アイロニー・シンフォニー

笹森賢二

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#21 掠れた瞳

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   ──振り返り見る景色。



 蝉の声が遠くなる。置き忘れられた玲瓏の音が鳴る。夜に、夜明けに、どこか悲しげな虫達の奏でる声が聞こえる。雨上がりの湿気を含んだ空気には未だ蒸し暑さが残っているように感じられる。
 狭間の季節に。
 此処には何が在るだろう。其処には何が在っただろう。


 夕立ち、だったと思う。強い雨だった。例えばそれが梅雨の気紛れでも、夏の午後の低気圧のせいでも、秋雨でも何でも良かった。雪ですら良かったのかも知れない。
 そうか?
 振り返り、濡れて額に張り付いた前髪をかき上げる君は、やっぱり真夏の夕立が似合うようだった。


 春の陽は強いけれど、まだ熱が少ないせいで焼き焦がす程ではない。季節が変わってもその印象を引き摺っているだろう。そう思っていた。
「ひどかったねぇ。」
「だな。」
 例年より多かった曇り空と雨にすっかり騙されていたせいもあっただろう。ようやく部屋に辿り着いた二人はエアコンを全開にして床に転がった。最初の真夏日、なんて天気予報が言っても、大したものじゃないだろうとタカをくくっていた二人を迎えたのは、湿気ごと世界を焼き潰そうとするような陽射しだった。
「やっぱり夏になると違うのねぇ?」
「だなぁ。」
 二人で笑った。悪い気はしなかったからだろう。
 初夏の午後は、穏やかに過ぎて行く。


 梅雨は明けたらしいと思っていた。数日続いた晴天のせいで次の季節を忘れていた。
 苦々しく思えた。新幹線の高架橋の下で、アスファルトの上で弾け飛ぶ大きな雨粒を眺めていた。運動不足の解消に良いだろうと買ったばかりの自転車で買い物に出たのがいけなかった。黒い雲が広がり始めたと思った頃にはもう大粒の雨が降り出していた。慌てて高架橋の下へ滑り込んだが、暫くは動けそうにない。何時だったか、別の場所で同じようにしていた事があったか。あの時は確か、近くの車屋が見かねて接客スペースに上げてくれて、珈琲を飲ませてくれたのだったか。
 我ながら進歩していない。それどころか運は磨り減り苦労は増える一方だ。
 苦笑しながら煙草を銜える。あの頃は煙草も買えない学生だったが、今は煙草を銜えてスマホで天気を確認する位はできる。
「人も時代も移り行く。」
 ぽつりと呟いた。雨雲は十分程度で抜けるらしい。雲さえも、と思いかけて止めた。時計の針は何も変わらずに回り続けている。


 どうしても消えない。季節の隙間、昼と夜の隙間。真っ平らなアスファルトに黄金色の光が埋め尽くしていた。見上げる山頂も、見下ろす町も、何もかも黄金色に染まっていた。けれど、その色の鮮明さは覚えていても、その他の記憶は虚ろだ。手を繋ぐその人は誰だっただろう。恐らくは女性だったと思う。母か、叔母か、或いは?


 紫陽花が枯れ落ち、蝉が鳴くのを止めた。蜩さえ大人しくなり、向日葵は首を傾げた。
「未だ、何かを待って居るのかい?」
 真逆。
「其れなら、時は止ったままなのかね?」
 時計は今日も右回りだ。
「詰まらない人間になったものだねぇ?」
 一瞬の間。
「何を今更。」
 声を揃えて言って、声を合わせて笑った。


 人の群れが通り過ぎて行く。誰一人顔を知らない。それが当然で、それが日常だ。何時だったか、微かに感じていた侘しさは消えてしまった。煙が目の前で揺れる。僅かに熱を失った風が建物の隙間を抜けて行く。後、幾つの季節を越える事ができるだろう。後、何度形を、色を変える空を見上げられるだろう。目を閉じれば隣に居る幻達と、何時まで共に居られるのだろう。
(了・鱗雲)



 少しずつまた冷たい空気が辺りを包み始めた。昼の間町を暖めていた太陽は雲の向こうへ沈むようだ。空は少しずつ色を失い、水彩画のような薄い青と淡い雲の白とを湛えている。僕はゆっくりと目を閉じて、思い出す。


 鶏舎の修理をしていた。獣が開けた穴を塞いでいたのだ。ふと、傘釘を打ち込む手を休め、空を見上げた。やがて赤く染まるだろう、薄暮の空があった。蝉の声はやや小さくなったがまだ聞こえている。僕はこんな仕事をいつまで続けるのだろう。少ない給料と、長い通勤時間と、何の保障もくれない会社と。それでも。ため息を吐きながら金槌を握り直した。けれど、腕は動かなかった。あの美しい真夏の薄暮の空に見下ろされて、酷く気分が落ち込んでしまった。


 歩いている。何もないまま歩いている。近所の人達が色々な物を集めただけの集会所は、どうやら後二、三日は最低限の機能を保っていられそうだ。海辺に比べてこの小さな町の被害は小さかった。僕の住んでいる家も土壁が崩れたり、棚が倒れたりしたが、骨組みは残っている。掃除さえすればまた使えるだろう。水は集会所の倉庫にあったポリタンクを持って給水所へ汲みに行く。電気は、まぁ不便はあるがロウソクの照明があれば何とかはなるだろう。季節はこれから春へ向かう。暖房がなくても何とかはなる。地震の直後、閉まっていた店も少しずつ営業を始めている。流石にすぐに元通りにはならないが、できる限りの流通は始まったようだ。
 川辺の石を蹴飛ばした。
 残っているのは奇妙な虚脱感だけだ。あの時、本当は死んでしまっていて、今居る自分はこの世のあの世の狭間で夢を見ているだけなのではないだろうか。そんな感情だけが、ぼんやりと歩く僕の胸に堆積していった。


 呆けたままフロントガラス越しに町を見ていた。西の空からやがて焼けていく。そんな言葉だけを繰り返して、また少し眠った。


 瞬きの間に暮れてゆく冬の日は嫌いだった。三時を過ぎるともう色が変わり始めるような、そんな陽の色が嫌いだった。もっと友達と遊んでいたいとか、家に帰れば勉強をしろと言われるとか、そんな理由だったと思う。今はもう違う。いつまでも昼の色を失わない夏の方が嫌いになった。いつからだろう。僕は夜の闇に紛れている方が楽になった。何もかもが鮮明な白昼よりも、輪郭さえ朧げになる夜の方が好きになった。少し違うか。鮮明な世界で生きる君の事が嫌いになっただけなのだろう。


 また少し、風が動き始めた。


 砂と埃に塗れて見上げた暮れてゆく空を、流れ落ちた汗と沢山の声を、僕はもう忘れたのだろうか。


 薄い青を敷き詰めた空の下、西から東へ走る水路の上をよく冷えた水が流れていた。背後に大きな川の高い堤防があるだけで、後は一面水田が広がっている。僕は確かにそこに居たけれど、恐らくもう道順は分からなくなっている。それでもその風景だけは今でも覚えている。もしかしたら、いつか見た夢の事を、自分が見た風景の記憶だと勘違いしているだけかも知れない。だから、確かめに行こう。


 葉を落とし、骨組みだけになった木々の向こうに。丘の上にある街の向こうに。高架の向こうに。君の肩越しに。仄白い空を見た。


 雪が降っている。否、降っているのではないのかも知れない。頭上には薄青の空が、彼方にはやや紫がかった空が、逆の方角には灰色の雲がある。この雪はあの雲の下から風に乗ってきたのだろう。手を伸ばしかけて、止めた。旅の終わりならば、土の上が良いだろう。


 砂が落ちる度に、秒針が回る度に、小さな鳥が羽ばたく度に、僕が呼吸をする度に、ゆっくりと時間が過ぎてゆく。


 今、全てが山吹色に染まった。


 山の頂上にある駐車場で僕は何かを待っている。如何やら僕の他には誰も居ないようだ。夕暮れに差し掛かったその場所はまるで金色に輝いているようだった。ずっと昔、どんな理由だったかは覚えていないが、母と二人でこんな景色の中に居た事がある。恐らく、父が迎えに来るのを待っていたのだと思う。母は時計を見てもう直ぐねと呟いたが、待ちくたびれた僕はすっかり拗ねてしまっていて、母はそんな僕に大きな飴を買ってくれた。
 頭を掻いた。だから何だと言うのだ。その母も病気で死に、父は新しい女を作った。思い出は美しくても、現実は生々しく、美しさよりも都合を優先する。何時までも縋って生きていける訳ではないのだ。
 なら、何故だろう。
 そう問いかけた声が自分のものだと気付く前に踵を返した。この近くに宿がある。今夜は其処に泊まって、明日はもう少し遠くへ行く。金色に輝くアスファルトを踏み、歩き出すと見慣れた影が視界に入った。長い髪を揺らせて、少し息を切らしている。また少し色を変えた景色の中で、それはとても美しいもののように思えた。
 僕はまた頭を掻いて、ため息を吐く。
(了・薄青の空)

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