架空の虹

笹森賢二

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#15 ノスタルジア

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   ──夏の夕暮れ。


「さぁ、君は何を望む?」
 風貌は殆ど変わっていない。短く揃えた髪に、涼しげな、切れ長の目。白いシャツと黒いスカート。少し洒落ている。もう制服ではないのだった。其れでも黄昏の窓辺に立つ其の姿は、あの頃と殆ど変っていないようだった。


 何を望んでいたのか。何も望んじゃいない。時計の針に合わせて自分の居場所を決めれば良い。目が覚めるのは自分の部屋。母と妹と朝食を摂る。父はもう出ていた。朝の活力は乏しい。妹に引き摺られて学校へ向かう。テレビや映画より、今日咲いたばかりの紫陽花を眺めていたかった。
「もぉ、お兄ちゃん聞いてる?」
「ああ、土曜でも日曜でも良いぞ。」
 妹は町にできたばかりの映画館へ行きたいらしい。話題の映画はどうでも良さそうだった。単に行ってみたいのと、資金の都合で俺を誘っているらしい。仲が良いよく言われるが、そうでもない。他愛の無い喧嘩もするし、互いに疎ましく思う事もある。どこにでもいる兄と妹だった。
「あ、でも、彩さんもお兄ちゃんと散歩したいって。」
 妹の、頭の上で結わえた髪が揺れる。梅雨の隙間に射し込んだ日差しに煌めいて見えた。
「散歩なら朝だけで充分だろ。」
「へぇ? 朝っぱらから?」
 子供の様な目が笑う。
「歩くだけなら不純じゃないですー。」
「あはは、そだね。それだと、」
 何故か妹は其処で言葉を切った。
「何だよ?」
「何でもないですー。」
 少し笑って校門を抜けた。昇降口で別れる。学年が違えば使う下駄箱も向かう区画も違う。一年は一階東側。二年はその真上。三年の教室は二階の西側だ。
「あ、お兄ちゃん。」
 階段を上る直前に呼び止められた。
「ん?」
「帰りに調味料だって。ちゃんとレシート貰って来て、だってサ。」
 俺が出た後に気が付いたのだろう。小遣いは未だ残っている。問題は無いだろう。
「ああ。分かった。」
 階段を上る。何がある訳じゃない。少し汚れたようなコンクリートの壁。ワックスを塗った妙な感触の床。踊り場の掲示板には必要な情報と不要な情報が張り出されている。上り切って左に曲がる。知った顔が幾つかあった。簡単な挨拶で済ませる。そのまま歩いて七番目の教室の扉を引く。少し時間が早いから、そう多くない。いつもの四人が談話をしながら手を上げて呉れた。軽く手を上げて返す。窓辺の机に向かい、とりあえず必要な物だけを揃えてバッグを机の脇に掛けた。安っぽい椅子に座って溜め息を吐く。
 此れで少しばかり休める。
「相変わらずだねぇ?」
 しかめっ面を向けてやる。遠野彩は今日も開け放した窓から滑り込む風を浴びていた。こいつと俺の関係は良く分からない。恋人ではない。友人と呼ぶには互いを何も知らないし、級友にしては知り過ぎている。
「まぁ、俺だし。」
「くくく。そうだねぇ?」
 子供のように笑って窓を閉めた。冷房が入る時間になったようだ。いつもの四人は一時限目の支度を始めた。何人か勤勉な生徒が入って来た。不真面目な癖に朝が早い奴はいつもの四人に合流した。喧騒が始まれば居場所を考える必要もなくなる。埋もれていれば良い。
「ところでなんだがね。」
「ああ、妹に聞いた。どっちかは妹と映画に行くから、早めに決めて呉れ。」
「そうかい。」
 教室は大体埋まったようだった。今日も酷い寝癖の教員が頭を掻きながら入って来た。そろそろ後ろの扉が開く。パンを咥えた金髪が入って来る。
「倉敷ー、おせーぞ。」
「はい! 寝坊しました!」
「ぁー、遅刻じゃねぇから良いけど、もうちょっと早く来いな。あと、何か飲まないと詰まるぞ?」
 気の弱そうな委員長が水筒を渡す。金髪が盛大に中身を飲んで声を上げた。さぁ、今日も一日が始まる。


 午前は滞りなく終わった。何故か英語の時間に狙い撃ちされたが、五勝一敗くらいか。まぁまぁだろう。昼はだらだらと過ぎる。食堂で食う奴、自分の気に入った場所で食う奴、面倒だから教室で済ませる奴。各々愉しんでいるようだ。
「いやぁ、見事に返り討ちだったね。」
 何故か彩は俺の目の前に居る。態々机を合わせて自分で作っているらしい弁当を食べていた。
「恨み買った気はねぇんだけどな。」
「くくくっ、でも、君の訳は面白いからねぇ、分からなくもないよ。」
 面白いと言われても良い気分じゃない。渡されたツールを使っているだけだ。
「流石は文士様、かねぇ?」
「所詮三文文士だうるせぇな。」
 文字を書くのは嫌いじゃない。だから国語系も英語も好きだ。複雑な計算も嫌いではないが、得手でもなかった。理数系の点数は低いが、まぁ、及第点だろう。
「わ、渡部!」
 突然金髪が突っ込んで来た。渡部紘一。変な、俺の名前だ。
「どした倉敷。」
「英語おせーて。やべぇ。」
 事情を聞けば家だと弟妹のちょっかいが煩くて集中できないらしい。見た目も素行も悪いが、家族は大切らしい。
「んじゃ部活終わった後来れるか? 無理なら簡単にしか教えられんけど。」
「渡部は完全下校まで居るんだっけ?」
「ああ。部室に居るから来たら教える。」
「わりぃな。頼むわ。」
 金髪はカラカラと笑いながら席に戻った。バスケ部だったか。まぁ、どうでも良いか。彩が妙な顔で笑っていた。
「何だよ?」
「いやぁ? 君は誰にも優しいし、誰とでも仲良くなるんだねぇ? 羨ましいよ。妬けもするかなぁ?」
「何だそれ。」
 母が作って呉れた弁当をかき込み、妹が淹れて呉れたお茶を飲む。馬鹿な話し相手も少なくない。悪くはないだろう。
「あ、お茶頂戴。」
「はいはい。」
 昼はだらだらと過ぎる。談話に興じる奴ら。居眠りをする奴。読書に耽る奴。慌てて五時限目の準備をする奴。俺は、妹のお茶を飲みながら彩と談笑した。


 現代文学研究愛好会。夏が過ぎるまでに俺以外に五人の会員が居なければ消滅する。が、最早どうでも良い。九月の二十日に俺は引退だ。
「勿体ないと思うがねぇ?」
 彩は会員でもないのに入り浸っている。まぁ、今更会員になったところで何も変わらないか。
「この本達は如何なるんだい?」
 複数の本棚には俺や自称顧問が買い揃えた本や、名ばかりの、ただ作っただけの会報が収まっている。初年度は俺を含めた複数の書き手が居た。時が経つ度に減っていった。五月に出した会報は殆ど俺一人で書いた。九月に出す冊子が最後だろう。
「さぁ? 図書館にでも入れて貰えるんじゃないか?」
「会報も?」
「其れは焼却だろう。置く意味も無い。」
「そんな事は無い!」
 大きな音がして、驚いた。彩が机を叩いたらしい。
「どうした?」
「君や先人が生きた証じゃないか! 意味なら其れで十分だ!」
 少し笑う。彩には其れが気に食わない。知っている。けれど、どうしようもない。終わる物は終わる。時計は右にしか回らないのだ。
「まぁ、君に言っても仕方が無いか。そう云う人間だもんな。」
「よく分かってるじゃないか。」
「けれど、」
 彩は収められた会報の背を撫でた。
「本当に。」
「ああ、交渉はしてるよ。スペースがあるかは知らん。」
「そうかい。」
 そして、その少女は窓辺に立った。黄昏の陽が射している。黒髪が見事だと思えた。それよりも。世界の全てを山吹の色に染めた陽が、嗚呼、美しいと思っていた。
「どうかしたのかい?」
 足を出して、手を伸ばせば触れられる。そんな距離だった。できると思った。けれど、体は動かない。この風景は、永遠に風景であって欲しいと願った。
「くくく、欲が無いなぁ、私は、良いよ? 相手が君ならば、だけれど。」
 扉が開いた。金髪が居た。
「よぉ、部活は終わったのか?」
「ああ、頼むよ。」
 素直な奴だ。彩は呆れて荷物の整理を始めた。
「邪魔したか?」
「いや?」
 残っている時間は少ない。要点を纏めて、伝える。時折彩が横槍を入れて呉れた。喧騒が終わる。また、居場所を探さなくては。完全下校まで三十秒だけ残して校門を抜けた。金髪は家へ向かった。彩とは暫く同じ方向だ。
「ねぇ、君?」
「ん?」
「最近、余り書いて居ないようだね。」
「ああ。」
 書いていないのではない。書けないのだった。俺なんかが書く物語より、彩や、妹、あの金髪もいつもの四人もそうか。まるで素晴らしいものに思えた。そう思えてしまえば、何も書く事なんざ無い。
「君は其れで良いのかい?」
「さぁ?」
 石ころを蹴飛ばした。車道を抜けて斜面のブロックを転がって、波紋も残さずに水面の奥に消えて行った。
「君の望みは?」
 何も望んじゃいない。昨日と今日が繋がり、明日が来れば構わない。声には出せなかった。彩は酷く不機嫌そうな顔をしていた。
「ほら、彩はそっちだろ。じゃあな。また明日。」
「ふむ、そうだね、また明日。」
 彩と別れて近所のスーパーへ向かった。調味料、な。母は何時も正確な情報を寄越さない。考えろと言っているのか、好きな物を揃えろと言っているのかは分からない。確か酢が切れそうだった筈だ。後は何だろう。そろそろ辛い物も食べたくなるか。適当に買ってしまおう。肉の類は冷凍した在庫がある筈だ。赤身の魚が安かった。弁当に入れて貰おう。
 買い物を済ませて家路を辿れば薄暗くなっていた。少し時間を掛け過ぎたか。
「やぁ。」
 家の近く、川辺の、転落防止の柵に背を当てる彩が居た。
「何ほっつき歩いてんだ?」
「君も同じだろう? 私は一度家に帰ったよ。」
 成程、私服姿になっている。何か言葉が明瞭じゃないと思ったら棒付きの飴を舐めていたらしい。口から出して、俺に向けている。
「さよかい。」
 適当な言葉で応える。
「冷たいなぁ。折角心配していると云うのに。」
「心配する事もないだろ。俺は俺だよ。適当にやって行くサ。」
 目の前に飴が差し出された。
「何だよ?」
「脳が疲れた時には糖分を摂ると良い。私は何も気にしないから、ほら、お食べよ。」
 理解できなければ振り払えた。まるで困ったように笑う俺と、まるで呆れたように笑う彩と、止まったような風景の中に無邪気な声が響く。
「あ、彩さんこんばんはー。と、お兄ちゃん、遅いからお母さん怒ってるよ?」
「ふふ。今晩は。だ、そうだよ。早く帰ってあげ給え。いやぁ、君は幸せだねぇ? 皆に心配されている。」
「うっせぇ。」
 妹の手を引いて歩く。彩は溜め息を吐きながら帰ったようだった。家に帰ると十分ほど言葉の速射砲を食らった。言い返す程に量が増えるから黙っていた。それから飯を食って部屋に戻って予習と復習と宿題を済ませた。父親は今日も遅くに帰って来た。倉敷と委員長とあの四人からメールが来た。適当に返せば今日も終わる。
 シャワーを済ませてベッドに倒れ込む。
 彩が言っているのは尤もな事だ。俺は何処に居る? 俺は何処に居たい? 俺は何を望む? 俺の望みは? それも長く続かない。暗闇の底へ引き摺られるように眠った。


 そう、だから夢の中で、その少女は開け放した窓枠に手を添えて俺を見ている。そして、言う。何度も、何度でも。


 日々はまるで同じように巡る。木曜から金曜なら尚の事か? 支度は有っても変化は無い。気分が多少違っても大した事じゃない。いつもの四人は何時も通り帰路についた。金髪はどうやら忙しいらしい。妹も友人と買い物らしい。ついでに家のも済ませるらしいから、俺は暇だった。現代文学の研究なんざしちゃいない。好きな本を読み漁って、好きな文字を並べるだけだ。
「今日は随分と調子が良いようだね?」
 コトリ、と、ブラックの缶コーヒーが机に置かれた。彩は何だか困ったように笑っている。
「ああ。」
 曖昧に答えたのは、余裕がないからだ。日々を貪り、本を読み漁って得たイメージには期限がある。一度手から零れてしまえば、拾い集めるのは難しい。
「そんなに慌てても、良くはならないと思うがね。」
「普通の奴ならな。」
 髪を掻き毟って、一滴も零さないように書き付けて行く。だから、彩は窓辺に背を当てて、呆れたような顔で俺を見下ろした。構わない。結局、俺はウスバカゲロウの顎先でもがく蟻でしかない。
「全く、困ったもんだねぇ?」
 彩が窓を開けた。外は雨らしい。湿気と半端な温度の空気が流れ込んで来る。
「君は知っている筈だ。私は兎も角、聡明な妹さんと、気の良い友人に囲まれている。」
 原稿用紙から外れたボールペンが一度宙に円を描いた。彩の表情は、見れたものでは無かった。
「なのに君はいつも苦しげだねぇ? ねぇ? 何が不満なんだい? と、訊くのも野暮か。」
 一度降りしきる雨を眺めた。そして、彩は俺の目の底を睨んだ。
「君は何を望む?」
 柔らかく胸に手を当てられたような、深く何かが刺さった様な、奇妙な心地にさせられた。


それから長く長く、それでも日々は単調に過ぎた。この前に偶々飲みに行けた四人組はそれぞれに家庭を持ったらしい。金髪は染めるのを止めて、今は人の髪を整え、染めているらしい。大学へ行った妹は恋愛だけが上手くいかないらしい。俺の所為だと言うが、皆目見当もつかない。
俺はと言えば、どうにもならなかった。縁はあった。父子とも兄弟とも親類とも友人とも言えないような連中とつるんで金を稼ぎながら、空いた時間で小説を書いている。何とか実家を出るぐらいの稼ぎはあった。
そうして。
「さて、今日も終わってしまうねぇ? くくく。君、何を望む?」
 今日も雨の窓辺には彩が居た。何もかにも無い。今日は終わり明日に変わる。僅かな懐古と感情があるだけだ。あの頃と同じように原稿用紙に文字を書き付ける。少しは変わったか。吊り下げたホワイトボードにはプロットを書き付けたコピー用紙が磁石で貼り付けられている。同じく小さなコルクボードには必要な買い物のメモと、仕事の予定が貼ってある。
「おや、お酒とボールペンは急用だねぇ? 買って来てあげるよ。」
 種類は問わないのだった。彩なら知っているだろうし、彩が買って来たものなら文句は言わない。
「ねぇ、君?」
「買い物くらいできる。また窓辺にでも立って呉れ。」
 気配に気付いて顔を上げる。唇が触れていた。ほら、またそんな事をするとイメージが零れてしまう。俺は変な顔で笑ったんだろう。彩は何時ものように笑って背を向けた。
 
 


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