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第三幕 酔いの月は標(しるべ)を照らす
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街道沿いにある小さな村の、小さな酒場。
愛想の良い店主と、気のいい客たちの朗らかな笑い声。
そして罵声。
「なんだと、テメェ!」
一人の酔客が、荒々しく席を立った。
無精髭を生やした、五十過ぎのやもめ男だった。農夫のようだが、体格は必要以上にがっしりしている。
「もういっぺん言ってみろ!」
すると同じテーブルで呑んでいた連れの男が、やもめ男を見上げながら、見下げるように鼻を鳴らした。
「何度でも言ってやるよ。この穀潰し」
「誰が穀潰しだ!」
「テメェのケツも拭けねえ。後添えを貰う甲斐性もねえ。立派な穀潰しじゃねえか。オメェのおかげで、トキヤは嫁に行くこともできやしねえ」
「やろう……」
「このまま行かず後家になっちまったら、オメェの責任だぜ」
「いいかげんにしやがれ!」
やもめ男が、連れの男の胸倉を掴んで引き上げた。
たいした膂力だ。
「賑やかな村ね」
端のテーブルで皿をつついていたセカイが、ぽつりと呟いた。
「……こういうのは賑やかとは言いません」
ミランが、呆れた調子で相槌を打つ。
「着いた早々、これか」
酔っ払い同士の喧嘩など、酒場では珍しいことでも何でもない。大都市だろうが、こんな片田舎だろうが、酒に溺れた人間のやることは同じだ。
店主も周りの客も、誰も止めようとしない。溜め息を吐く者はいる。
「巻き込まれないうちに、店を出ましょうか」
ミランは席を立った。だがセカイは、フォークを置こうとしない。
「まだ残ってるわ」
「お土産にでもしてもらいましょう」
「冷えるでしょ」
「……はい」
ミランは諦めて、再び席に着いた。願わくば、喧嘩のとばっちりだけは受けないようにと祈りながら。
激昂したやもめ男が、ついに連れの男を殴り飛ばした。その勢いで、男がジョッキを運んでいた女給とぶつかる。
「きゃ!」
悲鳴とともに、ジョッキが宙を舞った。
それが放物線を描いて、セカイの頭上に飛んでくる。
「危ない!」
ミランが、咄嗟に手を伸ばし、見事ジョッキの取っ手を掴んだ。
だが、口が下になっていた。
「あっ」
パシャリと音を立て、なかの麦酒が、セカイの頭に振り注いだ。
「…………」
髪を、麦酒の雫が伝う。
もちろん、服も料理も麦酒まみれである。
「お…お嬢様……」
セカイは俯いたまま、微動だにしない。
「その……申し訳ありません」
「…………」
女給も客たちも、不穏な空気を感じ取ったのか、固唾を飲んでセカイの様子を注視している。
肝心の酔客二人は、異変に気付かず、とうとう取っ組みあいを始めてしまったが。
「おじょう……うわっ!」
ベルトに差していた四本の竜剣が、にわかに震えだした。
「何だ!?」
慌てて押さえつけにかかる。しかしまるで暴れ馬のように、てんで言うことを聞かない。
「何が起こってる!?」
こんな現象は初めてだ。
「まさか、お嬢様……?」
「…………」
セカイは俯いたまま、微かに震えていた。
その身から、底冷えするような怒気が溢れている。
ありえない……が、他に思い当たる原因がない。
「お嬢様、落ち着いてください!」
「…………」
竜剣が、のたうつように暴れる。
ミランは必死に意識を集中し、竜剣を制御しようと試みた。
一瞬でも気を抜いたら、暴発してしまいそうだ。そうなれば、どんな惨劇が待っていることか。
「お嬢様!」
哀願するように叫ぶ。
「料理はまた注文しますからっ!」
そのときになって、ようやくやもめ男が、周囲の異変に気付いた。
「あれは……うがッ」
その隙を突かれ、連れの男に一発お見舞いされてしまう。
「お父さん!」
そのとき、ハキハキとした娘の声が響き渡った。
「!」
セカイが我に返った。
「わたし……」
どうやら、我に返ったようだ。
暴れていた竜剣が、嘘のように大人しくなった。
胸を撫で下ろすミラン。
「また喧嘩して……いいかげんにしてよね!」
闖入してきた救世主は、やもめ男へ詰め寄っていった。
「ト…トキヤ……」
やもめ男は、ばつが悪そうに目を逸らす。
トキヤと呼ばれた娘が、喧嘩の相手に深々と頭を下げた。
「ほんとにすいませんでした」
「い…いや、別にトキヤが謝らなくても……」
謝られた男の方もまた、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「改めてお詫びに伺います。でもとりあえず今は」
娘は、やもめ男の耳を掴むと、強引に引っ張り上げた。
「このバカを連れて帰ります」
「いてててて……トキヤ、痛ぇよ」
やもめ男が、娘に抵抗もできず連行されていく。
勝手知ったる客たちは、苦笑を浮かべたり、揶揄したりして、二人を見送っている。
その娘に、女給が何か耳打ちして、セカイたちのテーブルを指差した。
「えっ!?」
娘の顔が、たちまち青ざめた。
よく表情が変わる娘だと、ミランは思った。
愛想の良い店主と、気のいい客たちの朗らかな笑い声。
そして罵声。
「なんだと、テメェ!」
一人の酔客が、荒々しく席を立った。
無精髭を生やした、五十過ぎのやもめ男だった。農夫のようだが、体格は必要以上にがっしりしている。
「もういっぺん言ってみろ!」
すると同じテーブルで呑んでいた連れの男が、やもめ男を見上げながら、見下げるように鼻を鳴らした。
「何度でも言ってやるよ。この穀潰し」
「誰が穀潰しだ!」
「テメェのケツも拭けねえ。後添えを貰う甲斐性もねえ。立派な穀潰しじゃねえか。オメェのおかげで、トキヤは嫁に行くこともできやしねえ」
「やろう……」
「このまま行かず後家になっちまったら、オメェの責任だぜ」
「いいかげんにしやがれ!」
やもめ男が、連れの男の胸倉を掴んで引き上げた。
たいした膂力だ。
「賑やかな村ね」
端のテーブルで皿をつついていたセカイが、ぽつりと呟いた。
「……こういうのは賑やかとは言いません」
ミランが、呆れた調子で相槌を打つ。
「着いた早々、これか」
酔っ払い同士の喧嘩など、酒場では珍しいことでも何でもない。大都市だろうが、こんな片田舎だろうが、酒に溺れた人間のやることは同じだ。
店主も周りの客も、誰も止めようとしない。溜め息を吐く者はいる。
「巻き込まれないうちに、店を出ましょうか」
ミランは席を立った。だがセカイは、フォークを置こうとしない。
「まだ残ってるわ」
「お土産にでもしてもらいましょう」
「冷えるでしょ」
「……はい」
ミランは諦めて、再び席に着いた。願わくば、喧嘩のとばっちりだけは受けないようにと祈りながら。
激昂したやもめ男が、ついに連れの男を殴り飛ばした。その勢いで、男がジョッキを運んでいた女給とぶつかる。
「きゃ!」
悲鳴とともに、ジョッキが宙を舞った。
それが放物線を描いて、セカイの頭上に飛んでくる。
「危ない!」
ミランが、咄嗟に手を伸ばし、見事ジョッキの取っ手を掴んだ。
だが、口が下になっていた。
「あっ」
パシャリと音を立て、なかの麦酒が、セカイの頭に振り注いだ。
「…………」
髪を、麦酒の雫が伝う。
もちろん、服も料理も麦酒まみれである。
「お…お嬢様……」
セカイは俯いたまま、微動だにしない。
「その……申し訳ありません」
「…………」
女給も客たちも、不穏な空気を感じ取ったのか、固唾を飲んでセカイの様子を注視している。
肝心の酔客二人は、異変に気付かず、とうとう取っ組みあいを始めてしまったが。
「おじょう……うわっ!」
ベルトに差していた四本の竜剣が、にわかに震えだした。
「何だ!?」
慌てて押さえつけにかかる。しかしまるで暴れ馬のように、てんで言うことを聞かない。
「何が起こってる!?」
こんな現象は初めてだ。
「まさか、お嬢様……?」
「…………」
セカイは俯いたまま、微かに震えていた。
その身から、底冷えするような怒気が溢れている。
ありえない……が、他に思い当たる原因がない。
「お嬢様、落ち着いてください!」
「…………」
竜剣が、のたうつように暴れる。
ミランは必死に意識を集中し、竜剣を制御しようと試みた。
一瞬でも気を抜いたら、暴発してしまいそうだ。そうなれば、どんな惨劇が待っていることか。
「お嬢様!」
哀願するように叫ぶ。
「料理はまた注文しますからっ!」
そのときになって、ようやくやもめ男が、周囲の異変に気付いた。
「あれは……うがッ」
その隙を突かれ、連れの男に一発お見舞いされてしまう。
「お父さん!」
そのとき、ハキハキとした娘の声が響き渡った。
「!」
セカイが我に返った。
「わたし……」
どうやら、我に返ったようだ。
暴れていた竜剣が、嘘のように大人しくなった。
胸を撫で下ろすミラン。
「また喧嘩して……いいかげんにしてよね!」
闖入してきた救世主は、やもめ男へ詰め寄っていった。
「ト…トキヤ……」
やもめ男は、ばつが悪そうに目を逸らす。
トキヤと呼ばれた娘が、喧嘩の相手に深々と頭を下げた。
「ほんとにすいませんでした」
「い…いや、別にトキヤが謝らなくても……」
謝られた男の方もまた、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「改めてお詫びに伺います。でもとりあえず今は」
娘は、やもめ男の耳を掴むと、強引に引っ張り上げた。
「このバカを連れて帰ります」
「いてててて……トキヤ、痛ぇよ」
やもめ男が、娘に抵抗もできず連行されていく。
勝手知ったる客たちは、苦笑を浮かべたり、揶揄したりして、二人を見送っている。
その娘に、女給が何か耳打ちして、セカイたちのテーブルを指差した。
「えっ!?」
娘の顔が、たちまち青ざめた。
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