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第5話
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今月第1週の練習。正夫は、いつものように練習場に足を運んだ。体操、呼吸、発声――毎度お決まりの流れだが、今日は少し違う。テーマは「呼気時と吸気時、常に喉を開けておくこと」。2月から取り組んできた「喉開けの徹底」だが、なかなか思うようにいかない。
「週に一度の練習じゃ、体得は難しいな……」正夫は内心でそう思う。毎回練習のたびに、「あ、そうだ」と思い出したかのように喉開けを意識する。しかし、日常的にその感覚を体に叩き込むには、明らかに時間が足りない。
それでも、正夫は工夫していた。生活の中で、何気ない瞬間に喉開けを意識するよう心掛けていた。だが、忙しい日々の中では、その最重要課題をどうしても忘れてしまうこともあった。壁にぶつかるのは、自覚があった。しかし彼は、その壁を乗り越えるべく、決して諦めるつもりはなかった。
「発声を本当に変えたいなら、まずは生活そのものを変えなければならない」。そう頭では分かっている。だが、いざ実行に移すと、どうしても足が止まる。正夫は思う。「芸術の神様は、試練を与えるもんだ」と。
合唱の頂き、その輝く頂に近づこうとすればするほど、目の前には意地悪な壁が立ちはだかる。まるで、目指す高みへの道筋を阻むかのように。しかし、正夫はこうも感じていた。流れに逆らわず、ただ身を任せるのも一つの生き方かもしれない。けれど、それは一瞬の夢にすぎないと知っていた。
そんな彼を動かしていたのは、憧れの薫子に認められたいという一心だった。だからこそ、彼は眠れぬ夜を過ごしていた。
第2週の練習のテーマは「音色を揃えること」。合唱で「合わせる」とは何か、それを学んだ。特に先生は「音色」を揃えることの重要性を強調されたが、具体的にどうすれば良いのか、実践を通して体感することが求められた。
そのために、薫子は二人の団員を選び、一節を繰り返し歌わせた。最初はぎこちなく、音が溶け合わない。だが、試行錯誤を重ねるうちに、徐々に音色が一体化していった。二人という限られた状況で、相手の声を聴かざるを得ない切迫感が生まれ、嫌でも音を揃えざるを得なかったのだ。
次に三人目、四人目と加わり、音色はまた乱れたが、同じ手法を繰り返すことで、再び一体感が生まれてきた。正夫はその場に立ち会い、隣の人と音色を合わせるために自分が何をすべきか、ひたすら考え続けた。
その際、一部のメンバーは音量を下げ、自分の存在感を消そうとした。しかし、薫子はそれでは寂しすぎると指摘する。「合唱で最も大切なのは、聴くことです。耳を傾けることが、今の我々が乗り越えるべき壁なんです」と薫子は熱く語った。
しかし、3小節目の和音が決まらない。特にバリトンのH音がやや上ずっていた。薫子は、これがバリトンだけの問題ではないことを見抜いていた。ベースの根音が不統一で、セカンドの音が割れている。それが、全体に影響を与えていたのだ。
「オクターブになってないじゃないですか!?」と、厳しい口調で薫子は指摘する。トップのE音が欠如していて、ダイナミクスも崩れていた。
「メジャーセブンスでハモらない原因の多くは、ルート音に問題があることが多いんです」と薫子は言ったが、校長はそれをバリトンの責任にしようとした。薫子は、校長の判断に対し疑問を投げかけた。後の食事の席で、薫子は正夫にそのことを熱く語った。
その食事の場所は、いつも正夫のマンションの一室。話が盛り上がると、その頃の薫子は入浴をしてそのまま正夫のベッドに入って彼の腕の中で眠ることも増えていた。彼女と過ごす時間が、正夫にとっては一服の清涼剤だったのだ。
つづく
「週に一度の練習じゃ、体得は難しいな……」正夫は内心でそう思う。毎回練習のたびに、「あ、そうだ」と思い出したかのように喉開けを意識する。しかし、日常的にその感覚を体に叩き込むには、明らかに時間が足りない。
それでも、正夫は工夫していた。生活の中で、何気ない瞬間に喉開けを意識するよう心掛けていた。だが、忙しい日々の中では、その最重要課題をどうしても忘れてしまうこともあった。壁にぶつかるのは、自覚があった。しかし彼は、その壁を乗り越えるべく、決して諦めるつもりはなかった。
「発声を本当に変えたいなら、まずは生活そのものを変えなければならない」。そう頭では分かっている。だが、いざ実行に移すと、どうしても足が止まる。正夫は思う。「芸術の神様は、試練を与えるもんだ」と。
合唱の頂き、その輝く頂に近づこうとすればするほど、目の前には意地悪な壁が立ちはだかる。まるで、目指す高みへの道筋を阻むかのように。しかし、正夫はこうも感じていた。流れに逆らわず、ただ身を任せるのも一つの生き方かもしれない。けれど、それは一瞬の夢にすぎないと知っていた。
そんな彼を動かしていたのは、憧れの薫子に認められたいという一心だった。だからこそ、彼は眠れぬ夜を過ごしていた。
第2週の練習のテーマは「音色を揃えること」。合唱で「合わせる」とは何か、それを学んだ。特に先生は「音色」を揃えることの重要性を強調されたが、具体的にどうすれば良いのか、実践を通して体感することが求められた。
そのために、薫子は二人の団員を選び、一節を繰り返し歌わせた。最初はぎこちなく、音が溶け合わない。だが、試行錯誤を重ねるうちに、徐々に音色が一体化していった。二人という限られた状況で、相手の声を聴かざるを得ない切迫感が生まれ、嫌でも音を揃えざるを得なかったのだ。
次に三人目、四人目と加わり、音色はまた乱れたが、同じ手法を繰り返すことで、再び一体感が生まれてきた。正夫はその場に立ち会い、隣の人と音色を合わせるために自分が何をすべきか、ひたすら考え続けた。
その際、一部のメンバーは音量を下げ、自分の存在感を消そうとした。しかし、薫子はそれでは寂しすぎると指摘する。「合唱で最も大切なのは、聴くことです。耳を傾けることが、今の我々が乗り越えるべき壁なんです」と薫子は熱く語った。
しかし、3小節目の和音が決まらない。特にバリトンのH音がやや上ずっていた。薫子は、これがバリトンだけの問題ではないことを見抜いていた。ベースの根音が不統一で、セカンドの音が割れている。それが、全体に影響を与えていたのだ。
「オクターブになってないじゃないですか!?」と、厳しい口調で薫子は指摘する。トップのE音が欠如していて、ダイナミクスも崩れていた。
「メジャーセブンスでハモらない原因の多くは、ルート音に問題があることが多いんです」と薫子は言ったが、校長はそれをバリトンの責任にしようとした。薫子は、校長の判断に対し疑問を投げかけた。後の食事の席で、薫子は正夫にそのことを熱く語った。
その食事の場所は、いつも正夫のマンションの一室。話が盛り上がると、その頃の薫子は入浴をしてそのまま正夫のベッドに入って彼の腕の中で眠ることも増えていた。彼女と過ごす時間が、正夫にとっては一服の清涼剤だったのだ。
つづく
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