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〇2章【波乱と温泉】
1節~淡い想い~ 4
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夜が深まり、時計の針が十時をまわった頃。
軽くシャワーを浴びたヒロトは、ベッドの縁にもたれかかるように腰を下ろし、スマートフォンを手にしていた。
指先が惰性で画面を滑るなか、不意に一通の通知が表示される。
そこに浮かんだ名前を見た瞬間、彼の手が止まった。
白石ヒカリ。
一瞬、呼吸の流れが微かに揺れた。
画面を見つめる視線には、懐かしさと、それに混じったわずかな緊張が滲んでいる。
ヒロトは照明の明るさをひとつ落とし、指先で通話アイコンをタップした。
「……もしもし」
『うん。こんばんは、ひろくん』
受話口から流れてきたのは、やわらかく穏やかな声音だった。
どこか眠たげで、しかし耳をくすぐるような甘さを含んでいて、ヒロトの肩から力が抜けていく。
『今週末、忙しいって言ってたよね? それって、例のイベント?』
「……ああ。会社のやつで。研修施設に泊まりで行くんだ。なんかバーベキューとかもあるって聞いてるけど」
『ふふ、バーベキュー研修……ずいぶん楽しそうな会社だね』
軽く笑うその声に、ヒロトも口元をゆるめた。
「実際はなかなか面倒だぞ。泊まりだし、準備もあるし……おまけに荷物も多い」
ぼやくような言い方だったが、どこか照れ隠しのような響きがこもっていた。
するとヒカリが、少し微笑むような声で返してきた。
『それでも、ちょっとだけ羨ましいよ。私は明日も明後日もシフトみっちりで、泊まりなんて当分できそうにないし』
「そうか……代われるもんなら代わってやりたいよ。こういうイベント、ヒカリのほうが好きだろ」
言葉の裏に、過去の記憶が滲んでいた。
かつての彼女が、職場の飲み会や大学の行事で誰よりも楽しそうにしていた姿。
あの頃の笑顔が、不意に脳裏をよぎった。
『……うん。たぶん、張り切っちゃうと思う。女の子って、意外とそういうの好きだしね』
「まあ……うちのチームの女子たちもノリノリだったよ。女子ばっかりのチームだから」
軽く口にしたヒロトの言葉のあと、数秒の沈黙が挟まる。
その先に届いたヒカリの声には、わずかに熱を帯びた感情があった。
『女子ばっかり、か……』
短く呟かれたその言葉の行方を、ヒロトは深く追いかけなかった。
それを察したかのように、ヒカリの声色が次の瞬間、明るく弾む。
『いや、単に羨ましいなって。会社のお金で、お肉と温泉とお酒なんて……贅沢三昧だなあって思っただけ!』
「……なんだよ、それ」
思わず噴き出すと、ヒカリも笑った。
だがその笑い声が薄れていくのと同時に、再び彼女の声が静かに届く。
『……でも、あんまり優しくしすぎないでね』
「……は?」
ヒロトの眉がわずかに動く。
『普段と違う場所で、普段と違う空気の中で、ひろくんがいつも通りに優しくしたら……』
少し間を空けて、彼女は静かに続けた。
『きっと……勘違いする子、出てくるよ』
その声音には、嫉妬でも皮肉でもない、どこか痛みを隠したような優しさがあった。
ヒロトはしばらく黙っていたが、やがて軽く息を吐き、言葉を選ぶように口を開いた。
「……それは、誰かの実体験か?」
『さあ……どうでしょう』
曖昧に笑うヒカリの声は、夜の静けさに紛れて、少しだけ遠く響いた。
「ったく……わざわざ電話してくるから、何かあるのかと思ったら、それが言いたかっただけかよ」
苦笑交じりに言うと、すかさずヒカリが声を張る。
『ち、違うよっ! たまたま、今なら話せるかなって思って……それだけっ』
拗ねたような口ぶりに、ヒロトは再び笑みを浮かべる。
目に映らなくても、彼女の表情が手に取るようにわかった。
そして、いくつかの他愛ない話を交わした後、自然と終わりの空気が訪れる。
『……じゃあね。おやすみ、ひろくん』
「……おう。おやすみ」
通話が途切れたあと、ヒロトはスマホをベッド脇に伏せ、ふと天井を見上げた。
ほんのわずかに眉が寄る。
──そういえば決起集会の話……俺、ヒカリにしたっけか。
その疑問は確かに生まれた。
けれど答えが出る前に、ゆっくりと、夜の深さが思考を包み込んでいった。
◆
通話を終えたヒカリは、ベッドの上でスマホをそっと伏せた。
そのまま、長く細い吐息をひとつ落とす。
言葉の先に、伝えたい想いはあった。
けれどそれを告げるには、あまりにも今の距離が曖昧だった。
ヒロトの会社には、彼女の中学時代からの友人である――高森紗菜がいた。
ヒロトにとっては、顔と名前がかろうじて一致する程度の存在かもしれない。
けれど、紗菜はすべてを知っている。
過去のことも、現在の関係も、ヒカリが今なお迷っていることも。
誰よりも早く、それを見抜いた人だった。
そして、自分に対する過保護なほどの行動力に、ヒカリは幾度となく頭を抱えてきた。
「……余計なこと、しなければいいけど」
今夜の電話も、半分はその不安からだった。
すでに紗菜からイベントの話は聞いていたし、彼女が参加するとも言っていた。
ヒロトのそばで、酒が入り、場の空気がくだけたら――
心配するなというほうが、無理だった。
スマホを手に取り、紗菜に『ひろくんの前では大人しくしててね!』とメッセージを送る。
間を置かずに、『任せて♪』というスタンプが返ってきた。
その軽さに、ヒカリは思わず小さく笑う。けれど同時に、心のどこかで引っかかるものも残った。
彼に迷惑をかけたくない。
でも、少しだけ彼のことを知っていたい。
その矛盾が、自分自身をいちばん苦しめていた。
ヒカリは静かに横になり、薄く目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、もう隣にいない人の横顔だった。
届かないと知っていながらも、心のどこかでまだ、それを見つめている自分がいる。
夜の深さは、言葉にならなかった想いをそっと包み込んでいく。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、揺れる心を照らしていた。
眠りと覚醒のあわいに、ひとつの想いがそっと溶けてゆく。
そして部屋の静けさの中で、彼女はただ――
誰にも聞かれない小さな声で、もう一度だけ名前を呼んだ。
「……ひろくん」
それは、かつての温もりに手を伸ばすような、ささやかな祈りだった。
軽くシャワーを浴びたヒロトは、ベッドの縁にもたれかかるように腰を下ろし、スマートフォンを手にしていた。
指先が惰性で画面を滑るなか、不意に一通の通知が表示される。
そこに浮かんだ名前を見た瞬間、彼の手が止まった。
白石ヒカリ。
一瞬、呼吸の流れが微かに揺れた。
画面を見つめる視線には、懐かしさと、それに混じったわずかな緊張が滲んでいる。
ヒロトは照明の明るさをひとつ落とし、指先で通話アイコンをタップした。
「……もしもし」
『うん。こんばんは、ひろくん』
受話口から流れてきたのは、やわらかく穏やかな声音だった。
どこか眠たげで、しかし耳をくすぐるような甘さを含んでいて、ヒロトの肩から力が抜けていく。
『今週末、忙しいって言ってたよね? それって、例のイベント?』
「……ああ。会社のやつで。研修施設に泊まりで行くんだ。なんかバーベキューとかもあるって聞いてるけど」
『ふふ、バーベキュー研修……ずいぶん楽しそうな会社だね』
軽く笑うその声に、ヒロトも口元をゆるめた。
「実際はなかなか面倒だぞ。泊まりだし、準備もあるし……おまけに荷物も多い」
ぼやくような言い方だったが、どこか照れ隠しのような響きがこもっていた。
するとヒカリが、少し微笑むような声で返してきた。
『それでも、ちょっとだけ羨ましいよ。私は明日も明後日もシフトみっちりで、泊まりなんて当分できそうにないし』
「そうか……代われるもんなら代わってやりたいよ。こういうイベント、ヒカリのほうが好きだろ」
言葉の裏に、過去の記憶が滲んでいた。
かつての彼女が、職場の飲み会や大学の行事で誰よりも楽しそうにしていた姿。
あの頃の笑顔が、不意に脳裏をよぎった。
『……うん。たぶん、張り切っちゃうと思う。女の子って、意外とそういうの好きだしね』
「まあ……うちのチームの女子たちもノリノリだったよ。女子ばっかりのチームだから」
軽く口にしたヒロトの言葉のあと、数秒の沈黙が挟まる。
その先に届いたヒカリの声には、わずかに熱を帯びた感情があった。
『女子ばっかり、か……』
短く呟かれたその言葉の行方を、ヒロトは深く追いかけなかった。
それを察したかのように、ヒカリの声色が次の瞬間、明るく弾む。
『いや、単に羨ましいなって。会社のお金で、お肉と温泉とお酒なんて……贅沢三昧だなあって思っただけ!』
「……なんだよ、それ」
思わず噴き出すと、ヒカリも笑った。
だがその笑い声が薄れていくのと同時に、再び彼女の声が静かに届く。
『……でも、あんまり優しくしすぎないでね』
「……は?」
ヒロトの眉がわずかに動く。
『普段と違う場所で、普段と違う空気の中で、ひろくんがいつも通りに優しくしたら……』
少し間を空けて、彼女は静かに続けた。
『きっと……勘違いする子、出てくるよ』
その声音には、嫉妬でも皮肉でもない、どこか痛みを隠したような優しさがあった。
ヒロトはしばらく黙っていたが、やがて軽く息を吐き、言葉を選ぶように口を開いた。
「……それは、誰かの実体験か?」
『さあ……どうでしょう』
曖昧に笑うヒカリの声は、夜の静けさに紛れて、少しだけ遠く響いた。
「ったく……わざわざ電話してくるから、何かあるのかと思ったら、それが言いたかっただけかよ」
苦笑交じりに言うと、すかさずヒカリが声を張る。
『ち、違うよっ! たまたま、今なら話せるかなって思って……それだけっ』
拗ねたような口ぶりに、ヒロトは再び笑みを浮かべる。
目に映らなくても、彼女の表情が手に取るようにわかった。
そして、いくつかの他愛ない話を交わした後、自然と終わりの空気が訪れる。
『……じゃあね。おやすみ、ひろくん』
「……おう。おやすみ」
通話が途切れたあと、ヒロトはスマホをベッド脇に伏せ、ふと天井を見上げた。
ほんのわずかに眉が寄る。
──そういえば決起集会の話……俺、ヒカリにしたっけか。
その疑問は確かに生まれた。
けれど答えが出る前に、ゆっくりと、夜の深さが思考を包み込んでいった。
◆
通話を終えたヒカリは、ベッドの上でスマホをそっと伏せた。
そのまま、長く細い吐息をひとつ落とす。
言葉の先に、伝えたい想いはあった。
けれどそれを告げるには、あまりにも今の距離が曖昧だった。
ヒロトの会社には、彼女の中学時代からの友人である――高森紗菜がいた。
ヒロトにとっては、顔と名前がかろうじて一致する程度の存在かもしれない。
けれど、紗菜はすべてを知っている。
過去のことも、現在の関係も、ヒカリが今なお迷っていることも。
誰よりも早く、それを見抜いた人だった。
そして、自分に対する過保護なほどの行動力に、ヒカリは幾度となく頭を抱えてきた。
「……余計なこと、しなければいいけど」
今夜の電話も、半分はその不安からだった。
すでに紗菜からイベントの話は聞いていたし、彼女が参加するとも言っていた。
ヒロトのそばで、酒が入り、場の空気がくだけたら――
心配するなというほうが、無理だった。
スマホを手に取り、紗菜に『ひろくんの前では大人しくしててね!』とメッセージを送る。
間を置かずに、『任せて♪』というスタンプが返ってきた。
その軽さに、ヒカリは思わず小さく笑う。けれど同時に、心のどこかで引っかかるものも残った。
彼に迷惑をかけたくない。
でも、少しだけ彼のことを知っていたい。
その矛盾が、自分自身をいちばん苦しめていた。
ヒカリは静かに横になり、薄く目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、もう隣にいない人の横顔だった。
届かないと知っていながらも、心のどこかでまだ、それを見つめている自分がいる。
夜の深さは、言葉にならなかった想いをそっと包み込んでいく。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、揺れる心を照らしていた。
眠りと覚醒のあわいに、ひとつの想いがそっと溶けてゆく。
そして部屋の静けさの中で、彼女はただ――
誰にも聞かれない小さな声で、もう一度だけ名前を呼んだ。
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それは、かつての温もりに手を伸ばすような、ささやかな祈りだった。
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