4 / 4
4品目
しおりを挟む
店を出た佐之介は、川のほとりまで行き、人目を忍ぶように腰を下ろした。
いよいよ江戸一番の味を試すときである。味噌汁からは、湯気とともに、得も言われぬ芳香が漂ってきている。
「せっかく七文も出して買ったのだ。すぐに食うのはもったいない」
と、しばらくは匂いだけを楽しんだ。
そろそろ良い頃合と椀に手を伸ばしたが、間際で止まる。
おさよに申し訳ない、という気持ちが強くなってきたのである。
「これは、おさよのためでもあるのだ」
佐之介はそう声に出して、自らを奮い立たせた。
だが、仮におさよにこれを食わせたとして、もし味の善し悪しに気付かなかったとしたら。何しろ、あの秘伝の味噌を美味と感じるほどの舌の持ち主である。
「すると俺はこれから一生、あの味噌汁を食っていかねばならなくなる」
だったら初めから何もしない方がいい。未練が残る。
「いや。月に一度の贅沢ということにしてもよいではないか」
それを支えにしていれば、おさよの味噌汁もきっと我慢できる。
だが、それほど美味い味噌汁を食ってしまっては、却っておさよの作るものを食えなくなってしまうかもしれない。
「やはり食わぬが花か」
椀の中身を川に流そうとして、佐之介は思い留まった。
「いくら何でも捨てるのは惜しい」
高い銭を払い、嘘まで吐いて買ったのだ。
気を落ち着けようと思って、佐之介は味噌汁の入った椀を地べたに置いた。
「それにしても、この椀の見事なものよ」
鮮やかな朱塗りに、黒字で倉持屋の名が書かれている。こんな椀に大事に入れるくらいだから、やはり相当美味に違いない。
「女将の愛想も実によかった」
名も知らぬ浪人風情のわがままを、快く聞いてくれるような女だ。そんな女将がいる店の味噌汁なら、美味くて当然である。
「店の構えも立派なものだった」
あれなら江戸一番という評判も頷ける。
「それに、この豆腐のきめ細かさはどうだ」
上等の味噌汁となると、やはり具も上等なものを使っているようだ。日本橋なら腕のいい豆腐屋も多いだろう。
「すると、こいつを食うと、俺は豆腐も食えなくなってしまうのではないか」
それでは家で食うものがなくなってしまう。
今更ながら、佐之介はここに来たことを後悔し始めた。
「せめておさよが人並みの腕前であれば。いや、俺の稼ぎが少ないのが悪いのだ」
ろくに女房を食わすこともできないくせに、文句ばかり言うのは卑怯ではないか。
「やはりこれは捨ててしまおう」
佐之介は椀を手にして立ち上がった。
しかしいざ中身をぶちまけようとしたが、どうしても勇気が湧いてこない。
「せめてひと口くらいなら」
「いや、やはりおさよを裏切ることになる」
「しかし物は試しという言葉もあるし」
と、一事が万事この調子である。
いつしか日も傾きだしていた。
川べりを一頭の痩せた野良犬が歩いてくる。
「いっそ犬にくれてやるか」
一抹の寂しさを感じながら、佐之介は意を決して、犬の前に椀を置いた。
「さあ食え。江戸一番の味噌汁だ」
しかし野良犬は、ちょっと匂いを嗅いだだけで顔を背け、どこかへ行ってしまった。
「なんと、犬も食わぬというか」
佐之介は驚きのあまり声を荒げた。
慌てて椀を手に取って、中身を口に運ぶ。
「これは」
江戸一番の評判の味噌汁は、冷たくて、味も素っ気もなかった。
「不味い。何という不味さだ」
佐之介は目を、いや舌を疑った。
犬が必ずしも味噌汁を食うとは限らないし、時間が経てば、どんな料理も冷めて不味くなるのは必然であろうに。
「これなら、おさよの味噌汁の方がよっぽど美味い」
佐之介は一気に味噌汁を呷ると、風のように倉持屋へ走った。
そして店に入るなり、
「馳走であった。こんな不味い味噌汁は、生まれて初めて食ったわ」
と大音声で宣った。
これには女将も客も唖然とした。
今まで美味いと喜ばれたことはあったが、こんな晴れやかな笑顔で不味いと言われたのは初めてである。
佐之介は女将に椀を返すと、意気揚々と店を出ていった。
早くおさよの味噌汁が食いたかった。
(完)
いよいよ江戸一番の味を試すときである。味噌汁からは、湯気とともに、得も言われぬ芳香が漂ってきている。
「せっかく七文も出して買ったのだ。すぐに食うのはもったいない」
と、しばらくは匂いだけを楽しんだ。
そろそろ良い頃合と椀に手を伸ばしたが、間際で止まる。
おさよに申し訳ない、という気持ちが強くなってきたのである。
「これは、おさよのためでもあるのだ」
佐之介はそう声に出して、自らを奮い立たせた。
だが、仮におさよにこれを食わせたとして、もし味の善し悪しに気付かなかったとしたら。何しろ、あの秘伝の味噌を美味と感じるほどの舌の持ち主である。
「すると俺はこれから一生、あの味噌汁を食っていかねばならなくなる」
だったら初めから何もしない方がいい。未練が残る。
「いや。月に一度の贅沢ということにしてもよいではないか」
それを支えにしていれば、おさよの味噌汁もきっと我慢できる。
だが、それほど美味い味噌汁を食ってしまっては、却っておさよの作るものを食えなくなってしまうかもしれない。
「やはり食わぬが花か」
椀の中身を川に流そうとして、佐之介は思い留まった。
「いくら何でも捨てるのは惜しい」
高い銭を払い、嘘まで吐いて買ったのだ。
気を落ち着けようと思って、佐之介は味噌汁の入った椀を地べたに置いた。
「それにしても、この椀の見事なものよ」
鮮やかな朱塗りに、黒字で倉持屋の名が書かれている。こんな椀に大事に入れるくらいだから、やはり相当美味に違いない。
「女将の愛想も実によかった」
名も知らぬ浪人風情のわがままを、快く聞いてくれるような女だ。そんな女将がいる店の味噌汁なら、美味くて当然である。
「店の構えも立派なものだった」
あれなら江戸一番という評判も頷ける。
「それに、この豆腐のきめ細かさはどうだ」
上等の味噌汁となると、やはり具も上等なものを使っているようだ。日本橋なら腕のいい豆腐屋も多いだろう。
「すると、こいつを食うと、俺は豆腐も食えなくなってしまうのではないか」
それでは家で食うものがなくなってしまう。
今更ながら、佐之介はここに来たことを後悔し始めた。
「せめておさよが人並みの腕前であれば。いや、俺の稼ぎが少ないのが悪いのだ」
ろくに女房を食わすこともできないくせに、文句ばかり言うのは卑怯ではないか。
「やはりこれは捨ててしまおう」
佐之介は椀を手にして立ち上がった。
しかしいざ中身をぶちまけようとしたが、どうしても勇気が湧いてこない。
「せめてひと口くらいなら」
「いや、やはりおさよを裏切ることになる」
「しかし物は試しという言葉もあるし」
と、一事が万事この調子である。
いつしか日も傾きだしていた。
川べりを一頭の痩せた野良犬が歩いてくる。
「いっそ犬にくれてやるか」
一抹の寂しさを感じながら、佐之介は意を決して、犬の前に椀を置いた。
「さあ食え。江戸一番の味噌汁だ」
しかし野良犬は、ちょっと匂いを嗅いだだけで顔を背け、どこかへ行ってしまった。
「なんと、犬も食わぬというか」
佐之介は驚きのあまり声を荒げた。
慌てて椀を手に取って、中身を口に運ぶ。
「これは」
江戸一番の評判の味噌汁は、冷たくて、味も素っ気もなかった。
「不味い。何という不味さだ」
佐之介は目を、いや舌を疑った。
犬が必ずしも味噌汁を食うとは限らないし、時間が経てば、どんな料理も冷めて不味くなるのは必然であろうに。
「これなら、おさよの味噌汁の方がよっぽど美味い」
佐之介は一気に味噌汁を呷ると、風のように倉持屋へ走った。
そして店に入るなり、
「馳走であった。こんな不味い味噌汁は、生まれて初めて食ったわ」
と大音声で宣った。
これには女将も客も唖然とした。
今まで美味いと喜ばれたことはあったが、こんな晴れやかな笑顔で不味いと言われたのは初めてである。
佐之介は女将に椀を返すと、意気揚々と店を出ていった。
早くおさよの味噌汁が食いたかった。
(完)
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる