好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇2章【波乱と温泉】

1節~淡い想い~ 3

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朝から、オフィスには妙な空気が漂っていた。

業務が滞っているわけではない。
むしろいつも通りにPCが打たれ、電話も鳴り、書類のやり取りが交わされている。

それでも、ふと耳に入る雑談の端々に、「週末」や「何持って行こうか」といった単語が混じるだけで、空気にかすかな揺らぎが生まれていた。

ヒロトはモニターを見つめながら、浅く息を吐いた。

「……なんか、学生みたいだよな」

ぽつりと漏れた声に、隣からくすっと笑い声が返ってくる。

「でしょ? 私もさっき思ってた。みんな、楽しみにしちゃって、子供みたいだなって」

声の主は麻衣だった。
きっちりと整えたスーツに、どこか余裕を感じさせる笑顔。
朝から何かと気を配っているようで、書類の束を小脇に抱えながらも、周囲の空気を穏やかに読むことを忘れない。

「でもさ、こういう空気って悪くないと思うな。プロジェクトが動き出す前に、一度リセットというか……」

「まあ、イベントが業務扱いになってるのも、変な話だけどな」

ヒロトが苦笑しながら言うと、麻衣は軽く肩をすくめた。

「逆に、そこまでしないと切り替えられない人もいるかもよ。特に、あの子たちみたいな子がいるとさ」

視線を向けた先。
そこには、島の端で盛り上がる女子たちの輪があった。

「え、それ本当に着てくるの? ちょっと可愛すぎない?」

「着てくるわけないじゃん~、持ってくだけだってば!」

「ってことは……誰かにだけ見せたいってやつ?」

「ちっ、ちがっ……も~っ!」

イジられるちひろを囲み、楽しそうに笑うキリカの姿。

つい最近まで、あの輪に溶け込むことさえ苦手そうにしていた彼女が、今は少し照れながらも、ちゃんと会話の波に乗っている。

ヒロトは目を細め、そのやり取りを無意識に追っていた。

「明坂ちゃん、準備してる? なに持ってく予定?」

「え、ええと……歯ブラシとか、下着とか……そういうのだけでいいって書いてあったので……」

「まじめか!」

ちひろの即座のツッコミに、すみれが冷静に補足する。

「でも女子力アピールするなら、それだけじゃ足りないよね」

「……アピールって、誰にですか?」

「それ、言わせるの?」

キリカの問いに、すみれがにやりと笑う。
その顔を見て、キリカはじわじわと赤面しながら顔をそむけた。

「……山崎先輩は、どうなんですか?」

話題を逸らすようにキリカが尋ねると、しおりはのんびりと笑った。

「私は温泉とお酒とご飯だけ楽しめればいいかな~。でもさ、明坂ちゃんがこうして楽しそうにしてるの見れて、ちょっとホッとした」

「……ありがとうございます」

キリカの声は小さかったが、頬がふわりと綻んでいた。

ヒロトはその様子を見ながら、机上の資料をめくる手を止めた。
彼女の笑顔を、こんなにも自然に見られる日が来るとは、少し前まで想像もしなかった。

「ていうかさ、レクの内容まだ未定なんでしょ? 絶対『誰と組むか』ってなったら盛り上がるやつだよ~!」

「うわ、それちひろ絶対お邪魔キャラにされるやつじゃん」

「やめて! 自分でもそうなる気がしてるから!」

「明坂ちゃんはさ、誰と組みたいとか、ある?」

すみれの無邪気な問いに、女子たちの視線が一斉にキリカへと集まる。
その中心で、キリカは一瞬だけ息を飲み、そして不器用に笑った。

「えっと……別に、誰でも……仕事ですし」

「それ、ぜっっっったい本命いる反応~!」

「ちちち、ちがいますってば!」

真っ赤な顔で抗弁するキリカに、女子たちの笑いがどっと広がる。

ヒロトは苦笑をこぼしながら、そっと椅子の背にもたれた。
笑い声が遠くまで波紋のように広がっていき、その場を優しく揺らしていく。

「……楽しみ、ね」

誰に向けるでもなく、彼がぼそりと呟いたそのとき、斜め向かいの麻衣と視線が交わった。
彼女は静かに微笑みながら、うなずくように目を細めていた。

季節の変わり目のような、不思議な心地よさが社内に満ちていた。
この数日、誰もが胸の奥で――修学旅行を待つような静かな期待を、そっと育てている。そんなさざめきが、確かにそこにあった。
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