好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇序章【始まりと予感】

2節~ほんの数秒のためらいに~ 9

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「え、でも……二次会って、たしか……みんなで……」

弱々しくそう呟いたキリカの声は、ざわついた店内の中で、すぐに掻き消された。

「会社の二次会なんて、どーせカラオケでしょ?」
井口が笑う。

その口調は、軽い。けれど、強引さを隠しきれていない。

「それより、もっと楽しいとこ行こうよ。……ね?」

「わ、私……カラオケが……」

「なにそれ~、キリカちゃん、経験ナシだから楽しいところじゃ伝わんないっしょ~!」

「お前、さっきからそればっかだな!」

石井が茶々を入れるように笑うと、周囲の男たちが一斉に笑い声を上げた。

何がそんなに可笑しいのか。
キリカには、まったく理解できなかった。

「ほら、キリカちゃん」

井口が、ふいに体を傾けてきた。

ぐっと距離が詰まる。

肩と二の腕がぴたりと触れ、じわりと熱が走った。
その体温が、皮膚越しに無理やり押しつけられてくる。

――逃げたい。

だが、この席では、一歩も動けない。

「会社と俺ら……どっちにすんの?」

笑っているはずの瞳が、笑っていなかった。
声色の奥に滲む圧力に、背筋が凍る。

そして――

井口の手が、断りもなく腰に回された。

「触れた」なんて生ぬるい言葉じゃない。
境界を越えて踏み込んできた、拒否を許さない乱暴な手つきだった。


体が、びくりと跳ねた。

喉の奥から、何か言葉が出かかった。

けれどそれは、声にならなかった。
肩も、背中も、どこもかしこも強張っている。

咄嗟に出るのは、自分を責めるような思考。
目の奥が、じん、と熱くなる。

涙ではなかった。ただ、血の気が引いていく感覚と混ざって、思考がまとまらない。

昨日までの笑顔が、まるで悪い冗談に思える。

――なぜ。
どうして。

昨日まで、ここは「安心できる場所」だったのに。

そんな風に考えていた自分が、今では信じられない。

殴りたい。

昨日までの自分を、叱り飛ばしたい。

ぎゅっと拳を握る。
震える手。爪が、掌に食い込むほど強く握っていた。


そして、そのとき。

視界の隅――
店の通路の向こうに、見覚えのある影が映り込んだ。

黒いジャケット、無造作な髪。
あの、背中。

「中町、先輩……っ」

声にならない言葉が、胸の奥に引っかかる。

ヒロトが、こちらの席を一瞥する。
その眉が、わずかに顰められた。

しかし。
気づいて、と叫ぶようなキリカの思いは届かず。

ヒロトは、そのまま視線を逸らし、何も言わずに、ただ背を向けた。


がらん、と音がしたわけでもないのに。
キリカの中で、何かが音を立てて崩れ落ちていく感覚があった。

この空間で、息ができない。
どこにも、逃げ場がなかった。

笑い声が、遠くなっていく。

店内の明るさが、妙に白くにじんで見えた。

この夜が、いつ終わるのか。

それすらも分からないまま――
キリカは、そっと視線を落とした。
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