男と女の悲しい性(さが)

しらかわからし

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第1章

第1話:渇きの扉

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「ダメだってば……。今日の和也くん、ちょっと様子が違うわよ」

洗髪を終え、タオルで髪を拭いていた朋子は、軽く笑いながらそう言った。だがその声の奥には、戸惑いと微かな緊張が滲んでいた。

和也は幼馴染。地元の幼稚園から中学までを共に過ごした間柄だ。彼は美容室に来るたび、朋子に冗談めかして言い寄ってくる。今日もまた、同じように。

「トモちゃん。俺、もう我慢できないよ。一回だけ、いいだろ?」
彼の声は低く、どこか切実だった。朋子の背後に立つ和也の手が、スカート越しに腰へと伸びてくる。朋子は身じろぎしながらも、拒絶の言葉を口にできなかった。

十年前、夫との喧嘩の直後だった。朋子は和也に、長年のセックスレスを打ち明けてしまった。あのときの自分は、誰かに聞いてほしかっただけだった。だが、それが二人の関係の始まりだった。

朋子は二十五年前に結婚した。初夜に授かった息子は、彼女の人生の中心だった。だが出産後、子宮頚管裂傷の治療が必要になり、その時期は夫との性交ができなかった。

治療後、一度だけ夫婦の関係があった。ただ、その当時の夫は仕事が多忙を極めていた。結果、交わる事はなかった。それ以降、朋子が夫に「抱いて」と頼んでも、夫は「疲れているから」と拒否し続けた。

その後、子育て、自宅の新築、美容室の開業と、目まぐるしい日々が続いた。性のことなど、考える余裕もなかった。
夫婦仲はもともと淡白だった。だが、息子の存在が、家庭の形を保っていた。

その息子が就職し、家を出た。ぽっかりと空いた心の穴に、和也の存在が入り込んだ。美容室の隣は自宅。今は誰もいない。けれど、朋子は生真面目で臆病な性格だ。和也の求めに応じることは、境界を越えることだった。彼の手が触れるたび、理性と欲望がせめぎ合う。心臓が早鐘を打ち、背中に冷たい汗が流れる。

夫の帰宅、次の予約客の来店、そんな現実が頭をよぎる。
朋子は和也の顔を見上げた。彼の瞳には、抑えきれない熱が宿っていた。その眼差しに、彼女の不安は少しずつ溶けていく。
「なあ、トモちゃん。少しだけでいい。誰も見ていないんだ」
その囁きが、耳の奥に残る。二十数年、誰にも触れられなかった身体が、静かに反応していた。
朋子は目を閉じ、短く息を吐いた。
「でも、お客さんが……」

その声は、もはや拒絶ではなかった。
和也は黙って彼女の腰を引き寄せた。
久しぶりに感じる男の体温が、朋子の心を揺らした。
理性と欲望の綱引きは、静かに傾き始めていた。

◇◆◇

電話のベルが、空気を切り裂いた。
「和也くん、ちょっと待って」
朋子は慌てて身体を離し、受話器を取った。
声は、いつもの美容師のそれに戻っていた。

「はい、美容室フラワーガーデンです」
予約の応対を終え、受話器を置く。
朋子は和也に向き直り、静かに言った。
「ごめんなさい」

和也は無言で立ち上がり、店内の死角にあるトイレへと朋子の手を引いた。その強引さは、朋子の中にあった迷いを、言い訳のように正当化した。狭いトイレの中、和也は彼女を見つめた。
「トモちゃん、いいだろう?」

朋子はそっと腕を伸ばし、彼の首に回した。そして、唇を重ねた。それは、長い年月を経てようやく交わされた、静かな口づけだった。

◇◆◇

その後のことは、誰にも語られることはない。
ただ、朋子の頬には、安堵と満足の色が浮かんでいた。
「和くん、ありがとう」
その一言に、長年抱えていた孤独と渇きが滲んでいた。
和也は何も言わず、朋子の髪を優しく撫でた。

◇◆◇

次の客が駐車場に入ってくるのが見えた。
和也は急いで声をかける。
「トモ、また連絡するから」
朋子は頷いた。
「うん、LINEでね!」

彼女の美容室は、田舎町に似つかわしくないモダンな建物だった。
十二年前、自宅の新築と同時に建てた。オレンジ色の扉とグリーンの腰壁が印象的なその店は、朋子の人生そのものだった。

夫は隣市で営業職に就いている。
一年ほど前から、パチンコ店でのダブルワークを始めた。
疲労が溜まり、家族に当たることも増えた。

朋子は定期的に産婦人科に通っていた。
医師からは「この状態では夫婦生活は難しいでしょう」と言われ、薬を処方されていた。
そのときは、必要ないと思っていた。
だが今は、あの薬に感謝している。

和也は、国道沿いのガソリンスタンドを継いでいる。
妻と共に店を切り盛りしていたが、朋子との関係に気づいた妻は、美容室に来なくなった。
和也はそれでも通い続けた。
朋子の勧める化粧品を買い、事務所の机に鍵をかけて隠した。
彼にとって朋子は、日常の中の、静かな逃避場所だった。

つづく


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