虚構の幻影

笹森賢二

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#06 水

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   ──形も音も。



 不思議な女だった。長い黒髪を首の後ろ辺りで縛っている。眼鏡をかけている垂れ目の童顔。口元には柔らかな笑みを浮かべている。そんな奴が黒いロングコートを着て、銜え煙草で隣を歩いている。
「水と言うのはですねぇ、器に合わせて形を変える物ですよねぇ?」
 まるで少女の様な声だった。
「私は人の内面もそうだと思うんですよ。」
 見た目が内面にも影響すると言う事だろうか。
「そうとも言えますが、其れだと見た目と性格が合わない人の説明がつきません。」
 そいつは妙に愉しげに微笑み、俺にも煙草を勧めて来た。銜えて火を点ける。煙は風に乗って並ぶ石の隙間を擦り抜けて流れて行く。
「見た目、以外にも入れ物があると思うんですよねぇ。」
 吸い終わったらしい煙草を携帯灰皿に入れて、また次の煙草に火を点けた。
「其れが変わるから内面も変わる。それ自体が、と言えるかも知れませんが。」
 女は煙を吐き出しながら歩き続ける。
「外的か内的か、其れが変わるから性格や行動理念や思考の方向が変わる。と私は思うんですよねぇ。」
 女が足を止めた。風が黒髪を浮かせた。
「例えば、身近な人間の死、とか。」
 何が言いたいのだろう。
「普通の人は其れを真っ直ぐに受け止めないんですよ。思い出と云う名前を付けた箱に入れてしまうか、いっそ忘却してしまうか。」
 いよいよ何を言いたいのか分からない。女は眼鏡を直しながら女は続ける。
「少し違いますかね。真っ直ぐに受け止められる人も居るでしょうが、大抵の人は真っ直ぐに受け止めたら折れてしまうんです。」
 軽い頭痛と目眩を感じた。
「耐えられる人でも、何度も繰り返せば何処かしら壊れてしまうんです。」
 女の吐く煙が漂って来た。
「入れ物が壊れてしまえば、水は零れてしまいます。」
 黒い手袋を填めた女の指が、墓石の隣にある碑に刻まれた戒名と享年の一行を上から下までなぞった。
「ここで眠る貴方のように。」

 随分と灰の長い煙草が落ちていた。途中まで吸って止めたようだ。芳野は墓石の前にしゃがみ込み、手を合わせて何かぶつぶつ呟いている。どうやら仕上げをしているらしい。落ちていた煙草を携帯灰皿に入れ、俺も一服済ませる間にその仕上げも終わったらしい。
「ああ、八坂さん来て下さったんですか。丁度終わった所ですよ。」
 立ち上がって振り返った芳野はずれた眼鏡や風に乱れた前髪を直す前に煙草を銜えて火を点けた。満足げに煙を吐き、それから漸く髪を直した芳野に封筒を差し出す。
「いやぁ、何時も悪いですねぇ。」
「で?」
 一応詳細を書類に纏めなければならない。
「どうも死に慣れ過ぎて、御自分が亡くなった事に気付いて無かったみたいですねぇ。けれど、意識は明瞭に残って居たようでしたので。貴方は此処に居ますよ、けれど、もう亡くなって居ますよ。ってお教えしたら納得して頂けたみたいです。」
「成程。」
 幼少からの経緯と、母の自殺、恋人の事故死、そのままぼんやりと自殺して、死んだ事に気が付かなかった、か。
「さって、今夜一杯如何です? 奢りますよ。」
 妙な女だ。まるで少女のような顔と体をしているが、身に付けている物は奇怪で煙草を銜えて酒を呑む。そして、霊を払う。今回は説得で済んだようだが、場合によっては強硬手段も平気で使う。
「書類作りが間に合えばな。」
 俺の仕事はどちらかと言えば人間の調査だが、偶に入って来るこれ系の仕事は全て芳野に回す。
「つれないですねぇ、先輩の依頼は全部受けてるのに。」
「それとこれとは話が別だ。俺にだって仕事があるんだよ。」
 丁度煙草が吸い終わった。また二人で火を点けて、墓場を後にした。
(了・水)


 狭い部屋でキーボードを叩いているだけでは大した運動にならないらしく、寒い。世間は立春だ恵方巻きだと騒いでいたが、俺にはどうでも良い話だ。兎に角寒い。一応エアコンはあるが、節電、と言うよりも予算の関係上昼間は動かせない。太陽だけが頼りだが、予報には無かった雲が邪魔をして薄く差し込むだけだった。寒い理由はもう一つあった。部屋の隅、真っ白な壁に背を当てて座る少女が居る。そいつが人間だったら寒い方向も違ったのだろうが、どうやら違うらしい。気紛れな雲が雪を吐き出す瞬間にだけ見える。近付けば消えてしまう。いつもの幻視だろう。そう思い込むにしては余りにもはっきりとしている。ボロアパートの一室、もうその類は幾つも見たし、幻聴も多い。そういう部屋なんだろう。もうすっかり慣れてしまった。いつもと違うのはその鮮明さと、表情だった。普段なら膝から下だけとか、黒い影とか、足音ぐらいのものなのだが、そいつは夏物の白いワンピースを着た少女だとはっきり判った。音は出さずに、ただ座ってこっちに向かって微笑みかけている。何を伝える訳でもなくただ微笑んでいる。いよいよ俺の幻視も向こう側まで見えるようになったのか、等と馬鹿な考えが浮かぶ程だった。
 ふいに雲が途切れた。雪も止んだ。少女の姿が消える。瞬間、背中から首筋まで悪寒、と言うより冷たい何かが張り付いた。肩越しに真っ白な腕が伸びて来る。そして、恐らくその少女が言った。
「まだ連れて行かないから大丈夫だよ。」
 また雲が空を覆う。少女が白い壁の前に座って微笑みかける。まだ、と言ったか。イヤホンをして音楽を聴いていたのに、はっきりとそう聞こえた。部屋の温度が一層下がったような気がする。俺は、一体いつまで無事で居られるだろう。
(了・真昼の雪)
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