに行く勇気はない。それに、あとから考えれば、よくもまあ水中に引きずり込まれなかったものだと思う。

 夢に出た時は、うなされるやら、跳び起きて、パンツを履き替えるやら……その秘密は誰にも話さなかったと打ち明ければ、俺も、俺も、俺も。

 その後我々は、高校が別々になり、だんだん疎遠になって、今に至る。

 ――大人になったら、またいらっしゃい。

「……行ってみるか?」

 小川が言った。

 我々は、会場を抜け出して、タクシーを呼び、あの森へと向かった。

 スマホのライトを頼りに、老体に鞭打って、木々の中を進む。

 我々を衝き動かすものの逞しさに、我ながら呆れつつ、方向の記憶なんか皆無だったけれども、呼ばれたようにドンピシャで、木々のひらけた草むらに出た。

 ちょうど雲から抜けた月に照らされて、草むらの中に、あの鉄板はそのままあった。

 私が錆びた取っ手を握り、引き開けると、苔むした石の階段が地下の闇へと伸びていた。

 我々は降りて行った。

 やがて、あの時と寸分たがわぬ洞窟の奥に、淡く緑色に光った満々たる水があり、寸分たがわず浮かんでいたのは――……非常に小さな、幼い人魚たちだった。

 大きめの金魚くらいしかなかった。

 当惑する我々に、がんぜない稚魚たちは好奇心いっぱい、愛らしいおめめをぱちぱちしながら、あれこれ質問して来た。

 しばらく答えていたけれど、きりがないので、小川がほほ笑みかけながら、

「ここには、君たちしかいないのかい?」
 と尋ねた。

 稚魚たちは小首をかしげたのち、一番大きい一尾が答えた。

「お母さまたちなら、海に帰りましたが?」

 これを聞いて、我々はただ、目と目を見交わすばかりだった。

 幼い人魚たちは、そんな我々の来意をはかりかね、しばらく小首をかしげていたけれど、やがて一様に、ムッとした顔になり、

「何だか知りませんけれど、お役に立てないようですね。あたしたちが大人になった頃に、またおいでくださいませ」

 そう言うと、明るい水底へ、ゆらゆらと沈んで行った。


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