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#06 雨上がりの夜
しおりを挟む──幻覚。
一錠分切り取られたブリスター・パックを指先で弄んでいた。思う事は無い。時計は今夜も右回り。予報外れの雨も上がったらしい。何の事も無い、いつもの夜だ。流石に月は出ていないだろうが、予報は頑なに晴れだと云う。どうでも良いか。余程酷い天候でなければ不便のない生活を送っている。煙草に火を点す。煙は空調の風に巻き込まれてかき消えて行く。少し笑った。人も同じだろう。記憶を積み重ねて生きているようで、そう思い込んでいるだけだ。思う事は明日の事、大切なのはそれにまつわる記憶だけ。お前も同じだろう。どうせ、覚えているのはあの黄金の平原と、街灯の下の雪、逃亡の果てに見た朝焼けぐらいなものだ。理由は簡単。その他は必要が無いからだ。
空の器。
僕を形容するならばその一言で充分だ。人は不要な物をそこへ捨て、身軽になれば飛び去って行く。僕は苦労してそれを器から引きずり落とす。するとまた。成程、下らない。煙草の灰を皿に落す。それと何が違うのか。まぁ、良いさ。箱に残った数本が無くなるまで、少し話をしてみようか。
酷い幻覚を見続けていた頃があった。酒を呑み過ぎたのだった。そんな時に妙な宗教の勧誘に遭った。酷い連中で、何の許可も無く壁に画鋲を刺し、訳の分からない掛け軸を垂らした。誰がその穴を塞ぐのだろうと思う間もなくどこの宗派かさえ分からない読経を始めた。五分で終わると言われたそれが十数分を過ぎた頃、ベランダからこちらを覗く影を見た。白いワンピースの背の高い女性のようだったが、やたら長い黒髪ばかりが目につく。背中に張りと痛みを感じた。手が震え、汗が噴き出る。酒の離脱に似ていたが、僅かばかり違う。そいつは右に居たかと思えば左に移り、それでも僕の目を見ていた。結局三十分ばかり続いた読経が漸く終わった時、無責任な連中にその事を訊くと、明らかに莫迦にした顔になって、適当そうな言葉を並べた。莫迦め。ならば今ベランダの硝子に手を当て、憐れむような視線を向ける幻覚は何だと言うのだ。
何が良くて悪いのか、不惑を前にしてもよく分からない。一つだけ、「雨の降る日は天気が悪い。」という事の他には。
好き嫌いについて訊かれると困る。できるできないは、はっきり言えるものとやってみなければ分からないものに分けられるが、好きなもの、はよく分からない。旨い物を食べてもその瞬間の満足に過ぎないし、綺麗な景色、金、特別らしい達成感、全て過ぎ去って好いていようがいまいが最後には全て無くなる。けれど、嫌いな物ははっきりと分かる。人間。幾つもの顔と嘘を使い分けて、それが当たり前だと言う。本当の顔等、醜くて見れたものじゃない。
風が吹いた。金木犀の香りがした。良い匂いだと言った人を僕は笑った。それは幼少期を過ごした祖母の実家の、トイレの芳香剤と同じ匂いだったからだ。
そう言えば僕も一つ嘘を吐いていた。もう一つ鮮明な記憶がある。自ら命を断った母親、その亡骸を最初に見た時、唇の右端から顎まで伸びた薄い紫の線をはっきりと覚えている。もう顔も仕草も、声も思い出せないのに、その色だけは何本煙草を吸っても、幾ら酒に酔っても思い出せる。ついて来る記憶は、墓場に遺骨を運ぶ時、白い三角のついた紙を頭に巻かれた間抜けそうな自分の姿なのだけれど。
入院中、一日に一度だけ数時間の外出が赦されていた。決まって同じ公園へ向かい煙草を吸っていた。初秋の風が吹いていたと思う。煙草を咥え、呆ける僕の視線の遠く先、遊具で遊ぶ子供達がいた。何の感情も湧かなかった。ただ、目の前の植木や散り始めた葉の手入れが殆どされていない事ばかり気にしていた。
一つ思い出せない記憶がある。あの日のベランダに立っていたあの少女、昨日の夢に出て、「もう戻れないよ。」と微笑んだ少女。どこかで見たような気もするし、一度として見た事がない気もする。そう言えば、何度か違う色の服を着ているのを見たか。あの幻覚と夢の中でだけれど。
汚れたカップに水を注ぐ。文字を書き散らす。換気扇の下で煙草を吸う。何の意味も無い文字を書き散らす。湯を沸かす。誰にも知られぬように文字を書き散らす。明日の予定、足りない食材を確認する。君だけが読んでいる文字を書く。それが今の僕の日常になった。
灰皿に煙草を押し付けて火を消す。箱にはもう一本残っているけれど、これは明日の朝にとっておこう。パックから薬を押し出し、口に放る。もう良い時間だ。起きていたって、生きていたってろくな事は無い。眠ってしまおう。カーテンは開けたまま、夜明けと朝焼けの隙間の青い世界が見られるように秘かに願いながら、また悪夢の中の旅を始めよう。
(了)
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