アイロニー・シンフォニー

笹森賢二

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#05 最果ての町

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   ──かくまで。


 その感情に名前を付ける事はできなかった。けれど、確証は得た。我が表皮の、血肉の、脳の、骨の、その奥には何もない。私は人の形をした肉の塊でしかなかった。


 最早自分でも呆れるしかなかった。部屋を片付け有り金を浚って今度は南へ向かって遁走した。明確な理由は無かった。日々の暮らしにも、仕事にも、人との関係にもそれなりの不満と満足とを持っている筈だった。それが今朝になって弾け飛んでしまった。どんな風に考えても先が見えなかった。何も聞こえなかった。何も感じなかった。昨日を見送り今日を積み重ね明日を作る意味さえ分からなかった。少々の苦痛にならば耐えられる。けれどそれは明日に意味があったからだ。
 何を思っていたのだろう。何を夢見ていたのだろう。どんな意味があったのだろう。
 アクセルを踏み込みながら自問してみる。答えはこの頭のどこにも無かった。苦しいとは思わなかった。虚しくもなかった。唯、僅かな恐怖だけがあった。産まれ育った町を見に行く。それだけが私に残った最後の願望であり、それが済んでしまえば後は何も無い。帰るべき日常は遁走を始めて直ぐに破綻してしまっただろうから、帰る場所は無い。故郷の他に行きたい場所は無い。したい事もない。人らしいものが何一つ残っていないのだから、最後にすべき事は一つだ。それが少しだけ怖かった。
 しかしそれでも矢張り呆れるしかなかった。真っ直ぐ目的地へ向かっているが、少しも慌てていない。遁走である筈なのに、まるでそれが当たり前であるかのように思っている。何とも呑気なものだった。私の遁走による混乱と迷惑について殆どと言って良い程考えていなかった。あれ程尊敬していたり、好いていた筈の人達がどう思おうが、如何なろうが、如何でも良かった。自分が呑気で薄情で、嫌な人間だなと思うだけだった。
 まぁ、良いさ。
 天候は良くも悪くもなかった。朝方の気温が少し低い位で、朝の通勤ラッシュが始まる頃にはそれも適温になったようだった。そのまま渋滞に巻き込まれたが、それも如何でも良かった。薄い財布の中が空になるまでは生きていられる。渋滞に何時間捕まっても問題はないのだった。
 ぼんやりと渋滞を抜けると目的地に着いていた。記憶と大分違う。当たり前か。私がこの町に住んでいたのはもう二十年以上前の話だ。恐らく風景が全く変わっていなくても違和感を覚えただろう。先ず大きさがまるで違って見えた。あの頃広く長く感じていた道がやけに狭く短く見える。建物も密集しているように見える。そしてある筈の物が無い。盛土されていた場所は平坦な砂利の駐車場になっていた。よく通った図書館は姿さえ無い。アパートも消えていた。代わりに新しい住宅が増えていて、密度は確かに増したようだった。
 そして、私が育った家は賃貸住宅に変わっていた。かつて思いを寄せていた人が居た長屋も消え失せていた。
 本当はどこかに車を止めて町を歩こうと思っていたが、このまま通り抜ける事にした。恐らくそこにあるであろう晩夏と初秋が交じり合う空気にも、そこにあるであろう郷愁にも、興味を持てなかった。それさえそこに無くても良いと思えてしまった。数分もかからずに広大な田んぼへ抜けた。遠くに建物が見えるが、私がそこへ行く事はないだろう。行きたい場所も、見たいものも無い。ここが私にとっての最果ての町だと気付き、同時に自分の中身が空であると知った。


 ぶらぶらと国道沿いの店を渡り歩いて時間を潰し、夕暮れ前には安ホテルに入った。部屋に着くなりベッドに飛び込み、少し笑った。あれ程好きだったからと買って来た酒に手を伸ばす気にならなかったのだ。「かくまで」と呟いてまた少しだけ笑った。最早自分には何も残っていない。そう思うと身体が軽くなったような気がした。準備は済ませてある。虚ろに移動させていた最後の瞬間が決まった。もう、ここに残ってする事は何も無い。
 不意に眠気が襲ってきた。抗う理由も無い。目を閉じると直ぐに眠った、のだと思う。私は最果ての町の道路に立っていた。昼に見たのとは様子が違う。側溝の代わりにガードレールが並んでいて、その向こうに小さな川があった。振り返ると土の山があった。古びた木造の図書館があって、自動販売機と古いアパートもあった。相変わらず狭い道だと思えてしまったが、ここは確かに私が育った町だった。ぼんやりと歩く私の後ろから懐かしいような声が聞こえて来た。高い子供達の声だった。それはあっという間に私を追い越して行った。もうはっきりと顔を思い出す事はないだろうが、最後尾、一人遅れているのが幼い頃の私なのだろう。子供達が振り返って幼い私に声をかける。僅かばかり速度を上げた私が仲間達に追いついた時、そこには私が住んでいた家があった。子供達が揃って歩いていく庭先に女性が二人立っていた。一人はかなり若い頃の母だ。もう一人は見知らぬ筈の美人だったが、直ぐに誰なのか分かった。いつも一緒だった筈のその子が、子供達の中に居なかったから。二人は一度だけ私に困ったように笑みを見せ、すぐに砂場へ向かう幼い私の方を向いてくれた。それで十分だった。私は歩き出す。誰かが私の背中に向かって何かを言ったような気がしたが聞き取れなかった。もう、それで良い。角を曲がり、少し進んでT字路を曲がる。それ程広くはない空き地がある。手前には春の筑紫が、奥には背の高い夏草が生えていた。仄かに冷たい秋の風が吹いて、空からは雪が降って来た。
 目を閉じて、思う。
 失った故郷と思い人を、時の流れ埋もれ自ら命を絶った母を、春風の中の少年と少女を、真夏の喧騒を、秋風に消えた面影を、雪の日の窓辺と永遠の離別を。
 まぁ、良いさ。明日には全て終わる。


 目が覚めると真夜中だった。酒を口にしてみたが美味いとは思えず酔いも回らなかった。ベッドに仰向けになって考える。何故あんな夢を見たのだろう。何故あんな事を思ったのだろう。もう全てを失なってしまったのに。
 苦しくなって考えるのを止めた。
 もう、良いんだ。
 もう直ぐ会いに行ける。母とあの人はどんな顔をするだろうか。私を叱るだろうか。ちゃんと会えるだろうか。
 まぁ、良いさ。
 その時になれば全てが分かるだろうし、空っぽの筈だった私にそれが残っている事が微かに嬉しかった。身体を起こして支度を始めた。さぁ、行こう。
 
 
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