好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

文字の大きさ
86 / 158
〇2章【波乱と温泉】

1節~淡い想い~ 4

しおりを挟む
夜が深まり、時計の針が十時をまわった頃。
軽くシャワーを浴びたヒロトは、ベッドの縁にもたれかかるように腰を下ろし、スマートフォンを手にしていた。

指先が惰性で画面を滑るなか、不意に一通の通知が表示される。
そこに浮かんだ名前を見た瞬間、彼の手が止まった。

白石ヒカリ。

一瞬、呼吸の流れが微かに揺れた。
画面を見つめる視線には、懐かしさと、それに混じったわずかな緊張が滲んでいる。
ヒロトは照明の明るさをひとつ落とし、指先で通話アイコンをタップした。

「……もしもし」

『うん。こんばんは、ひろくん』

受話口から流れてきたのは、やわらかく穏やかな声音だった。
どこか眠たげで、しかし耳をくすぐるような甘さを含んでいて、ヒロトの肩から力が抜けていく。

『今週末、忙しいって言ってたよね? それって、例のイベント?』

「……ああ。会社のやつで。研修施設に泊まりで行くんだ。なんかバーベキューとかもあるって聞いてるけど」

『ふふ、バーベキュー研修……ずいぶん楽しそうな会社だね』

軽く笑うその声に、ヒロトも口元をゆるめた。

「実際はなかなか面倒だぞ。泊まりだし、準備もあるし……おまけに荷物も多い」

ぼやくような言い方だったが、どこか照れ隠しのような響きがこもっていた。
するとヒカリが、少し微笑むような声で返してきた。

『それでも、ちょっとだけ羨ましいよ。私は明日も明後日もシフトみっちりで、泊まりなんて当分できそうにないし』

「そうか……代われるもんなら代わってやりたいよ。こういうイベント、ヒカリのほうが好きだろ」

言葉の裏に、過去の記憶が滲んでいた。
かつての彼女が、職場の飲み会や大学の行事で誰よりも楽しそうにしていた姿。
あの頃の笑顔が、不意に脳裏をよぎった。

『……うん。たぶん、張り切っちゃうと思う。女の子って、意外とそういうの好きだしね』

「まあ……うちのチームの女子たちもノリノリだったよ。女子ばっかりのチームだから」

軽く口にしたヒロトの言葉のあと、数秒の沈黙が挟まる。
その先に届いたヒカリの声には、わずかに熱を帯びた感情があった。

『女子ばっかり、か……』

短く呟かれたその言葉の行方を、ヒロトは深く追いかけなかった。
それを察したかのように、ヒカリの声色が次の瞬間、明るく弾む。

『いや、単に羨ましいなって。会社のお金で、お肉と温泉とお酒なんて……贅沢三昧だなあって思っただけ!』

「……なんだよ、それ」

思わず噴き出すと、ヒカリも笑った。
だがその笑い声が薄れていくのと同時に、再び彼女の声が静かに届く。

『……でも、あんまり優しくしすぎないでね』

「……は?」

ヒロトの眉がわずかに動く。

『普段と違う場所で、普段と違う空気の中で、ひろくんがいつも通りに優しくしたら……』

少し間を空けて、彼女は静かに続けた。

『きっと……勘違いする子、出てくるよ』

その声音には、嫉妬でも皮肉でもない、どこか痛みを隠したような優しさがあった。
ヒロトはしばらく黙っていたが、やがて軽く息を吐き、言葉を選ぶように口を開いた。

「……それは、誰かの実体験か?」

『さあ……どうでしょう』

曖昧に笑うヒカリの声は、夜の静けさに紛れて、少しだけ遠く響いた。

「ったく……わざわざ電話してくるから、何かあるのかと思ったら、それが言いたかっただけかよ」

苦笑交じりに言うと、すかさずヒカリが声を張る。

『ち、違うよっ! たまたま、今なら話せるかなって思って……それだけっ』

拗ねたような口ぶりに、ヒロトは再び笑みを浮かべる。
目に映らなくても、彼女の表情が手に取るようにわかった。

そして、いくつかの他愛ない話を交わした後、自然と終わりの空気が訪れる。

『……じゃあね。おやすみ、ひろくん』

「……おう。おやすみ」

通話が途切れたあと、ヒロトはスマホをベッド脇に伏せ、ふと天井を見上げた。
ほんのわずかに眉が寄る。

──そういえば決起集会の話……俺、ヒカリにしたっけか。

その疑問は確かに生まれた。
けれど答えが出る前に、ゆっくりと、夜の深さが思考を包み込んでいった。



通話を終えたヒカリは、ベッドの上でスマホをそっと伏せた。
そのまま、長く細い吐息をひとつ落とす。

言葉の先に、伝えたい想いはあった。
けれどそれを告げるには、あまりにも今の距離が曖昧だった。

ヒロトの会社には、彼女の中学時代からの友人である――高森紗菜がいた。

ヒロトにとっては、顔と名前がかろうじて一致する程度の存在かもしれない。
けれど、紗菜はすべてを知っている。
過去のことも、現在の関係も、ヒカリが今なお迷っていることも。
誰よりも早く、それを見抜いた人だった。

そして、自分に対する過保護なほどの行動力に、ヒカリは幾度となく頭を抱えてきた。

「……余計なこと、しなければいいけど」

今夜の電話も、半分はその不安からだった。
すでに紗菜からイベントの話は聞いていたし、彼女が参加するとも言っていた。

ヒロトのそばで、酒が入り、場の空気がくだけたら――
心配するなというほうが、無理だった。

スマホを手に取り、紗菜に『ひろくんの前では大人しくしててね!』とメッセージを送る。
間を置かずに、『任せて♪』というスタンプが返ってきた。
その軽さに、ヒカリは思わず小さく笑う。けれど同時に、心のどこかで引っかかるものも残った。

彼に迷惑をかけたくない。
でも、少しだけ彼のことを知っていたい。
その矛盾が、自分自身をいちばん苦しめていた。

ヒカリは静かに横になり、薄く目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、もう隣にいない人の横顔だった。
届かないと知っていながらも、心のどこかでまだ、それを見つめている自分がいる。

夜の深さは、言葉にならなかった想いをそっと包み込んでいく。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、揺れる心を照らしていた。
眠りと覚醒のあわいに、ひとつの想いがそっと溶けてゆく。

そして部屋の静けさの中で、彼女はただ――
誰にも聞かれない小さな声で、もう一度だけ名前を呼んだ。

「……ひろくん」

それは、かつての温もりに手を伸ばすような、ささやかな祈りだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

思わせぶりには騙されない。

ぽぽ
恋愛
「もう好きなのやめる」 恋愛経験ゼロの地味な女、小森陸。 そんな陸と仲良くなったのは、社内でも圧倒的人気を誇る“思わせぶりな男”加藤隼人。 加藤に片思いをするが、自分には脈が一切ないことを知った陸は、恋心を手放す決意をする。 自分磨きを始め、新しい恋を探し始めたそのとき、自分に興味ないと思っていた後輩から距離を縮められ… 毎週金曜日の夜に更新します。その他の曜日は不定期です。

恋は襟を正してから-鬼上司の不器用な愛-

プリオネ
恋愛
 せっかくホワイト企業に転職したのに、配属先は「漆黒」と噂される第一営業所だった芦尾梨子。待ち受けていたのは、大勢の前で怒鳴りつけてくるような鬼上司、獄谷衿。だが梨子には、前職で培ったパワハラ耐性と、ある"処世術"があった。2つの武器を手に、梨子は彼の厳しい指導にもたくましく食らいついていった。  ある日、梨子は獄谷に叱責された直後に彼自身のミスに気付く。助け舟を出すも、まさかのダブルミスで恥の上塗りをさせてしまう。責任を感じる梨子だったが、獄谷は意外な反応を見せた。そしてそれを境に、彼の態度が柔らかくなり始める。その不器用すぎるアプローチに、梨子も次第に惹かれていくのであった──。  恋心を隠してるけど全部滲み出ちゃってる系鬼上司と、全部気付いてるけど部下として接する新入社員が織りなす、じれじれオフィスラブ。

貴男の隣にいたい

詩織
恋愛
事故で両親をなくし隣に引き取られた紗綾。一緒に住んでる圭吾に想いをよせるが迷惑かけまいと想いを封じ込める

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

きみは運命の人

佐倉 蘭
恋愛
青山 智史は上司で従兄でもある魚住 和哉から奇妙なサイト【あなたの運命の人に逢わせてあげます】を紹介される。 和哉はこのサイトのお陰で、再会できた初恋の相手と結婚に漕ぎ着けたと言う。 あまりにも怪しすぎて、にわかには信じられない。 「和哉さん、幸せすぎて頭沸いてます?」 そう言う智史に、和哉が言った。 「うっせえよ。……智史、おまえもやってみな?」 ※「偽装結婚はおさない恋の復活⁉︎」のExtra Story【番外編】です。また、「あなたの運命の人に逢わせてあげます」「お見合いだけど、恋することからはじめよう」のネタバレも含みます。 ※「きみは運命の人」の後は特別編「しあわせな朝【Bonus Track】」へと続きます。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

それは、ホントに不可抗力で。

樹沙都
恋愛
これ以上他人に振り回されるのはまっぴらごめんと一大決意。人生における全ての無駄を排除し、おひとりさまを謳歌する歩夢の前に、ひとりの男が立ちはだかった。 「まさか、夫の顔……を、忘れたとは言わないだろうな? 奥さん」 その婚姻は、天の啓示か、はたまた……ついうっかり、か。 恋に仕事に人間関係にと翻弄されるお人好しオンナ関口歩夢と腹黒大魔王小林尊の攻防戦。 まさにいま、開始のゴングが鳴った。 まあね、所詮、人生は不可抗力でできている。わけよ。とほほっ。

甘い年下、うざい元カレ

有山レイ
恋愛
会社のイベントで年上の OL が酔払い、若いインターンと一夜の関係になった。偶然、翌日には嫌いな元彼が突然現れた。

処理中です...