虚構の幻影

笹森賢二

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#03 夜景散策

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    ──仄かな光の中で。


 長い梅雨が終わった。白昼の熱はいよいよ真夏の其れに成り、蔓延る湿気は陽が沈んでも尚辺りに残る。朝まで緩やかに冷えて行く空気は其れを霧に変えるだろうか。どちらでも良いか。何れ今宵も更けて行く。


 エントランスの階段を上る。大きなガラスの引き戸がある。左手には上層へ向かう階段とこの階それぞれの部屋のポスト。駐車場へ抜ける下りの階段もある。右手側にはエレベーターがあり、先の廊下に部屋の扉が並んでる。暗くなると自動で照明が点くようだが、節電の為か一つ置きに点いている。今日も同じ、平穏な夜の風景だ。未だそこまで遅い時間ではないが足音は小さくする。面倒は少ない方が良い。扉の開閉も気を使う。適当に閉めると意外と大きな音がする。漸く部屋に入り、ソファに体を落ち付ける。それも長い時間はできない。夕飯を済ませてシャワーを浴びると煙草が吸いたくなった。できるだけ部屋を汚さないように喫煙は外でする事にしている。適当な服を引っかけて外へ出た。廊下でも良いのだろうが散歩がてら駐車場まで出る事にした。長い廊下はボイラーや食器の触れあう音、食事の匂いと賑やかだった。前方はエントランスの大きなガラス戸。照明の所為か反射が良く見える。間抜け面で歩く自分は余り見たくないが、仕方がない。思わず振り返った。誰も居ない。視線を戻す。ガラス戸の間抜け面の後ろに女が映っている。足は動いて居ないし頭の位置も変わっていないが、確実に近付いている。走り出した。駐車場へ降りる階段を駆け降りた。ガラス戸が開く音が聞こえた。そのまま閉まる音も聞いた。震える手で煙草に火を点けた。あの女はどこから来てどこへ向かったのか。何にせよ、この時間に煙草を吸いに出るのは止めよう。


 住宅地の真ん中を流れる川。幾つかの橋で住宅地を繋いでいる。その一つ。月の無い晩に通りかかると女が居た。欄干に手を置いて川を見ている。足音で気付いたのかこっちを見た。
「今晩は。」
 知らない女だ。会釈と小さな声を返した。
「私、ここから飛んだんです。」
 女の青白い顔と川を交互に見る。高さは左程なく、水量もそう多くない。性質の悪い冗談だろうか。
「大雨で、増水した夜に。」
 もう一度川を見て、視線を戻すと女は消えていた。赤い靴が一組、揃えて置かれていた。


 いい加減に歩き疲れた。久しぶりに集まった旧友達と近所で焼肉を食べた。多少酒も入ったが大した量ではなかった筈だ。明日仕事の奴も多かったから早目の解散になった。一人で呑み屋に入っても良かったが、俺も真っ直ぐ帰る事にした。十分も歩けば塒に辿り着く、筈だった。大きな道を渡り、住宅地に入る。狭い道を右に曲がる。少し行って左。百円自販機と公園を通り抜ければT字路に当たる。それを右に入れば我が安アパートが見える、筈だった。そこにあったのは見知らぬ風景。振り返ると最初の大きな道、また振り返ると住宅地の入り口。思ったより酔っているのだろうか。もう一度同じ道順を辿る。T字路の先には、また見知らぬ風景。振り返る。また大通りを渡ったところ。そこに一人の男が立っていた。
「今晩は。」
 男は黒いスーツを着ていた。左手に杖を持ち、右手で黒い丸帽子を取って頭を下げた。街灯の光の中、柔らかな表情をしている。会釈を返した。奇妙な感覚に囚われ、踵を返した。
「月の無い夜は、お気を付けて。」
 足を速める。道を変えても最後はあのT字路だ。先に左を見た。あの男が立っていた。
 もう何週目だろう。何度繰り返しても結局あの男の前に出てしまう。振り返れば大通りに戻される。
「いい加減に諦めては如何でしょう?」
 いつの間にか男の杖が巨大な鎌に変わっていた。柔らかいと思っていた表情が消えている。
「今宵、貴方様の魂を頂きに上がりました。」
 俺は訳も分からず走った。何度も何度も同じ道を繰り返し走った。辺りが徐々に暗くなって行く。不意に何かが裂けるような音を聞いた。背中に熱と激しい痛みを感じた。前に押し出された様な体勢を整える間もなく俺の体は闇の中に転がった。


 宿題は終わった。予習は残っている。大した量ではないが、予習ありきの授業と言うのもどうなんだろう。そう思うとやる気が削げる。明日の朝か、学校で授業中やら休み時間に誤魔化せば良いか。ベッドに飛び込んでスマホを眺める。皆忙しいのか数件のメッセージがあるだけだった。返信をしようと指を伸ばすと画面いっぱいに女の顔が映った。ウイルスかと思ったが、違った。呆れたような、窘めるような顔は、去年死んだ姉の顔だ。


 今夜の電車も後数本。人は疎らで急いでいるような人も居ない。もう諦めた奴と、余裕のある奴らばかりだ。安っぽいベンチに座って冷たい缶コーヒーを飲む。湿気はまだ残っているが気温は少しばかり下がったようだ。飲み終えた缶をゴミ箱に放り、喫煙所へ向かうと電車が停まっていた。時刻表の発車時刻まではまだ間がある。連結か何かかと思いながらホームの端にある喫煙所に向かった。何人かは乗り込んだようだ。煙草に火を点け、ぼんやりと電車を見ていると扉が閉まり、妙に静かに動き出した。まぁ、良いか。十分後に一本、その後にも最終電車が来る。俺は相変わらず静かに滑り出して行く「きさらぎ駅」行きの電車を見送った。


 すっかり開け放ったカーテン。硝子戸の向こうは白み始めていた。君は其れを背にフローリングの床に座る俺を見下ろして居る。口元には怪しげな微笑。瞳は仄かに赤い。俺は首に巻いたタオルを引き剥がす様に外した。
「残念だなぁ、また今夜、だね。」
 
 
 鬱陶しい昼の陽射しがやっと消えた。少しだけ涼しくなった。月は見えないが、街灯が並んでいるから歩道が暗いとは思わなかった。住宅地、歩道、車道、どこも静かで近くを流れる川の水音も聞こえそうだ。俺は酒と食料を詰め込んだ袋を下げて歩く。明日から連休だ。偶の休みだ。だらけてしまおう。その支度だった。
 風が動いた。涼しくて気持ち良い。歩いている間に汗をかいていたらしく、冷たいとさえ思えた。歩道と車道を分けるように植えられた並木が音を立てた。昼ならがさがさと煩いと思ったのだろうが、今はさらさらと涼しげだ。タイルを敷き詰めた歩道を歩く。もうすぐだ。あと一つ交差点を越えれば塒にしている集合住宅がある。そこで気が付いた。交差点に誰かが立っている。涼しくなったから散歩に出た、というような雰囲気ではない。長い髪に白か、薄い色の付いた長いワンピース。恐らく女性だろう。物騒な話のない地域だが、流石に一人で出歩く時間ではない。異様な雰囲気はそれだけではない。彼女は横断歩道を指差して立って居た。歩行者用要の信号は青だ。その場に居る必要は無い。さっさと渡れば良い。妙な奴だ。そう思いながら横をすり抜けようとすると目が合った。やたら白い肌をしているが、美人ではあった。
「こんばんは、あの、少し良いですか?」
 彼女が言った。新手のナンパか? そんな女には見えないが、俺にだって下心はある。足を止めてしまった。
「こんばんは、何でしょう?」
 友人に呼ばれて道に迷って、スマホも電源切れ、なんて事もあるだろう。
「実は私、」
 女の手が伸びて来た。抱きつくように首に腕を回される。一瞬息が止まった。白い、美しい顔があるが、その前髪の向こう、額からは血が流れていた。
「ここで死んだの。貴方も一緒に、ね? 良いでしょう?」
 腕を掴まれた。到底女性とは思えない強さで振り回されるように横断歩道に引き摺り込まれた。ヘッドライトが近付いて来る。クラクションの音が響く。
「さぁ、行きましょう。」
 そして俺の体は鈍い音と共に跳ね飛ばされた。


「よぉ、生きてたか。」
 真っ白な病室。友人が手ぶらで見舞いに来てくれた。
「何とかな。」
「連休前夜に事故に遭うとは相変わらず面白い奴だな。」
「うるせぇよ。」
 左足と右手は単純骨折。肋骨は二本ヒビが入ったが、とりあえず命だけは助かった。
「そいや、お前あの話知らなかったのか?」
「何の話だよ。」
 友人は少し考え込むような顔をした。
「女にやられたろ?」
「何で知ってんだ?」
 今度は残念そうな顔をされた。
「ここらじゃ有名な話なんだよ。お前引っ越したばかりだもんな。あの時間のあの交差点はかなりやべーんだよ。」
 何でも十数年前に事故死した女性がいるらしく、余程恨んでいるのか、未練でもあるのか、出るそうだ。
「性格悪い奴だな。運転手狙えっての。」
「ま、そうだな。ああ、後もう二度とあの道使わない方が良いぞ。」
「何でだ?」
「一回も見ない奴は一回も見ないんだが、一度でも見た奴は何も狙われるらしい。」
 そんな到底見舞いに来た奴がしないような話を残して友人は去って行った。怪我人怖がらせて何が楽しいのだろう。奴も相当に良い性格をしている。冗談じゃない。できる事もないし、不貞寝でも決め込もうとしているとまた来客があった。赤い花束を持っている。白いワンピースの女性だった。運転手か、その家族が見舞いに来てくれたのだろうか。被っていた白い帽子を外すと、真っ白な肌の顔があった。俺はこいつを知っている。知っているどころの話ではない。女はゆっくりと近付いて、サイドテーブルに花束を置いた。
「今度こそ、一緒に逝きましょう。」
 
 

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