虚構の砂塵

笹森賢二

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#08 ref.

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   ──参照先不明。



 僕の体は地に沈んでゆく。君は木の葉のように螺旋を描きながら空へと落ちてゆく。雨が、雪が、花びらが、枝葉、木々が、家が、街が空へ落ちてゆく。手を伸ばす君が何かを言った気がする。僕は固い地面に飲み込まれながら、その声を──。


 地下深く沈み込み、息を殺して居た何かが集まって来る。其れは様々の感情と色になって漆黒の水面に溜まり、やがて地上へと昇って行く。其の先には円形の光、出口が在る。僕も堅い壁面に爪を立てて見るが、登れる気はし無かった。そもそも登る気も無いのだろう。そんな僕等気にも留めず、彼らは昇って行く。あの光の先で何をするのだろう。あの醜悪な人の生活に溶け込む? 其れとも、指先でさえ触れずに次へ向かう? 其れとも、考えかけて止めた。余りにも下ら無い。あの光に先にも僕の居場所等無いだろう。だから、僕は今日も井戸の底に居る。


 此の部屋には窓が無い。出口らしい扉が在るだけだ。其の先には誰もが一度は通る柔らかな道が在る。悲嘆は無い。誰を責め、何を赦すべきかは知ら無い。行先は、出口の無い詰めたい土の下か、ホルマリンの海か。もう決まって仕舞って居るのだと、外から声が聞こえた。生きて産まれる事の無い僕は、虚ろに其れを聞いた。


 目的も無く建てられた物は無いだろう。完成しようがしまいが、どれだけ下ら無い、小さな物で在っても、確かに何かの為に作られた。そして、其の瞬間からやがて朽ちる運命にも在る。一部が残る事は在っても、全ては当初の目的を果たせ無く成る。理由や経緯は幾つも在るだろうが、此れも其の一つだ。
 季節変わりの風が吹いても緑の蔦はしぶとく残り、朽ちかけた塀に、扉にしがみ付いて居る。硝子の抜け落ちた窓、少しばかり力を入れて蹴飛ばせば崩れそうな壁。もう少し若ければ、或いは酒にでも寄って居たのならば、少し入って見ようとでも思ったのだろうが、素面の、ましてや曲がり成りにも社会人の肩書を持って居る今は、眼の前の廃屋への不法侵入等愚行は犯せ無い。せめて安全な場所から朽ちた外観を数枚の写真に収める位だ。其処に在ったであろう、今も其処に在るのかも知れないものに想いを馳せ乍ら。そうやって、此の世に在るべきでないもの達を引き連れて帰る事に成る事も知らずに。


 幼い頃の記憶を辿る。盆だったか、正月だったかは覚えていない。場所だけは覚えている。父方の実家の一番奥の部屋、物置として使われていた部屋の、押し入れの中だ。何をしていたのかも定かではないが、住みの天板が外れかけているのを見つけた。好奇心は猫をも殺す、という言葉の意味を爪の先ほども理解していなかった少年は、微かに黴の匂いのする布団と湿り気のある壁の隙間を器用に登り、天板を押し上げた。そのまま布団を足場に頭を突っ込むと、天井と屋根の隙間、何処までも続くような暗闇があった。しばらく首をひねりながら見渡していると、段々と目が慣れて来て、微かに何かが見えた。小さな赤い鳥居と、緩く渡された縄、何度か捩じれられたような白い紙。そして気がついた。単に目が慣れた訳ではなかった。鳥居の向こう側、赤い着物姿の少女人形の瞳が淡く赤い光を放っていた。


 白昼の熱が少しずつ抜けて行く。風は緩く、頭上には満天の星。平穏そうな夜に反して、俺の体を薙ぐような空気は速度を増して行く。その分だけ遠くなる空が時間を告げてくれる。
 鈍い、それでも大きな音が響いた。
 初秋、宵の口、俺の体はアスファルトの上で砕け散った。


 ゆらり、ゆらり、揺れて居る。時折風に煽られ、ぎしり、と軋む。驚愕らしい感情で満たされた小さな双眸が見て居る。橋の下、首を括った俺の身体を。


 国道を横切る地下道が苦手だった。飛び交う燕の所為もあったが、それ以上に、遅い時間に通ると必ず立っている。切れかけた蛍光灯の下の赤い服の女の、奇妙に顔を歪ませただけの微笑み。


 幼い頃は借家に住んでいた。それなりに広い家で、知識の乏しい子供は不便さを知らなかった。それでも一つだけ、庭の隅に倉庫だけは嫌いだった。何の変哲のもない、確かトタン張りのやや広めの物置小屋だが、重い木製の扉を開いてすぐに目に付くものがあった。正面の棚の上にある何が入っているのかも分からない、頑丈そうなダンボールの箱。持ち運ぶ時の取手なのか、紐でも通すのか、丸い穴が開いている。それを縁取るように赤いシールのような物が貼られていて、中央は黒。その黒の中にギョロギョロと動き回る眼球を見た。


 赤い空の夢を見て居た。部屋の出口は随分前に塞がれて仕舞って、窓も見当たら無い。吊り下げられた小さな電球の弱い光だけが何も無い部屋を照らして居る。赤橙の明かりが闇に吸い込まれて行く色ばかり見て居る間に、其れ以外の色を忘れて仕舞った。だから、赤い空の夢を見て居る。確かに知って居た筈の色を、確かに見た筈のあの花の、少女の色を思い出せないまま、赤い空の夢を見続けて居る。


 真夜中、畳の上に寝転んで常夜灯を眺めていた。今夜済ませるべき事は全て終わっている。後は布団を敷いて寝るだけ、なのだが、どうにもその気になれない。我ながら退屈な人生だな、と思いながら胸のポケットを探る。煙草でも、と思ったのだが、何やら違う感触が混ざっていた。紙巻き煙草とライターの他に何か入っている。面倒になってまとめて引っ張り出すと、小さなガラス球だった。どこで拾ったのか、何故ポケットに入っているのかも分からない。どうでも良いか。煙草とライターを畳に置いて、小さなガラス球を常夜灯にかざして見る。透明らしいそれは常夜灯の光をやや歪めて見せるだけだった。何をやっているのだろう。馬鹿馬鹿しくなって視線を外し掛けた時に、見えた。ガラス球の中央、そこに赤く充血した眼球があった。思わず放り投げたそれは畳の上で跳ねる事もなくぐしゃりと潰れ、暗闇でも鮮明な赤い血をまき散らした。


 辺りが明るく成った。眼が醒めた。朝陽が差し込んで居る。一人切りの部屋。喧騒に塗れた夢は消え、亦、静かな日常が始まる。


 気が付けば季節は移り過ぎ様として居た。春の爛熟とも、夏の腐乱とも、冬の枯渇とも違う。然れど其れは其処に在った。
(了)
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