好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇3章【秘密とマグカップ】

3節~準備と予感~ 4

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最寄り駅に着くと、ヒロトはいつもの癖で、考えるより先に改札へ足を向けていた。
人通りはまばらで、天井のスピーカーから流れる車内アナウンスだけが、少し遅れてホームから届く。
吹き抜ける夜風がコートの裾を揺らし、背中にひやりとした感触を残した、そのときだった。

『ブブッ……』

上着の内ポケットで、スマホが短く震えた。
小さな長方形が二度、控えめに存在を主張する。
ヒロトは歩みをゆるめ、壁際に寄ると、誰にも気づかれない程度の動きで画面を点けた。

『お疲れ様、仕事おわった?』

表示されたのは、見慣れた名前だった。

『ああ、今改札出たとこ』

ほとんど反射で文字を打ち込み、送信する。
すぐに既読がつき、間をおかず返信が落ちてきた。

『へぇ、そうなんだ! 私も、今買い物からの帰りだよ~』

早い。
ヒカリからの返信は、まるで、最初からトーク画面を開いたまま待っていたみたいな速度だった。

ヒロトは、改札を出て、少し歩いたところで足を止める。
行き交う人の流れが、彼ひとりを避けるように左右へ分かれていく。
その中心で、手の中の小さな光だけが、やけに目に刺さった。

一度、画面を消す。
けれど暗くしたところで、さっきの文面は頭の中から消えてくれない。

優しくすればするほど、期待させる。
それが分かっていながら、冷たく突き放すこともできない。
あの夜、中庭で本当のことを伝えた後輩の顔と、ヒカリの顔が、心の中で不器用に並ぶ。

喉の奥に、苦いものがじわりと滲んだ。

「……はぁ」

小さく息を吐き、ヒロトは再び画面を点ける。
指先が、迷いなく通話ボタンをタップした。

バカだな、と自分でも思う。
中途半端で、逃げきれないくせに、指だけは止められない。

――呼び出し音が一回鳴りきる前に、接続の音が途切れた。

『も、もしもし、ひろくん?』

少し弾んだ声が、すぐ耳元に届く。

「……当たり前だろ。出るの早すぎ」

そう言いながらも、ヒロトの口元には、ごく小さな笑みが浮かんでいた。
電話の向こうで、ヒカリが照れくさそうに笑う気配がする。

『えへへ……なんか、こういうの、久しぶりだなって思って』

ふわりとした声。
その吐息の端には、ほっとした温度がまじっていた。
ヒロトは、眉をわずかに寄せる。

「……どうしたんだよ、最近。変だぞ?」

真正面から問えば、きっと黙り込む。
分かっていても、聞かずにはいられない。

『う~ん……そうかな? ちょっと疲れちゃってて』

笑い混じりの返事。
いつもの調子に似ているのに、どこか空元気にも聞こえた。
声が普段より少し早くて、音量も半歩だけ大きい。

ヒロトは、その違和感を追い詰めるような言葉を飲み込む。
ヒカリは、一度黙ると意地でも本音を出さない。
そこまでの付き合いの長さだけは、まだ自分の中に残っていた。

「……買い物って、なに買ってきたんだ?」

質問の角度を変える。
それが、今の自分にできる「ほどほどのやさしさ」だった。

『あ、えっとね、ちょっと可愛いワンピースがあって。私、あんまり冒険しないから迷ったんだけど……今日は、買ってみた!』

さっきより、少しだけ明るい声。
嬉しそうで、どこか幼くも聞こえる響きに、ヒロトも肩の力を緩める。

「そっか。たまにはいいんじゃないか。似合いそうだし」

『ほんと? じゃあ今度、見せよっかな』

「……期待しとくよ」

他愛もない会話。
それなのに、『ほんの少し前までの日常』に、指先だけ触れたような感覚がついてくる。
時間が巻き戻ったわけじゃない。
耳だけなら、簡単にだまされそうな柔らかい錯覚だった。

ヒロトは、駅の外に出る足を完全に止めた。
自動ドア近くの壁際に寄り、行き交う人の流れをぼんやり眺めながら、ときどき相槌を打つ。

仕事の愚痴、同僚の近況、最近はまっているドラマの話。
話題だけ見ればいつも通りなのに、文脈の端々で、どこか本音を隠しているようにも感じられた。

十分ほど経ったころ、ヒカリが、はっとしたように声を上げる。

『って、ごめんね! ひろくん、もう家に着いたよね?』

「……いや、大丈夫。ヒカリが家に着くまで、繋いどくよ」

そう答えてから、ヒロトは改札から少し離れたベンチへ歩く。
片側だけ空いている端の席に腰を下ろし、背もたれに軽く身を預けた。

『……え、今、外?』

「うん。駅のベンチ。まだ帰ってないよ」

スマホを耳に当てている手の向こうで、アナウンスがかすかに混じる。
ホームから届くブレーキ音や、足早に階段を上がる靴音が、ヒカリにも聞こえているはずだった。

少しの沈黙のあと、彼女の声色がやわらかく変わる。

『――――じゃあ、ちょっとゆっくり歩いちゃおっかな』

嬉しさを隠そうともしない声音。
その響きを聞きながら、ヒロトは思わず目を細めた。

電話の向こうで、歩幅を少しだけ小さくしている姿が浮かぶ。
コンビニの明かりやマンションの窓の灯りのあいだを縫うように、スマホを耳に当てて歩く横顔。
自分の知らない、今の生活と景色の中に、自分の声だけが細い線みたいに伸びている。

きっと、何かが変わってしまった。
だけど、完全に壊れたわけでもない。

その中途半端な距離の心地よさと、居心地の悪さが、同じくらいの重さで胸の中に沈んでいく。

「転ばないようにな」

冗談半分にそう付け足すと、電話の向こうで小さな笑い声が弾けた。

その笑いが、本当に楽しそうなのか、何かをごまかしているのか。
前みたいには、もうはっきりと判断できない。

それでも、こうして繋いでいるあいだだけでも、彼女の足取りが少しでも軽くなるなら──それでいいのかもしれない。

ベンチの背にもたれたまま見上げると、駅ビルのガラス越しに、夜の空がわずかに覗いていた。
そこに薄く映った自分の輪郭は、どこか焦点の合わないままで、ヒロトはスマホを握る手に力をこめることも、緩めることもできずにいた。
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