【R-18】凛と咲き誇る花よ、誠の下に咲く華よ ー幕末異聞譚ー

月城雪華

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嘉永六年(1853)、春

鬼との邂逅 伍

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 普段ならば一刻半ほどで終わる稽古は、二刻近く続いた。

「よし、ここまでにするか」

 有楽が二度三度と手を打ち鳴らしたのを合図に、一度目の稽古は終わった。

「後は各々、夜まで好きに過ごしてくれ」
「有難うございました!」

 挨拶をそれぞれ済ませ、座員らは散り散りに稽古場を出ていく。
 中には残る者やその場に寝転がる者もおり、様々だ。

 というのも、鷹城屋が興行を打つ日まで、優にひと月の間がある。

 毎日稽古をしなければ身体が鈍るというのも確かだが、今回は座員それぞれが何度も演じてきた演目だ。
 それは蒼馬とて例外ではなく、鷹城屋の門に入った頃から演じ続けてきたものだった。

「凛、奈津」

 じんわりと額に汗を浮かべ、蒼馬がこちらに向けて歩いてくる。

「お疲れ様です、兄上」

 凛はにこりと微笑した。

「格好良かったです!」
「有難うな、奈津」

 蒼馬が目の前までやってくると奈津は目に見えて喜び、板の間で小さく跳ねた。

「奈津、少し落ち着きなさい」

 雪子はやや呆れた口調で奈津を諌めるが、その声音とは対照的に表情は柔らかい。

 長男が成長している事をこの身で、肌で感じ取るという事は、何にも変え難い宝だろう。

「今日くらいいいでしょう、母上」

 蒼馬がこうして自身の目で家族の笑顔を見る事は、またとない機会だ。
 特に凛以外の身内が稽古場に居る事自体、あまりない事だった。

「さて、稽古も終わった事だし。凛」
「はい?」

 蒼馬から名を呼ばれ、凛は反射的に返事をする。

「俺は先に行ってるから、後から来てくれ」

 言いながら柔らかく微笑し、頭を撫でられる。

(来た……!)

 一体蒼馬が誰に会わせてくれるのか気になってしまい、昨夜はあまり眠れていない。
 稽古を見ている間、過去で何かやり残した事や未練があれば、本来居たはずの蝦夷へは帰れないのかもしれないという考えになりつつあった。

(蝦夷へ戻る前に、兄上が会わせたい方を知ってからでも遅くない)

 凛は此処でもう一度生きるという覚悟を決めていたが、何も本来の場所へ戻る事を諦めたわけではない。
 再度経験した事の全てとはいかずとも、その出来事の内の何かが蝦夷地へ戻ったあと凛に役立つのならば、喜んで知りたいほどだった。

「今からですか?」

 やや弾んだ声で蒼馬に問う。

「ああ。その前に総司を此処に呼んでくるから、それまで待ってて欲しい」
「え、はい?」

 試衛館にほど近い路地で待っていると言っていたが、昨日と言っていたことが遥かに食い違っている。

(路地で待っているから来いと言ったり、沖田さんを呼ぶから待ってろと言ったり……兄上、ご自分が言った言葉を忘れてしまったんですか!?)

「よく考えたら凛が一人で路地まで行くのは心配だし、そこまで母上達と行かせるのも悪いしな。あ、やっぱり一緒に行くか? 俺はそれでも全然、寧ろ歓迎──」

 凛の胸に小さな怒りの熾火が芽生え始めている間に、蒼馬はうんうんと唸りながら凛の周囲で騒いでいる。

(なら面倒な言い方をせず、始めからそう仰ればいいのに……!)

 蒼馬の言っている事は、当たり前ながら凛の耳に入っていない。
幼い頃から少しでも怒り出せば、周りの音など入って来ない人間だった。
 それを蝦夷地へ行くまで注意した者はいない為、凛は自分でも気付けていなかったのだ。

「分かりましたから、早く行ってください!」
「おっ、と」

 今ある渾身の力でぐいぐいと蒼馬の背を押し、外へ出るよう促す。

「はぁ……」

 蒼馬を玄関先まで見送ると僅かに息が上がっており、自分がそれほど興奮していたのだと、今更ながら気付いた。

(少し、落ち着かないと)

 はぁ、と凛はその場で深く息を吐く。
 肺の奥の奥まで空気を吸って吐き出して、何度か繰り返すと身体の芯まで冷静になれる気がした。

「何処へ行くのですか?」

 遅れて着いてきた奈津に声を掛けられた事で、凛は平静を持ち直す。

「試衛館だけれど。奈津も行く?」
「……ごめんなさい、行きません」

 蒼馬の稽古場へ行きたいとしきりに言っていた為、てっきり試衛館にも着いてくるものだと思っていた。

「あ、やっぱり怖いか……兄上の所為ね」

 蒼馬は試衛館での愚痴を、時々奈津にも聞かせている。
 本人に愚痴を聞かせているつもりは一切無く、奈津が話して欲しいとせがんだ結果だろう。
 仮にその予想が合っていたら、一刻も早く止めさせるべきだった。

(無意識に言っているなら、たちが悪いもの。……兄上に限って、そんな事あって欲しくないけれど)

 凛が神妙な顔付きをしたことで怒らせたと思ったのか、慌てて奈津が言葉を紡ぐ。

「そ、そんな! 兄上の所為ではありません!」

 ぶんぶんと首を振り、奈津は涙目になりながら続けた。

「私が弱いだけです。……姉上のように、強くはないので」
「奈津?」

 自分よりも小さな両手をきゅっと握り締め、奈津は微かに震えている。
 その言葉に疑問を抱くと同時に、気付けてしまった。

(もしかして、気にしている……?)

『やはりお前は強いな。蒼馬の言った通りだ』

 それは稽古を見学している途中、有楽に言われた言葉だった。
 初対面ではあるが、有楽は伯父であり身内だ。そんな伯父自らが凛に贈った言葉に、奈津が反応しない訳がない。

 一番に慕っている姉が「強い」と言われるのは誇らしいだろう。
 しかし、蒼馬だけならず有楽からも「強い」という言葉を述べられ、自分には何も無い。
 嬉しく思うと同時に、複雑な心境が奈津の胸を渦巻いているのは確かだった。

「──奈津」

 不意に妹を呼ぶ声が凛の耳に入った。
 見れば、一間ほど先から雪子がこちらの様子を見つめている。

 姉妹だけの会話を邪魔しないよう、小声で呼んでくれる雪子なりの気遣いは有難い。
 そして、つくづく自分の研ぎ澄まされた聴力や気配の敏感さに感謝した。
 奈津が今にも泣き出しそうな状況では、母へ託すしかないだろう。

「母様!」
「っ」

 凛は思いきって雪子を呼んだ。
 奈津は屋敷の奥に背を向けていた為、雪子の気配に気付いていなかった。

「なんです、凛」

 凛が呼ぶのを待っていたとばかりに、雪子がこちらへ歩いて来た。

「この後はどう過ごすのですか?」

 鷹城屋の夜稽古まで、時はたっぷりとある。
 このまま有楽の屋敷に留まるのであればそれでも構わないが、家へ帰るのであれば二人とは一旦別れる事になるだろう。

「そうですね……少し町へ行きましょうか。奈津、何か欲しいものがあれば言いなさい」
「良いのですか!?」

 泣き出しそうだった奈津の表情が見る間に明るくなり、凛は雪子の機転に感謝した。

 ここからほど近くには様々な店がのきつらねており、食べ物は勿論小物屋も多い。
 子供が喜ぶ玩具がんぐだけならず、ただ見るだけでも楽しい為、奈津の機嫌もすぐに直るだろう。

「ええ、今日だけですよ」

 にこりと微笑し、雪子は奈津に目線が合うようしゃがんだ。

「但し、凛や蒼馬、父上には内緒です。この事は母と奈津、二人だけしか知りません。……分かりましたか?」

 凛にも聞こえないよう、こそこそと耳打ちする。
 実際のところ凛には全て聞こえているが、折角雪子が提案したことを無碍にはしたくなかった。
「はい!」

 きらきらと太陽に似た笑顔で、奈津は大きな声を出した。

(良かった、奈津も嬉しそうで)

 そのまま二人は仲良く手を繋ぎ、町へと出掛けて行った。
 暮れ六つには帰る為、それまでに帰っておいでと雪子から言付けられた。

 何度となく口から出そうになったが、凛はれっきとした二十を超えた女人なのだ。
 総司の件もあって失言はもうしないと誓ったが、胸の奥に靄が掛かる。

(……分かっていても言えないことが、こんなにももどかしいなんて)

 世知辛いものだな、と凛はひっそりと溜め息を吐いた。


 ◇ ◇ ◇


 蒼馬が試衛館へ行った時から数えて半刻後に、総司が有楽の屋敷までやってきた。
 その間、凛は有楽の厚意で茶や菓子を供されていた。

 行儀が悪いが、凛は甘い落雁らくがんを口に含んだまま、慌てて玄関先まで出迎える。

「君の兄上さ、僕を犬か飛脚かと思ってない?」

 総司は不機嫌さを隠しもせず、仁王立ちしていた。

「うちの稽古に来たと思ったら始まった途端、『急いで此処まで行け』って言われたんだけど」
「え」

 総司のいつになく苛立った様子は何となく分かるが、蒼馬はそこまで失礼な態度を取ったのか。

(兄上が、沖田さんに……?)

 沖田総司とは、これから十五年の時を共に歩む人間であり、凛や蒼馬にとってなくてはならない存在になる。 
 しかし、これは凛の知る過去を正しく歩いていった時の話だ。

 凛が今居る場所は過去だが、知っている出来事とは僅かな齟齬そごがある。
 今ここで総司を怒らせたり幻滅されたりしては、歩むべき未来が変わる可能性があった。

「あのば……いえ、兄上が?」

 図らずも蒼馬を貶す言葉が口から出そうになったが、咄嗟に言葉尻を切って打ち消す。

「周助先生と近藤さんが来た時にね。まだ近藤さんが話してるのに、こそこそ耳打ちしてきたんだよ。お陰で何を言ってたのか聞きそびれたし……最悪」

 うんざりとした口調で愚痴を吐かれ、凛はその内容以前に申し訳なさで消えて無くなりたくなった。
 総司の肩を持つ訳ではないが、凛ですら使い走りをしようとは思わない。

 自分の私用の為に簡単に使うほど凛は性根が図太くはなかった。
 かといって総司へ借りを作るなど真っ平だ。
 後から何を要求されるのか、凛ですら予想出来ないのだ。

(兄上がまだ試衛館に居たら、一発……いや違う、一言言わなければ)

 物騒な言葉が頭に浮かびかけ、慌てて打ち消す。
 幼い頃は勿論だが、成長するにつれ人は変わるものだなと実感した。

「それでさ、流石に稽古が始まった途端抜ける訳にもいかないし、四半刻くらい稽古してから来たんだ。こんな事凛ちゃんに言うのも悪いけど……正直、蒼馬くんのこと殴りそうになった」

 心から面倒な雰囲気や本音を隠さず言われると、いっそ清々しく感じた。

「……すみません」

 凛は蒼馬がしでかした非礼を詫びる為に頭を下げようとするが、ひと足早く総司の手に阻まれる。

「いい、謝られても何もならないし。君みたいな子供に頭を下げられたら、僕の方が怒られる」

 心底嫌そうな声音で言われ、流石の凛でも恐縮しきってしまう。

(いつ聞いても沖田さんの言葉は刺さる……)

 これが昨日の今日、出会った人間の言葉だろうか。
 厳密に言えば、出会ってから優に十五年以上になるが。

「はぁ……ほら、行くよ」

 目の前に差し出された手に、凛はこてりと首を傾げる。

「何処にですか?」

 まさかその答えが返ってくるとは思わなかったのか、総司が呆れたように溜め息を吐いた。

「あのね、蒼馬くんの話ちゃんと聞いてた? 近藤さんが待ってるんだよ、あんまり待たせちゃ悪いでしょ」
「近藤さん……?」

 有楽の屋敷を出る前、蒼馬が何かを言っていたのは覚えているが、怒り心頭だった凛の耳には入っていない。

「あー、もう! 行けば分かるよ」

 半ば自棄やけになった総司に手を引かれ、凛は有楽の屋敷を出た。
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