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第1章:娘婿と私
第12話:灯をともす声
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港の待合室で再会してから、数日が過ぎた。
あの夜、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。
ただ、並んで座り、風の音に耳を澄ませていた。
その後、康彦は何も言わずに一度、島を離れた。
仕事がある身だ。彼が無理をして時間を作り、私を追ってきたことは痛いほど分かっていた。
そして、三日後の夕暮れ。
玄関の引き戸を叩く音がした。
私は胸の高鳴りを抑えながら、そっと戸を開けた。
「こんばんは」
康彦が、そこにいた。
数日前に会った時よりも、その眼差しには静かな覚悟のようなものが宿っていた。
「話がしたくて……少しだけ、いいですか」
私は頷き、彼を部屋に招き入れた。
畳の上に座布団を並べ、湯を沸かす。
急須から立ちのぼる湯気が、二人の間の空気をやわらかく包んだ。
「ここでの暮らしは、落ち着いていますか?」
「ええ。朝は波の音で目が覚めて、夜は虫の声に包まれて眠るの。贅沢な隠居生活ね」
私は努めて明るく答え、微笑んだ。
康彦さんは湯呑を見つめたまま、絞り出すように言った。
「僕は……麻衣子さんを忘れようとした。でも、できなかった」
「私もよ。けれど、もう義母としての私には戻れないの」
「僕は、あなたを義母として見ていない。一人の、愛おしい女性として……」
その言葉に、私は息を呑んだ。
かつてホテルオークラの助手として松谷さんの背中を追っていた頃のような、瑞々しい痛みが胸を走る。
「美月は、もうすぐ出産です」
康彦さんの声が、少しだけ震えていた。
「美月は、強い人だ。僕なんかより、ずっと……」
「ええ、あの子は強いわ。あなたの帰りを信じて、新しい命を迎えようとしている」
自分の娘を称える言葉が、同時に自分への刃となって突き刺さる。
それでも、今、目の前で震えているこの男を放っておくことはできなかった。
夜が深まるにつれ、部屋の灯りが柔らかく揺れる。
私たちは、言葉にならない想いを重ね合わせた。
肌が触れ合い、心が重なっていく時間は、かつての背徳感とは違う、もっと静かで深い、共依存の深淵に似ていた。
「麻衣子さん……」
彼が私の名を呼ぶたびに、胸の奥が熱くなる。
私は、彼の胸にそっと寄り添った。
「今夜は、ここにいてもいいですか?」
その問いに、私は答えなかった。
ただ、彼の手を強く握り返した。
それが、私のすべてを賭けた、最期の過ちの始まりだった。
その『背中に視線が貼りつくような、逃げ場のない重い鎖』が、康彦の心を締めつけ、私をこの島へと追いやったのだと、胸の奥で痛いほど理解していた。
それでも私は、彼の手を離せなかった。
――つづく。
あの夜、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。
ただ、並んで座り、風の音に耳を澄ませていた。
その後、康彦は何も言わずに一度、島を離れた。
仕事がある身だ。彼が無理をして時間を作り、私を追ってきたことは痛いほど分かっていた。
そして、三日後の夕暮れ。
玄関の引き戸を叩く音がした。
私は胸の高鳴りを抑えながら、そっと戸を開けた。
「こんばんは」
康彦が、そこにいた。
数日前に会った時よりも、その眼差しには静かな覚悟のようなものが宿っていた。
「話がしたくて……少しだけ、いいですか」
私は頷き、彼を部屋に招き入れた。
畳の上に座布団を並べ、湯を沸かす。
急須から立ちのぼる湯気が、二人の間の空気をやわらかく包んだ。
「ここでの暮らしは、落ち着いていますか?」
「ええ。朝は波の音で目が覚めて、夜は虫の声に包まれて眠るの。贅沢な隠居生活ね」
私は努めて明るく答え、微笑んだ。
康彦さんは湯呑を見つめたまま、絞り出すように言った。
「僕は……麻衣子さんを忘れようとした。でも、できなかった」
「私もよ。けれど、もう義母としての私には戻れないの」
「僕は、あなたを義母として見ていない。一人の、愛おしい女性として……」
その言葉に、私は息を呑んだ。
かつてホテルオークラの助手として松谷さんの背中を追っていた頃のような、瑞々しい痛みが胸を走る。
「美月は、もうすぐ出産です」
康彦さんの声が、少しだけ震えていた。
「美月は、強い人だ。僕なんかより、ずっと……」
「ええ、あの子は強いわ。あなたの帰りを信じて、新しい命を迎えようとしている」
自分の娘を称える言葉が、同時に自分への刃となって突き刺さる。
それでも、今、目の前で震えているこの男を放っておくことはできなかった。
夜が深まるにつれ、部屋の灯りが柔らかく揺れる。
私たちは、言葉にならない想いを重ね合わせた。
肌が触れ合い、心が重なっていく時間は、かつての背徳感とは違う、もっと静かで深い、共依存の深淵に似ていた。
「麻衣子さん……」
彼が私の名を呼ぶたびに、胸の奥が熱くなる。
私は、彼の胸にそっと寄り添った。
「今夜は、ここにいてもいいですか?」
その問いに、私は答えなかった。
ただ、彼の手を強く握り返した。
それが、私のすべてを賭けた、最期の過ちの始まりだった。
その『背中に視線が貼りつくような、逃げ場のない重い鎖』が、康彦の心を締めつけ、私をこの島へと追いやったのだと、胸の奥で痛いほど理解していた。
それでも私は、彼の手を離せなかった。
――つづく。
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