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〇1章【すれちがいと夜】
1節~先輩~ 6
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午後の業務が始まった。
フロアには、まばらなタイピング音とマウスのクリック音が響く。
けれど、その音はどこかぎこちなく、乾いた響きに聞こえた。
――空気が違う。
朝よりも濃く張り詰めた気配が、チームの一角を覆っている。
理由は、誰の目にも明らかだった。
ヒロトの席から、完全に覇気が消えていた。
開いた資料の画面を睨んでいるが、手は止まりがちで、指先は空を打つだけだ。
集中しているというより、考えが堂々巡りになり、出口を失っているように見えた。
そして、その隣。
キリカは背筋を伸ばしたまま、無表情でモニターを見つめている。
しかし、その瞳に映っているのは情報ではない。
何かを拒むように、心の扉を閉じてしまった人間の、遠く冷えた視線だった。
「……ねぇ、さっき二人で会議室行ってたよね?」
すみれがしおりにだけ聞こえる声でつぶやく。
しおりは眉をひそめ、視線だけで「うん、見てた」と返した。
ふたりの間に、会話はなかったが、答え合わせはすでに完了していた。
――どうして、こうなってるの。
胸の奥でしおりたちは同じ疑問を抱く。
朝よりも悪化しているのは明らかで、そこに漂う空気は最悪に近かった。
言葉を交わさなくても伝わる空気がある。
だが、それが張り詰めた緊張感であるときほど、場は重くなる。
ちひろですら、いつもの茶化しを口にできず、無言で手を動かすしかなかった。
そのときだった。
「カツ、カツ、カツ」
ヒールの音が、床に響いた。
硬質で、無駄のない、しかし聞く者の背筋を伸ばさせる、特有のリズム。
誰もが顔を上げる前に、その音の持ち主と、目的を悟った。
ヒロトの席で音が止まる。
「……中町くん。ちょっといい……?」
それは、穏やかさを意識したトーンだった。
しかし、その声を聞いたヒロトの背筋が、ぴくりと反応する。
「ああ、この項目だ、け……」
言いかけて顔を上げたとき。
ヒロトの口が固まった。
「ひいっ……!?」
向かいにいたちひろが、思わず小さく悲鳴を上げる。
麻衣は笑っていた。
口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。
だが、その目は凍るように細く、頬がぴくりと引きつっていた。
「……ちょっとお時間よろしいでしょうか、中町ヒロトくん?」
「……はい。もちろんでございます」
ヒロトの声には、完全に敗北の色があった。
誰が見ても、「これは詰められる」という予感が明白だった。
「じゃあ……来て?」
麻衣は踵を返す。
ヒロトは無言で立ち上がり、彼女の後を追う。
しおり、ちひろ、すみれの三人が、そろって顔を見合わせる。
「……うわぁ……」
ちひろの一言に、ふたりは深くうなずいた。
だが、当の本人——キリカは。
彼らの様子など、まるで関係ないとばかりに、ただ黙ってモニターを見つめ続けていた。
無表情のまま、止まった画面に視線を落とし、まるで「何もなかった時間」の中に、自分を閉じ込めているようだった。
フロアには、まばらなタイピング音とマウスのクリック音が響く。
けれど、その音はどこかぎこちなく、乾いた響きに聞こえた。
――空気が違う。
朝よりも濃く張り詰めた気配が、チームの一角を覆っている。
理由は、誰の目にも明らかだった。
ヒロトの席から、完全に覇気が消えていた。
開いた資料の画面を睨んでいるが、手は止まりがちで、指先は空を打つだけだ。
集中しているというより、考えが堂々巡りになり、出口を失っているように見えた。
そして、その隣。
キリカは背筋を伸ばしたまま、無表情でモニターを見つめている。
しかし、その瞳に映っているのは情報ではない。
何かを拒むように、心の扉を閉じてしまった人間の、遠く冷えた視線だった。
「……ねぇ、さっき二人で会議室行ってたよね?」
すみれがしおりにだけ聞こえる声でつぶやく。
しおりは眉をひそめ、視線だけで「うん、見てた」と返した。
ふたりの間に、会話はなかったが、答え合わせはすでに完了していた。
――どうして、こうなってるの。
胸の奥でしおりたちは同じ疑問を抱く。
朝よりも悪化しているのは明らかで、そこに漂う空気は最悪に近かった。
言葉を交わさなくても伝わる空気がある。
だが、それが張り詰めた緊張感であるときほど、場は重くなる。
ちひろですら、いつもの茶化しを口にできず、無言で手を動かすしかなかった。
そのときだった。
「カツ、カツ、カツ」
ヒールの音が、床に響いた。
硬質で、無駄のない、しかし聞く者の背筋を伸ばさせる、特有のリズム。
誰もが顔を上げる前に、その音の持ち主と、目的を悟った。
ヒロトの席で音が止まる。
「……中町くん。ちょっといい……?」
それは、穏やかさを意識したトーンだった。
しかし、その声を聞いたヒロトの背筋が、ぴくりと反応する。
「ああ、この項目だ、け……」
言いかけて顔を上げたとき。
ヒロトの口が固まった。
「ひいっ……!?」
向かいにいたちひろが、思わず小さく悲鳴を上げる。
麻衣は笑っていた。
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だが、その目は凍るように細く、頬がぴくりと引きつっていた。
「……ちょっとお時間よろしいでしょうか、中町ヒロトくん?」
「……はい。もちろんでございます」
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「じゃあ……来て?」
麻衣は踵を返す。
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「……うわぁ……」
ちひろの一言に、ふたりは深くうなずいた。
だが、当の本人——キリカは。
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無表情のまま、止まった画面に視線を落とし、まるで「何もなかった時間」の中に、自分を閉じ込めているようだった。
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