好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇2章【波乱と温泉】

2節~天内ももです!~ 3

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大型バスのエンジンが、地を這うような低い唸りを上げていた。
ロータリーに響くその音が、出発の合図のように周囲の空気を少しずつ高揚させていく。
荷物の積み込みはほぼ終わり、参加者たちは思い思いのタイミングで乗車口へと歩を進めていた。

「……あの、席ってどうなってるんですか?」

声をかけてきたのはキリカだった。
どこか落ち着かない足取りで近づいてきた彼女は、手のひらを胸の前で少し握りしめながら、おずおずと問いかけてくる。

「ん? ああ、特に決まってないらしいぞ。隣、座るか?」

軽く返すと、キリカの目がぱっと瞬いた。
喜びを隠し切れずに揺れたその表情は、まるで春の陽気にほころぶ蕾のようだった。
しかし次の瞬間、何かを抑え込むように、視線を横に流しながら口をへの字に曲げる。

「……いいんですか? 私より、倉本先輩とかの方が……楽しいかと思って」

思ったよりも棘のない、けれど妙に素直でもない、その拗ねたような口調に、ヒロトは小さく笑った。

「朝から拗ねてんのか、お前は」

視線を外さずにそう言うと、キリカの頬がたちまち染まった。
言葉を探すように目を泳がせ、照れ隠しのように資料を胸元に抱える。

「そもそも、倉本たちは別のバスだしな。……ほら、乗り遅れるぞ」

「……もう、そこまで言うなら……っ」

小さく吐き出すように呟いて、キリカがステップに足をかけた、そのときだった。
不意に背後から伸びた手が、キリカの腕を軽々とさらっていく。

「明坂ちゃーん! 隣ね!」

「えっ、ちょっ……わ、引っ張らないでくださいっ!?」

ちひろ、すみれ、しおりの三人組が、笑顔でまるで戦利品でも確保するように彼女を両脇から囲み込んだ。
「逃げられると思わないでね~!」と陽気に言い放ち、そのまま女子席へと連行していく。
抗議の声も、彼女たちの手際の良さにはまるで歯が立たない。

「……あっ、ちょっと」

助けを求めるような視線がヒロトに向けられる。
けれど、どうにかできるはずもなかった。
むしろ、あの勢いは止める方が危険だ。

ヒロトは苦笑しながら小さく肩をすくめ、ため息まじりに自分も乗り込む。
軽くバス内を見渡すと、麻衣を探す視線が自然と前方へと向かった。

けれど、彼女はすでに別チームの男性リーダーと並び、真剣な表情で資料を突き合わせていた。
イベント前の出発だというのに、仕事モードは完全にオンのようだ。

まいったな、とヒロトは頭をかく。

男の少ない職場。
しかも今回のイベントメンバーはさらに限られている。
軽く視線を巡らせると、普段から気軽に雑談を交わせるような顔ぶれは、見事に別のバスへ振り分けられていた。

「……ま、いいか」

ため息まじりに呟き、適当な席に腰を下ろそうとしたそのとき――

「ここ、開いてます~?」

甘やかで軽やかな声が降ってきた。
視線を上げると、ふわりとワンピースの裾が視界を横切る。
淡い色の布地が空調に揺れ、陽を受けた脚がきらりと輝いた。

「天内……席なら他にも空いてるだろ」

「えぇ~? 私、知らない人ばっかりで緊張しちゃって……でも、せんぱいなら同じチームだし、これから一緒にお仕事もするし、仲良くしてくれるかな~って」

上目遣い。
声のトーンも、タイミングも、あまりに巧みで――それでいて押しつけがましくない。
自然体でありながら、こちらに選択肢を与えない空気を纏っていた。

「……それとも、迷惑ですか?」

ぽつりと落とされた一言に、ヒロトはわずかに言葉を詰まらせた。
そんな風に言われて、否と返すのは難しい。
しかも、今回は親睦を深める名目のイベント。
同じプロジェクトメンバーを避ける理由もない。

「……どうぞ」

観念したようにそう言って、ヒロトは通路側へと体をずらす。
ももは小さく跳ねるようにして腰を下ろし、膝の上にカゴバッグを抱えた。

「ありがとうございますっ! しかも窓際まで譲ってくれるなんて、やっさし~♡」

まるで天真爛漫な後輩を演じているようでいて、どこか演技には見えなかった。
ヒロトは目線をそらすようにして、ふと奥の座席に視線を移す。

その先で、キリカと目が合った。
彼女は女子たちに囲まれたまま、頬をぷくっと膨らませていた。

睨むでも、怒るでもなく。
ただ、じっと見つめて、静かに前を向く。
わかりやすいほどに不機嫌なその仕草が、なんだか無性に申し訳ない気持ちを誘った。

──本当に、俺のせいじゃないんだけどな。

そんな言い訳を飲み込んだところで、車内に再び麻衣の声が響いた。

「はーい、全員そろったら出発しますよー!」

運転席横から手を振る彼女の声に、バスの中がにわかにざわつき始める。
笑い声とおしゃべりが、エンジン音の上にふわりと重なっていく。

ヒロトは、静かに息を吐いた。
前方からはももの無邪気な声が、後方からは女子たちの笑い声が響いてくる。

──嵐の気配しかしない。

そんな予感が、何よりも鮮やかに胸に染み渡っていた。
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