灰の瞳のレラ

チゲン

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第41幕

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「なんであのとき、あんたもいっしょに殺しておかなかったのか……今でもずっと後悔してるわ」
 シンシアは憤懣ふんまんやる方ない顔で、レラを睨みつけた。
「でも、私を殺す機会は今まで何度もあったはずです」
 あの日と同じくらいの憎悪に満ちた視線を受けながらも、レラは目を逸らすことなく問いかけた。
「……母様の命令だからに決まってるでしょ」
「それだけですか?」
「もちろんよ。それで充分。いいえ、それが全て」
 シンシアは迷いなき声で言った。
「母様の言うことは絶対よ。逆らうことは許されない。母様の前では、私の意志などゴミも同然」
 それは普段のシンシアの言動を見ていればよく判る。うっかり彼女の前でリヨネッタの悪口でも言おうものなら、その日のうちにスラムのドブ川に浮かぶことになるだろう。
「私の使命は、母様の心を安んじることだけ」
 シンシアはうっとりと夜空を見上げた。そこに浮かぶ月を、まるで母に見立てるかのように。
「母様を苦しめる奴原やつばらは、生きる資格もないのよ」
「だから、お母さんを殺したんですか?」
「あの薄汚い魔女は、母様から父様を奪った。だから死んで当然なのよ」
「うす…ぎたない……?」
「そうよ。どうせお得意の妖しげな薬を使って、父様の心を操って、母様から奪っていったんだわ」
「シンシア姉様。あなたは……」
「そして次はあんたの番。やっとよ、やっとあんたを殺せる日が来たわ。この時を、どれだけ待ち焦がれたことか」
 やはりシンシアも、デイジアと同じように命じられていたようだ。レラの記憶が戻ったら始末しろと。
 彼女には、リヨネッタの言葉があればそれでいいのだ。
「だったら私も」
 レラは短剣を握り直した。
「お母さんの仇を取るだけです」
「やってみなさいな」
 月明かりの下で、月を真っ二つに裂くが如く、二振りの刃が交わる。
 シンシアの剣先が、レラの肌を掠めた。デイジアよりも鋭く力強い太刀筋。いつも以上に鮮やかに冴え渡っている。
 彼女が努力の人であることを、レラはよく知っていた。姉妹の誰よりも、暗殺の腕を磨いてきたのだ。自らの人生をそこに捧げるべく。
 一撃、また一撃。繰りだされる、殺人のための剣。
 全ては母様のため。それがシンシアの強さであり……そしてもろさであることを、レラは感じた。
「もし私が心を取り戻してなかったら、簡単に殺されてたかもしれない」
 シンシアが短剣を振り下ろす。
 身を引いて躱すレラ。すると左から右に、軌道を変えて斬りかかってくる。
 それを短剣の腹で受け止める。腕にしびれが走り、一瞬、レラは顔をしかめた。
「魔女の力とやらは、この程度なの?」
 シンシアが力任せに押してきた。
 不意を突かれて、レラはバランスを崩した。
「しまった!」
 シンシアが袈裟けさ切りに仕掛けてくる。身を捻って躱し、勢いそのままで地面に転がる。髪が数本、切られて飛んだ。
 草むらに倒れ込んだレラの頭上に、刃が光る。再び身を捻る。刃はレラの頬を掠め、すれすれのところで地面に突き刺さった。
 短剣を地面から抜き、再び振り下ろすシンシア。その僅かな隙を突いて、レラは両足を翻し、シンシアの足を払った。
「くっ!」
 今度はシンシアがバランスを崩し、転倒した。
 レラが起き上がりざま、そこに斬りかかっていく。しかし。
「!」
 咄嗟に踏み留まった。
 シンシアが、左手にも短剣を隠し持っていることに気付いたからだ。迂闊に近付いていれば、喉を掻き切られていただろう。
「チッ」
 舌打ちして、シンシアは立ち上がった。
「どうしたの? 封印が解けたって割りには、たいしたことないじゃない」
 挑発的な口調。頬は紅潮し、体も燃え上がらんばかりに熱を発している。
「シンシア姉様……」
 彼女の肢体が、いつもより大きく見えた。
「あんたに姉様と呼ばれる筋合いはないのよ!」
 シンシアが跳躍する。
 右手の短剣と、左手の短剣。交互に、時にフェイントを使い、左右から刺突や斬撃を繰りだしてくる。
「死になさいよ。母様のために。母様のために!」
 右手の短剣一本だけでは避けきれない。レラのドレスが裂け、肌に幾筋もの傷が走った。血の飛沫しぶきに、シンシアが恍惚こうこつとした笑みを浮かべた。
「これが人の心……」
 レラは確かに震えた。
 姉の自分に対する憎しみを、初めて肌で感じていた。
 ヒリヒリする。
 封印が解かれたレラは、ようやく、他人の感情に触れることができたのだ。
「母様のためにぃッ!」
 妄執もうしゅうはここまで人を強くする。
 妄執はここまで人をはかなくする。
 シンシアの美しい顔が歪んでいる。
「姉様!」
 レラが左手を振り上げた。
 その手から、無数の小さな物体が飛び散った。
「!?」
 咄嗟に、シンシアが顔を庇った。
 土だ。先程、転倒した際に掴み取っていたのだ。
 そこに隙が生まれた。彼女はあまりにも、殺すことに夢中になり過ぎていた。
 レラが跳躍し、間合いを詰める。
「はや……!」
 シンシアの胸部に、右肩からタックルを食らわせた。
「ぐッ!」
 シンシアの体が軽々と吹き飛ばされ、背中から大木の幹に激突した。
 ゴッ!
「がはッ!」
 衝撃で、体じゅうの骨と内臓が破砕はさいした。
「あが……」
 けた外れの威力だった。
 息ができない。
「が……」
 体が、力なく、ずり落ちていく。
「なに…が……」
 動けない。
 体がぴくりとも動かない。
「まだ、よ……」
 それでも起き上がろうとして、シンシアは吐血して倒れた。
 折れた肋骨ろっこつが、肺に突き刺さっているようだ。
 意識が朦朧とする。
「こんな、ところで……」
 終わるはずがないのに。
 一瞬で。
 たった一撃で、自分の人生を懸けた業が粉々に打ち砕かれてしまった。
「なによそれ……」
 馬鹿馬鹿しくて、それ以上言葉にならなかった。
 足音。
 シンシアは薄目を開け、近付いてくる死神を睨みつけた。右肩を抑え、哀れむような目で敗者を見下ろす、憎き義妹の顔を。
「……あんたも、肩やられてんじゃない」
 シンシアは声を絞りだした。
「思った以上に、力が入り過ぎてしまいました。しばらく、右手は使えそうにありません」
「いい気味だ、わ……」
 笑おうとしたが、血でむせ返ってしまった。
「これが、魔女のちから……」
 レラの身体能力は、魔力によって格段に向上していた。そんなことが簡単にできてしまうのだ。このとてつもない才能を持った魔女は。
「どうしてあんただけなの……どうして私は、母様の魔力を受け継がなかったの……」
 レラは静かに、かぶりを振った。彼女に判り得るはずもない。
 遠くに人影が見えた。
「!」
 城の衛兵だ。見回りの途中なのだろう。
「た…すけ……」
 襲われているふりをすれば、この危機を打破できるかもしれない。咄嗟にシンシアは、哀れな被害者を装って助けを乞うた。
 しかしその衛兵はすぐに向きを変え、どこかへ歩き去ってしまった。
「すでに目眩ましの結界を張ってあります」
 最後通告のように、レラが言った。
「な……」
「母様のを見様見真似でやってみましたが、うまくできたみたいですね」
 どうりでこれだけ派手な戦闘をしても、誰にも気付かれなかった訳だ。
 お話にならない。初めから負けていたのだ。シンシアはもう、笑うしかなかった。
「ムカ…つくわ。あんた、ほんとうに、ムカつく……」
 まだだ。まだ終わってない。
 シンシアは、最期の力を振り絞って立ち上がった。
「早く、母様のところに、行かないと」
 ふらふらと枯れ木のように揺れながら、一歩を踏みだす。
「今日こそ、復讐ふくしゅうするんだから……」
 もうレラなんて、どうでもいい。大事なことは他にあるじゃないか。
「かあさま」
 愛しい人を呼びながら。
「かあさま」
 尊い人を乞いながら。
「かあ…さま……」
 目の前に、その人が立っていた。シンシアの目には、確かに映っていた。
 だから彼女は、安らぎの笑みを浮かべ、
「か…あ…さま……」
 月光の下に倒れた。
 星が落ちるように。
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