好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇1章【すれちがいと夜】

4節~エピローグ~ 3

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席に戻ると、椅子の硬さが妙に心地よく感じられた。

同じ椅子のはずなのに、徹夜明けに沈み込んだあの疲れ切った背中とはまるで別物の感覚だ。

今は少しだけ余裕がある。ほんのわずかだが、仕事の荒波を一つ越えた後の安堵が背もたれを柔らかくした。

モニターを立ち上げるふりをしながら、ヒロトは視線だけを斜めに送った。
少し離れた席で、女子たちに囲まれ、目を丸くしながら必死に応戦しているキリカの姿が見える。

両手を忙しなく動かしながら、何かを否定するように首を振る様子は、まるで嵐の真ん中に取り残された子猫のようだ。

ちひろは腕を組んで仁王立ちし、真剣な顔つきで詰問している。
隣ではしおりがにやにやと意地悪な笑みを浮かべ、面白がるようにその反応を眺めていた。
さらに後方で控えるすみれは、顎に手を添え、時折「ふーん……」と妙に含みのある声で相槌を打っている。
三者三様の視線がキリカを捕らえ、まるで取り調べ室のような空気がそこにあった。

だが、ヒロトはその光景を見て、少しだけ安心する。
あの輪の中に、彼女がちゃんといる。それが何よりの救いだった。

もっと早くこうしてやれればよかった――そう思わなかったわけじゃない。
でも、あの徹夜の日まで、ヒロトの心には余裕など一つもなかった。
焦り、疲労、周囲の状況。いろんなものが絡みつき、他人の表情を見て気遣うだけの余白を奪っていた。

だから、せめて今は少しでも彼女が居やすい環境を整えてやりたい。
その思いが、自然と彼に電話をかけさせた。

――昨日の昼。
電話の向こうで、麻衣が笑い混じりに言った。

『ねぇ、中町くん、大丈夫かな? 明坂ちゃん、せっかく少し心を開いてくれたのに、週が明けたらまた元通り――なんてこと、ないでしょうね』

ヒロトは数秒だけ沈黙した。
そして、ためらうように、それでもはっきりと答えた。

「……じゃあ、噂を流してくれ」

言い切ったヒロトに、電話の向こうで麻衣が一瞬だけ息を呑んだ。
次の瞬間、納得したように小さく笑う声が返ってきた。

噂といっても、大げさなものじゃない。
『ヒロトとキリカが、徹夜でギリギリの案件をやり遂げた』――その事実のみを、さりげなく広げるだけだ。

誰がどれほど優秀かとか、誰に責任があったかなんて、もう関係ない。
むしろ、余計な解釈の余地を残すほうがいい。
人は、少し曖昧で想像の余白がある話にこそ、勝手にドラマを見い出す。

深夜のオフィスで、二人きり。
切羽詰まった状況で肩を並べて戦った――それだけで、物語は自然と形を持つ。

そして、こうした話がいちばん勢いよく広がるのは、決まって女子の間だ。
ちひろやすみれ、しおりの耳に届けば、きっとあっという間に尾ひれがつき、彼女たちの手にかかれば、むしろキリカにとって好意的な空気を作ってくれる。
ヒロトには、そんな確信があった。

きっと皆、こう思うだろう。
「あの明坂が、あそこまで追い詰められていたなら、誰かがもっと早く気づくべきだった」と。

その矛先が最終的に向かうのは、他でもない――
「……俺だな」ヒロトは、自嘲めいた笑いをこぼす。

「で、で? どこまでしちゃった? チューは?」

「し、してるわけないでしょ!!」

「……その反応、怪しい」

遠くから聞こえるちひろの声に、キリカが顔を真っ赤にして手をぶんぶん振っているのが見えた。
どうやら、想定以上にいい方向で盛り上がっているらしい。

「……まぁ、悪い解釈はされないだろう……うん、たぶん……」

そう小さく呟いた瞬間、肩を軽く叩かれた。

「やっほ~、お疲れ様」

振り返ると、ファイルを抱えた麻衣がにやりと笑っていた。

「肩入れしてるの、バレバレなんだけど?」

「……肩入れっていうか、ケアだろ」

「ふーん。じゃあ私も中町くんのケア、してあげようかな?」

「やめろ。胃がもたれる」

「なにそれ、失礼」

軽くファイルで頭を叩かれる。
懐かしいテンポのやり取りに、肩の力が抜けた。

視界の端では、ちひろに詰め寄られ、頬をつつかれているキリカが、必死に抗議していた。
でもその頬には、ほんのりと赤みが残り、もうあの険しい表情はどこにもない。

周囲の輪の中に、自然に馴染んでいく背中を見つめながら――
ヒロトは、ようやく本当の意味で、心の奥にあった緊張を手放した。
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