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嘉永六年(1853)、春

試衛館の面々 伍

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 一歩二歩と床を踏み締める度に僅かに木の香りが漂い、凛の鼻腔を優しくくすぐる。 
 総司はとっくに稽古場へ行ってしまったのか、それとも自室に戻ったのか、既に姿はない。

(沖田さんはやっぱり沖田さんだ)

 気に入らない事があれば一人で稽古に打ち込むか、部屋に戻って何かしらをやっているのがつねだった。
 前者は分からないでもないが、後者は凛ですら知らない。
 部屋に戻る前には必ず『ふすまは開けないでね』と釘を刺されてしまうからだ。

千夏ちなつちゃんなら、知ってるかな)

 今から十年ほど後に会う少女の姿が、浮かんでは消える。
 その少女は、新選組が上京して少しした後にやってきた。
 凛は勿論だが、中でも同じ年頃の男達とよく話していたように思う。

 そして、総司のお気に入りの人間だった。

(千夏ちゃんに出会って、沖田さんは変わられたもの。でも……あと十年と少しが経てば、あの人は)

 そこから先は考えるのを止める。
 知り得ている未来を懐古しても、過去に居る間は何にもならないと、凛はとっくに知っていた。

「此処へ来るのは初めてかい」
「っ」

 不意に声がした方を見上げると、周助が優しげな瞳で凛を見つめていた。
 既に稽古場へ着いていた事に、周助から声を掛けられるまで気付かなかった。
 大人数が集まり宴会が出来るほどの広間には、二十人以上の男達の竹刀を打ち合う音が響き渡る。

 稽古の邪魔にならない場所で、座り込んだり寝転がっていたりする人間もおり、その激しさを物語っていた。

「はい。……兄上が立ち寄るから、と」

 凛はじっと周助を見つめ返し、はっきりと声を出した。
 そのさまに三代目宗家は、更に瞳を細める。

「年の割に随分としっかりしているらしい。──連れて来たのは自分の姿を見せる為、か?」

 言いながら隣りにいる蒼馬に視線を向け、周助は問い掛けた。

「まぁ、そうです。あと、凛を紹介したかったので」

 蒼馬の優しく温かい黒曜石の瞳が、凛に向けられる。

「ほう?」
「この子は俺の稽古にいつも付き合ってくれるので……なら、此処に連れて来ても大丈夫だと思いまして」
「わ、ちょ、兄上」

 ぽふ、と頭に手を乗せられたかと思うと、乱雑に掻き混ぜられた。

「やめてください!」

 堪らず凛は抗議の声を上げた。
 蒼馬のように一つに結っている訳ではない為、こうも雑に撫でられては簡単に乱れてしまうのだ。

「はは、悪い悪い」
「うっ……。次はありませんからね」

 反省の色のない声音だが、こうも屈託なく微笑されては許す他なかった。

(兄上の色香がこの時から健在だとは……)

 溜息が出そうになるのを気力で堪える。
 蒼馬がこの時点で元服を済ませたかどうかは分からないが、その見目は勿論のこと、そこらの役者に劣らないあでやかさがあった。

(おかしな方に捕まらなければいいけれど)

 凛の思考が明後日の方向に飛んでいる間も、頭上で蒼馬と周助の会話は続いている。

「……むさ苦しい男所帯に、か」

 兄妹の様子がおかしかったのか、はたまた蒼馬の言葉を自虐と捉えたのか、ふっと周助が自嘲気味に笑う。

「同じことを源さんも言ってました。まぁ……男だけだからこそ、俺は此処に寄ったんです」

 釣られたように蒼馬も小さく微笑む。

「凛はきっと、これから強くなる。何故かは分かりませんが──そんな気がしたんです。勘ってやつですかね」

 うんうんと一人うなっている凛を見つめる蒼馬の瞳は、この世の何よりも優しい。
 凛が痛くならない程度に、繋がれている手にそっと力を込めた。

「だからこそ、俺の目の届く場所で凛が強くなっていくところを見たい。──周助先生、妹の試衛館への入門を許可してくださいますか」

 蒼馬はまっすぐに周助を射抜く。
 試衛館は男所帯だが、何も女人禁制という訳ではない。
 飯炊きや食事の世話、果てには敷地内の清掃までその仕事は多岐にわたる。

 しかし、この場に集う人間の殆どが男だ。
 そのただ中に幼い妹を入門させるなど、未だかつて無いものだった。

「──凛よ」

 周助は熟考の末、やや迷いつつも凛に声を掛けた。

「……なんでしょう、か」

 びくりと凛の肩が震える。
 もしや会話を聞いていない事がばれてしまったのだろうか。

 周助──天然理心流三代目宗家は、普段は好々爺然としているが、その実勘が鋭い。
 瞳が僅かに揺れ動くさまも、呼吸や言動ひとつとっても、その裏に見える感情を読み取られてしまう。

(どうしよう、謝罪すべき……? でももし違っていたら)

 こちらが恥をかいた方が遥かに良いだろう事は、とうにわかっている。
 しかし、言葉が続かないのだ。
 喉に何かが張り付いてしまったかのように、声が出ない。

「そう怯えるな」

 すっと周助がしゃがみ、凛に目線を合わせる。

「お前の兄様が試衛館に入門させたいと言うが、どうだ? 剣術をやるか?」

 怖がらせないように、だろうか。ゆっくりと川がさざめくように紡がれる言葉は、不思議と晩年の周助を思い起こさせた。
 やまいおかされる間際、一度だけ周助を訪ねた事があった。

『お前は京へ行くのか?』

 浪士組として上京する前、既に床に臥せていた周助から言われたのだ。
 その時と同じ声音、同じ口調で訊ねられた凛の応えはただ一つだった。

「──ます」
「うん?」

 周助がやんわりと首を傾げ、先を促してくる。

「やります、入門させてください」

 気付けばその名の通り、凛とした声で宣言していた。
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