馳走であった

チゲン

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 店を出た佐之介は、川のほとりまで行き、人目ひとめを忍ぶように腰を下ろした。
 いよいよ江戸一番の味を試すときである。味噌汁からは、湯気とともに、も言われぬ芳香ほうこうが漂ってきている。
「せっかく七文も出して買ったのだ。すぐに食うのはもったいない」
 と、しばらくは匂いだけを楽しんだ。
 そろそろ良い頃合と椀に手を伸ばしたが、間際で止まる。
 おさよに申し訳ない、という気持ちが強くなってきたのである。
「これは、おさよのためでもあるのだ」
 佐之介はそう声に出して、自らを奮い立たせた。
 だが、仮におさよにこれを食わせたとして、もし味のしに気付かなかったとしたら。何しろ、あの秘伝の味噌を美味と感じるほどの舌の持ち主である。
「すると俺はこれから一生、あの味噌汁を食っていかねばならなくなる」
 だったら初めから何もしない方がいい。未練みれんが残る。
「いや。月に一度の贅沢ぜいたくということにしてもよいではないか」
 それを支えにしていれば、おさよの味噌汁もきっと我慢できる。
 だが、それほど美味い味噌汁を食ってしまっては、かえっておさよの作るものを食えなくなってしまうかもしれない。
「やはり食わぬが花か」
 椀の中身を川に流そうとして、佐之介は思い留まった。
「いくら何でも捨てるのは惜しい」
 高い銭を払い、嘘まで吐いて買ったのだ。
 気を落ち着けようと思って、佐之介は味噌汁の入った椀を地べたに置いた。
「それにしても、この椀の見事なものよ」
 鮮やかな朱塗りに、黒字で倉持屋の名が書かれている。こんな椀に大事に入れるくらいだから、やはり相当美味に違いない。
「女将の愛想も実によかった」
 名も知らぬ浪人風情ふぜいのわがままを、こころよく聞いてくれるような女だ。そんな女将がいる店の味噌汁なら、美味くて当然である。
「店の構えも立派なものだった」
 あれなら江戸一番という評判もうなずける。
「それに、この豆腐のきめ細かさはどうだ」
 上等の味噌汁となると、やはり具も上等なものを使っているようだ。日本橋なら腕のいい豆腐屋も多いだろう。
「すると、こいつを食うと、俺は豆腐も食えなくなってしまうのではないか」
 それでは家で食うものがなくなってしまう。
 今更ながら、佐之介はここに来たことを後悔し始めた。
「せめておさよが人並みの腕前であれば。いや、俺の稼ぎが少ないのが悪いのだ」
 ろくに女房を食わすこともできないくせに、文句ばかり言うのは卑怯ひきょうではないか。
「やはりこれは捨ててしまおう」
 佐之介は椀を手にして立ち上がった。
 しかしいざ中身をぶちまけようとしたが、どうしても勇気が湧いてこない。
「せめてひと口くらいなら」
「いや、やはりおさよを裏切ることになる」
「しかし物は試しという言葉もあるし」
 と、一事いちじ万事ばんじこの調子である。
 いつしか日も傾きだしていた。
 川べりを一頭のせた野良犬が歩いてくる。
「いっそ犬にくれてやるか」
 一抹いちまつの寂しさを感じながら、佐之介は意を決して、犬の前に椀を置いた。
「さあ食え。江戸一番の味噌汁だ」
 しかし野良犬は、ちょっと匂いを嗅いだだけで顔をそむけ、どこかへ行ってしまった。
「なんと、犬も食わぬというか」
 佐之介は驚きのあまり声を荒げた。
 慌てて椀を手に取って、中身を口に運ぶ。
「これは」
 江戸一番の評判の味噌汁は、冷たくて、味も素っ気もなかった。
「不味い。何という不味さだ」
 佐之介は目を、いや舌を疑った。
 犬が必ずしも味噌汁を食うとは限らないし、時間が経てば、どんな料理も冷めて不味くなるのは必然であろうに。
「これなら、おさよの味噌汁の方がよっぽど美味い」
 佐之介は一気に味噌汁をあおると、風のように倉持屋へ走った。
 そして店に入るなり、
馳走ちそうであった。こんな不味い味噌汁は、生まれて初めて食ったわ」
 と大音声だいおんじょうのたまった。
 これには女将も客も唖然あぜんとした。
 今まで美味いと喜ばれたことはあったが、こんな晴れやかな笑顔で不味いと言われたのは初めてである。
 佐之介は女将に椀を返すと、意気いき揚々ようようと店を出ていった。
 早くおさよの味噌汁が食いたかった。

 (完)
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