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第一部 イェルフと心臓
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いくら眠っても疲労が取れない。
当然だろう。いつ追っ手に襲われるかも判らない状況で、安心して眠れるはずがなかった。
夜中、虫や葉擦れの音にさえ驚いて目を覚ますことがある。
こう緊張が続くと、神経が参ってくる。
そのせいか、今朝は特に気分が優れない。嘔吐した日以来、胃に異物感が残っているようで、食欲もなかった。
「スープだけでも飲んでおけ」
ポロノシューは自分の包帯をほどきながら、ウタイの顔も見ずに言った。
「あなた、よく同じスープで飽きないわね」
「飽きたら町にでも寄って、違うものを食うだけだ」
「悪かったわね。わたしのせいでご馳走にもありつけなくて」
ウタイは舌を出すと、諦めて薬草スープを飲んだ。とうとう、朝食にもこいつが顔を出すようになった。
焼き立てのパンやステーキは、当分お預けのようだ。パンはパンでも、ここにあるのは石のように堅い乾パンである。
「あなたも食べなさいよ」
ポロノシューに目をやると、ちょうど腹の包帯を巻き直しているところだった。
滑らかで白い、それでいて蝋の如く艶のない肌は、ひどく不気味だった。左脇腹の刀傷は、まだ塞がっていない。
いつぞやの矢傷は、驚くほど短時間で完治していたのに。やはり、あれは見間違いだったのだろうか。
「その傷、痛そうね」
血は止まっているが、ウタイの目には、思った以上の深手に見える。本人の様子を窺う限り、痛みはなさそうなのだが。
「平気なの?」
おっかなびっくり訊いてみたが、ポロノシューから返答はない。
ばからしくなって、それきり話を打ち切った。シェフご自慢の薬草スープを口に含んで、顔をしかめる。
やがて食事を終えると、ポロノシューがやってきて、
「服を脱げ」
と事もなげに言った。
一応抵抗したが、再度促されて、渋々従った。
男の前に裸体を晒すなど、何度やっても慣れるものではない。
しかもこの男ときたら、無表情に、淡々と、まるで流れ作業のように乙女の肢体をいじってくれやがる。
もちろん何かを『期待』している訳ではないが、これはこれで女としての魅力を否定されているようで癪に障った。
「ねえ、報酬にわたしの体を要求したくせに、どうして何にもしないのよ」
とうとうウタイは、口に出して訊いてしまった。
ちょうどポロノシューが、彼女の腹の傷を診ているところで、思った以上に近くで目が合った。
「何だ。やっぱり何か期待していたのか」
「そ…そんな訳ないでしょ、ばかっ!」
ウタイの頬が、みるみる赤くなる。
「似ているな」
「えっ?」
「何でもない」
脇腹の矢傷に、ポロノシューの手が触れる。
ウタイは呻いた。
「痛むか?」
「少しね」
答えてから、苦笑する。
わたしも素直になったものだ。
「おまえは、人間とイェルフは共存できると思うか」
「はっ?」
突然、ポロノシューが切りだしてきた。
ウタイは二、三度、目をしばたたかせた。質問の意味がすぐには理解できなかった。
遠くの雲間から、光がひと筋だけ地上に降り注いでいる。
「ばかじゃないの?」
しばらくして、ウタイは彼の問いを鼻先で笑い飛ばした。
イェルフ族と人間は、遠い昔から果てしない諍いを繰り返してきた。今更、仲良く手を携えることなどできようはずがない。
「人間にへつらうなんて、イェルフの誇りが許さないわ」
「誇りは、そんなに大切か」
ウタイは舌打ちする。
人間のくせに知ったふうなことを。
「わたしたちは、何があっても誇りを捨てない。それで殺されるんなら本望よ」
「本望と来たか」
「そうよ。そう……」
ウタイは少し言葉を濁した。
だったら、自分の行為は何なのか。イェルフの秘宝を取引材料に使ってしまったわたしは、裏切り者じゃないのか。
でも、どんなに罵られても、仲間を救いたい。イェルフの血を、こんなところで絶やさせる訳にはいかない。
「だいたい、わたしたちは争う気なんてないのよ。でも、人間の方が……」
ウタイの声が、徐々に熱を帯びてくる。
「そっちが襲ってくるんだから、わたしたちも戦うしかないじゃない!」
ついこの前まで、彼女は郷里の山で平和に暮らしていた。両親や友に囲まれて、幸せな日々を送っていた。
この時間が、永久に続くはずだった。
「あなたたち人間が……」
父の顔が、母の温もりが、友の笑みが、彼女の目の前を巡り、去っていく。
追いかけても、追いかけても、彼らは離れていった。
夢のなかで、そんなときは、声を限りに叫ぶことしかできなかった。
「全部、あなたたちのせいじゃない!」
不意に視界がぼやけた。
ウタイは乱暴に目をこすった。人間の前で、みっともない姿は見せたくなかった。
乱れた呼吸を整えていると、昂った感情もしだいに治まってきた。
「イェルフと人間は、どうやっても相容れないものなのよ」
それがイェルフ族としての矜持だ。
「もしそう思わないイェルフが、一人だけいたとしたら」
「えっ?」
「今から二、三百年は昔のことだ」
ポロノシューが、唐突に語りだした。
「いきなりどうしたのよ」
「あるイェルフの娘が、人間の村を覗いてみたくなって、里の言いつけを破り、山を下りてきた」
ポロノシューは、彼女の疑問を無視して、勝手に話を続けた。
ウタイは肩を竦めた。どうやら、聞くしかないらしい。
「だがうっかり村の人間に見つかってしまい、追われているうちに沢に落ち、足を痛めた」
「人間のやることは、いつも同じね」
「そこに一人の男が通りかかった。男は娘を自分の家に連れていき、手当てをした。そして男の取り成しで、娘と村人は、しだいに心を通わせるようになった」
心を通わせるという下りで、ウタイは眉間に皺を寄せた。
「……それで?」
「やがてイェルフの娘と男は恋に落ちた。娘は男との仲を認めてもらうため、里長でもあった父親に許しを請うた」
当然、父親は猛反対した。
しかし娘の意志は固く、粘り強く説得した結果、ついに婚姻の許しを得た。
「ありえない。どうせ作り話でしょ」
「娘は、男と幸せに暮らしていた。イェルフの里と人間の村の間にも、交流が生まれるようになっていた。だが突然、娘が重い病に罹った」
「え……」
「病は重く、薬や呪いも一切効果がなかった。そしてついに、手の施しようがなくなってしまった」
「それって……」
「男は、娘の父親に頼んだ。その里に伝わる薬を……どんな怪我や病も治し、その肉体を不老不死の如く強靭にするという秘薬の処方を教えてほしいと」
ウタイは唾を飲み込んだ。
もはや口を挟むことも忘れていた。
「娘の父親は迷った。その秘薬は、服用した者の魔力を暴走させてしまう恐れがあったからだ。だが、このままむざむざ死なせるよりはと、父親も禁断の秘薬に賭けた」
「…………」
「男は家に帰ると、さっそく秘薬を調合して娘に飲ませた」
「でも、失敗した」
ウタイは思わず呟いた。呟いてから、はっと口に手を当てた。
だって、あの伝説ではそう語られていたから。
ポロノシューの表情に変化はない。
何も。
「娘の魔力は暴走し、魔物と化した。凄まじい力で村人を殺していった。痛みのあまり錯乱したのか、それとも心まで魔に侵されてしまったのか」
気が付くと、娘の周囲には死体が山のように溢れ、男だけが生き残っていた。
娘は、その男にも襲いかかった。
「そのとき、娘が苦しみだした。魔力の暴走に、肉体が付いていけなくなったんだろう。もうすでに虫の息だった。だから男は……」
「…………」
「彼女の心臓に刀を突き刺した」
ウタイは目を背けた。
横目でポロノシューの顔を窺ってみたが、その瞳は、やはりどこを見ているのか判らなかった。
「……それから、その男はどうなったの?」
「例え短い時間でも、イェルフの娘と男は愛しあっていた。それだけの話だ」
語り部は、それきり口を閉ざした。
まだ何かを聞こうとして、ウタイは口を噤んだ。
胸が痛むのは、体の調子が悪いせいだと自分に言い聞かせた。
当然だろう。いつ追っ手に襲われるかも判らない状況で、安心して眠れるはずがなかった。
夜中、虫や葉擦れの音にさえ驚いて目を覚ますことがある。
こう緊張が続くと、神経が参ってくる。
そのせいか、今朝は特に気分が優れない。嘔吐した日以来、胃に異物感が残っているようで、食欲もなかった。
「スープだけでも飲んでおけ」
ポロノシューは自分の包帯をほどきながら、ウタイの顔も見ずに言った。
「あなた、よく同じスープで飽きないわね」
「飽きたら町にでも寄って、違うものを食うだけだ」
「悪かったわね。わたしのせいでご馳走にもありつけなくて」
ウタイは舌を出すと、諦めて薬草スープを飲んだ。とうとう、朝食にもこいつが顔を出すようになった。
焼き立てのパンやステーキは、当分お預けのようだ。パンはパンでも、ここにあるのは石のように堅い乾パンである。
「あなたも食べなさいよ」
ポロノシューに目をやると、ちょうど腹の包帯を巻き直しているところだった。
滑らかで白い、それでいて蝋の如く艶のない肌は、ひどく不気味だった。左脇腹の刀傷は、まだ塞がっていない。
いつぞやの矢傷は、驚くほど短時間で完治していたのに。やはり、あれは見間違いだったのだろうか。
「その傷、痛そうね」
血は止まっているが、ウタイの目には、思った以上の深手に見える。本人の様子を窺う限り、痛みはなさそうなのだが。
「平気なの?」
おっかなびっくり訊いてみたが、ポロノシューから返答はない。
ばからしくなって、それきり話を打ち切った。シェフご自慢の薬草スープを口に含んで、顔をしかめる。
やがて食事を終えると、ポロノシューがやってきて、
「服を脱げ」
と事もなげに言った。
一応抵抗したが、再度促されて、渋々従った。
男の前に裸体を晒すなど、何度やっても慣れるものではない。
しかもこの男ときたら、無表情に、淡々と、まるで流れ作業のように乙女の肢体をいじってくれやがる。
もちろん何かを『期待』している訳ではないが、これはこれで女としての魅力を否定されているようで癪に障った。
「ねえ、報酬にわたしの体を要求したくせに、どうして何にもしないのよ」
とうとうウタイは、口に出して訊いてしまった。
ちょうどポロノシューが、彼女の腹の傷を診ているところで、思った以上に近くで目が合った。
「何だ。やっぱり何か期待していたのか」
「そ…そんな訳ないでしょ、ばかっ!」
ウタイの頬が、みるみる赤くなる。
「似ているな」
「えっ?」
「何でもない」
脇腹の矢傷に、ポロノシューの手が触れる。
ウタイは呻いた。
「痛むか?」
「少しね」
答えてから、苦笑する。
わたしも素直になったものだ。
「おまえは、人間とイェルフは共存できると思うか」
「はっ?」
突然、ポロノシューが切りだしてきた。
ウタイは二、三度、目をしばたたかせた。質問の意味がすぐには理解できなかった。
遠くの雲間から、光がひと筋だけ地上に降り注いでいる。
「ばかじゃないの?」
しばらくして、ウタイは彼の問いを鼻先で笑い飛ばした。
イェルフ族と人間は、遠い昔から果てしない諍いを繰り返してきた。今更、仲良く手を携えることなどできようはずがない。
「人間にへつらうなんて、イェルフの誇りが許さないわ」
「誇りは、そんなに大切か」
ウタイは舌打ちする。
人間のくせに知ったふうなことを。
「わたしたちは、何があっても誇りを捨てない。それで殺されるんなら本望よ」
「本望と来たか」
「そうよ。そう……」
ウタイは少し言葉を濁した。
だったら、自分の行為は何なのか。イェルフの秘宝を取引材料に使ってしまったわたしは、裏切り者じゃないのか。
でも、どんなに罵られても、仲間を救いたい。イェルフの血を、こんなところで絶やさせる訳にはいかない。
「だいたい、わたしたちは争う気なんてないのよ。でも、人間の方が……」
ウタイの声が、徐々に熱を帯びてくる。
「そっちが襲ってくるんだから、わたしたちも戦うしかないじゃない!」
ついこの前まで、彼女は郷里の山で平和に暮らしていた。両親や友に囲まれて、幸せな日々を送っていた。
この時間が、永久に続くはずだった。
「あなたたち人間が……」
父の顔が、母の温もりが、友の笑みが、彼女の目の前を巡り、去っていく。
追いかけても、追いかけても、彼らは離れていった。
夢のなかで、そんなときは、声を限りに叫ぶことしかできなかった。
「全部、あなたたちのせいじゃない!」
不意に視界がぼやけた。
ウタイは乱暴に目をこすった。人間の前で、みっともない姿は見せたくなかった。
乱れた呼吸を整えていると、昂った感情もしだいに治まってきた。
「イェルフと人間は、どうやっても相容れないものなのよ」
それがイェルフ族としての矜持だ。
「もしそう思わないイェルフが、一人だけいたとしたら」
「えっ?」
「今から二、三百年は昔のことだ」
ポロノシューが、唐突に語りだした。
「いきなりどうしたのよ」
「あるイェルフの娘が、人間の村を覗いてみたくなって、里の言いつけを破り、山を下りてきた」
ポロノシューは、彼女の疑問を無視して、勝手に話を続けた。
ウタイは肩を竦めた。どうやら、聞くしかないらしい。
「だがうっかり村の人間に見つかってしまい、追われているうちに沢に落ち、足を痛めた」
「人間のやることは、いつも同じね」
「そこに一人の男が通りかかった。男は娘を自分の家に連れていき、手当てをした。そして男の取り成しで、娘と村人は、しだいに心を通わせるようになった」
心を通わせるという下りで、ウタイは眉間に皺を寄せた。
「……それで?」
「やがてイェルフの娘と男は恋に落ちた。娘は男との仲を認めてもらうため、里長でもあった父親に許しを請うた」
当然、父親は猛反対した。
しかし娘の意志は固く、粘り強く説得した結果、ついに婚姻の許しを得た。
「ありえない。どうせ作り話でしょ」
「娘は、男と幸せに暮らしていた。イェルフの里と人間の村の間にも、交流が生まれるようになっていた。だが突然、娘が重い病に罹った」
「え……」
「病は重く、薬や呪いも一切効果がなかった。そしてついに、手の施しようがなくなってしまった」
「それって……」
「男は、娘の父親に頼んだ。その里に伝わる薬を……どんな怪我や病も治し、その肉体を不老不死の如く強靭にするという秘薬の処方を教えてほしいと」
ウタイは唾を飲み込んだ。
もはや口を挟むことも忘れていた。
「娘の父親は迷った。その秘薬は、服用した者の魔力を暴走させてしまう恐れがあったからだ。だが、このままむざむざ死なせるよりはと、父親も禁断の秘薬に賭けた」
「…………」
「男は家に帰ると、さっそく秘薬を調合して娘に飲ませた」
「でも、失敗した」
ウタイは思わず呟いた。呟いてから、はっと口に手を当てた。
だって、あの伝説ではそう語られていたから。
ポロノシューの表情に変化はない。
何も。
「娘の魔力は暴走し、魔物と化した。凄まじい力で村人を殺していった。痛みのあまり錯乱したのか、それとも心まで魔に侵されてしまったのか」
気が付くと、娘の周囲には死体が山のように溢れ、男だけが生き残っていた。
娘は、その男にも襲いかかった。
「そのとき、娘が苦しみだした。魔力の暴走に、肉体が付いていけなくなったんだろう。もうすでに虫の息だった。だから男は……」
「…………」
「彼女の心臓に刀を突き刺した」
ウタイは目を背けた。
横目でポロノシューの顔を窺ってみたが、その瞳は、やはりどこを見ているのか判らなかった。
「……それから、その男はどうなったの?」
「例え短い時間でも、イェルフの娘と男は愛しあっていた。それだけの話だ」
語り部は、それきり口を閉ざした。
まだ何かを聞こうとして、ウタイは口を噤んだ。
胸が痛むのは、体の調子が悪いせいだと自分に言い聞かせた。
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