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#06 儚き影を追って
しおりを挟む──その腕に、その背に。
いつからかその影を追っていた。その先にはあの頼りないような背中があって、その向こう、あの子を抱き上げる君が居ると思った。
目覚めが悪い。血圧が低い所為か悪夢の所為かは知らない。どっちでも良いし、どっちもどうにもならない。猫が鳴いた。無理矢理体を起こして冷たいフローリングに足を着ける。何から始めよう。悠々自適とは程遠いな。夜まで予定がびっしりだ。
「とりあえず、お前の飯からか?」
猫がまた鳴いた。分かったよ。長い一日が始まる。まぁ、良いだろう。また右足がこの世を踏み抜いたような感触はあったが、生きている。
一日は忙しなく過ぎて行く。君も忙しなく過ぎて行く。
「よぉ、今日も早いな。」
「ああ、君もね。」
朝はろくに時間も取れない。挨拶をするぐらいだ。君の背はあっという間に見えなくなる。おはようなんて言ってる暇も無い。けれど、私は必ず君を見る。遠ざかって行く背中を見送る。
「鈴木さんは佐藤君のサポート、おら倉野! 突っ立ってないでこっち手伝え!」
無駄に忙しいだけの職場を少しでも快適にしようと駆け回り、声を上げる。何がどうなる訳でもない。しないよりはマシなだけだ。
「先生、コレどうします?」
先生でも何でもない。そう言う時間さえ惜しい。
「んなもんほっとけ。ほら、セール品製造始まるぞ。」
「はいなはいな。あ、夜の約束、覚えてますよね?」
「覚えてる、ほら。」
「はーい。」
暇が無い。一秒たりとも無駄にしたくない。する事は山のようにある。
どうせ彼の事だから忙しなく動き回って居るのだろう。とても暇な我が古書店は陽が射し込まず、寒い。足元に置いた電気ストーブの出力を上げる。外は晴れている。放射冷却も収まった頃だろうが、寒い。主力の暖房の温度も上げようか。そう思って重い身体を持ちあげると声が聞こえた。彼の猫だろう。こんな時間に来るのはその子だけだ。
「おや、また外に出ていたのかい。おいで。」
しゃがんで呼びかけるとその子はそのまま飛び付いて来た。寒かったのだろう。頭を撫でてやりながら、思う。彼にもこれ位の無邪気さがあればなぁ。と。
「ふん、無理な相談か。」
猫が鳴いた。何かをねだっている訳ではないようだ。首肯しているらしい。何となく、笑ってしまった。
昼は短く切り上げた。午後はやや流れも遅くなるが、それでもやる事は山積している。
「はぁ、先生、もう働いてるんですか。」
「あ? ああ。未だラインは動かねぇぞ。」
「ええ。働く気なんざないですよ。先生を見てるだけです。」
テーブルの上では小型の印刷機が製造日と賞味期限を印刷した紙切れを次々に吐き出している。俺は製品を梱包する支度をしている。
「あ。止まりましたよ?」
「ったく、良い機械ばっかりだ。」
何事も上手く行くようには出来ていないのだった。
午後になって来客があった。懸案だった。漸く手に入った貴重な本はかなりの値段になった。客は感謝していた。私は溜息を吐く。今頃彼は忙しく働いているだろう。確かに私だって労力は費やしたが、一瞬で彼が一月で稼ぎ出す程の金を手にした。少し悪いな、と思った。漸く快適な温度になったカウンターであの子が鳴いた。気を使わせただろうか。頭を撫でてやる。
「ふふっ、商談成立、って奴だね。今日は少し高い缶詰でも食べようか。」
猫が少し違う声で鳴いた。現金な奴だ。
陽が落ちた。へとへとだ。
「さぁ、先生、ここですここです。」
それは元気だった。もう時計は七時を回っている。あっちに着くのは九時くらいか。まぁ、良いだろう。
「先生?」
「ああ、で? 本当に旨いんだろうな?」
「勿論勿論。本日のおすすめはですねぇ、」
溜息を吐く。漸く手が空いた。考える。アイツは何をしているだろう。アレの世話でもしていてくれているのだろうか。
「先生?」
「ん? ああ。パスタとスープかな。」
「サラダはどうします?」
「げ、別かよ。にゃろうタダだと思って高い店選びやがったな?」
「ふふん? 何の事やら。」
時計が回る。近付いて来る。
八時を回った。もう客は来ないだろう。レジ回りも片付いたし、次の案件の支度も済んだ。少し遠出になる。丁度彼の休みと重なっていた。誘ったら、付き合ってくれるだろうか。膝の上であの子が鳴いた。分かったよ、もう直ぐ迎えに来る。その時に誘ってみよう。
懐古堂と彫られた看板が上がっている。随分と古い物だ。大きなガラスと木枠の引き戸だ。ろくに手入れもされていないから引きずる様な音が鳴る。また暖房の設定温度を間違っている。やや温められた昼に合わせたままになている所為で少し寒い。コンクリートを踏んで歩くと聞き覚えのある鳴き声がする。愛猫が飛びついて来る。そのまま抱き上げてやる。首の辺りで小さく鳴いた。店の主は素知らぬふりをしている。長い黒髪に黒ばかりの衣装。古書店によく似合うソイツが顔を上げた。照明を受けた眼鏡のレンズが少し汚れていた。
「やぁ、今日も一日ご苦労様。興味のある本があるならば買って行ってくれ。」
玲瓏な声だった。
「よぉ、今日も悪かったな。どうもコレはここが家だと思っているらしい。」
「ふふ。最後は君の所へ帰るのだから、ここは遊び場だろう? 今日も良い子にしていたよ。」
不意に猫が飛び降りた。入口の近くに座った。何か、あるのだろう。ソイツの顔を見る。
言葉はどれも使い古したもので、どうにも巧く次の言葉が出てこない。焦れてしまったらしいその子が彼の腕から飛び降りた。入口の硝子戸の前で座った。こっちを見ている。何かを言いたそうな顔をしている。彼も私を見た。参ったな。得手でない。
「何かあるのか?」
「ああ、実は珍しい本の取引があってね。少し遠出になるんだ。」
「そうか。良かったな、儲け話にありつけて。」
「うん。ついでに面白い話も聴けそうでね。その、どうだい? 偶には一緒に行ってみないかい?」
珍しいと思った。ソレは一人で旅をするのが好きだった筈だ。ソレは感情を表に出さない筈だ。仄かに顔を赤く染めたソレは、初めて見るように思う。
「ああ、お前が良いなら行く。どこだ?」
「う、うん。そうか。えっと、信州なんだ。一晩泊りで、良ければ同じ、宿に。」
「一緒に行って別の宿って事はないだろ。余り高い宿は勘弁な。」
「そうだな。探しておくよ。日程は、」
今夜は偉く饒舌だ。まだ見た事の無い風景を想像しながらぼんやりとそう思った。
巧く喋れない。声が上ずって居る。それでも彼は承諾してくれた。待ちくたびれたらしいあの子は退屈そうに鳴いた。悪かったな、下手で。予め決めていた行程を説明した。彼の車を使わせて貰う案もあったが、電車にした。運転に煩わせるのも煩うのも厭だった。邪だと言われたらそれまでだが。
「鈍行か。久々だな。」
「そうかい、偶には良いだろう?」
「そうだな。んじゃ、遅くなったから今日は帰るわ。詳しい事は決まったら知らせてくれ。」
「ああ。分かった。じゃあ、また明日。」
「ああ。」
あの子を抱き上げ、彼は店を出て行く。少し頼りないような背。今夜も私はそれを見送る。明日も明後日も。いつか、そう考えて止めた。旅行の段取りを始めよう。
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